22.星群
「…………」
いつも何事にも動じない蒼君とはいえ、電話をかけた相手にいきなり泣き出されては、さすがに、そういうわけにもいかなかったのかもしれない。
スマホの向こうで、蒼君は、言葉を呑み込んでそのまま黙りこんでしまった。それは判ったが、私はどうしても、自分の意志で泣くのを止められなかった。
ああ、駄目だよな、こんなの蒼君がびっくりするに決まってる、早く涙を止めて何かを言わないと──と、頭の片隅の冷静なごく一部分が自分をそう窘めるのだけれど、込み上げてくるものが大きすぎて、どうにもならない。
目の奥がじんじん痺れて痛い。
頭も、胸も、何もかもが痛い。
私が立っていたのは普通の住宅街の一角だったので、時々そばを通りかかる通行人もいたりして、思いきり訝しそうにじろじろと見られていたみたいだったけど、そんなことを気にする余裕もなかった。
怖いとか悲しいとかショックだとか、そういった諸々を通り越して、ひたすら、痛い、痛い、という思いだけが突き上げる。
──痛い。
トモ兄に対する怒りはある。でも罪悪感もある。ついさっき思い出したばかりの和人さんの顔とトモ兄の顔、違っていてもやっぱりどこか共通点のある、そのふたつの顔がダブって揺れる。
どちらも、怒っているような、悲しそうな、私を責めるような表情をしていた。
約束したのに。あんなにも愛し合っていたのに。ずっと、君だけを待ってたのに──
どうして今になって、僕たちを裏切るの、なつ。
私はその問いに対して、どう返していいのか判らない。
奈津と夏凛は違う、とは思っても、けれどこの胸の痛みは奈津の痛みであるのかもしれない、という気持ちもある。
奈津までが、私を責めているのだろうか、と思うと、あまりにも苦しくてたまらない。
あなたは私なのに、どうして、和人さんではない人を選ぶの?
その問いにも、私はちゃんとした返事が出来ない。
わからない、わからないよ、奈津。私だって、どうしてトモ兄を選べないのか、わからない。トモ兄のことはずっと昔から大好きだった。多分、自分の親よりも信頼して、愛していた。
そうだ、そこにあるのは、間違いなく「愛情」だったのだ。今も昔も、変わらずに。
けれども、一人の男の人としては、どうしても私はトモ兄を受け入れられない。唇を重ねても、そこには拒む意志ばかりがあった。拭いきれない違和感に、全身が彼を振り払おうとしていた。
幸福な気分は、どこをどう探しても、欠片も湧いてこなかった。
いやだ、と思ってしまった。
それは、ずっと奈津という女性を愛し続けてきた和人さんとトモ兄への、そして私の中にいる奈津への、はっきりとした背信行為であるのかもしれない。だからこんなに、どこもかしこも痛くて、涙が止まらないのかもしれない。
和人さんと奈津とトモ兄が、私を責める。どうして、どうしてと、傷ついた顔で問い詰める。
どうして?
私はわあわあと泣きながら、ずっと心の中で、三人に対して謝り続けていた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──と。
どれくらい泣いていたのか自分ではよく判らないのだが、不思議なもので、一定時間経つと、私はふいに正気を取り戻した。
取り戻すと同時に、ぴた、と泣くのをやめた。というか、涙はまだ出ているのだが、要するに声を上げることをやめたのだ。やめてはじめて、自分が今まで、ずーっと幼稚園児みたいにあたりも憚ることなくうわんうわんと泣いていたことに気がついて、恥ずかしくなった。本当に、今さらなんだけど。
ぐずぐずとしゃくりあげながら、ようやく、耳に当て続けていたスマホへと意識を向ける。
そういえば、泣いている間、ずっと蒼君は無言のままだった。今になって耳を澄ませても、しんとした沈黙しかない。
切られちゃったかな、とも思ったのだが、画面上は未だ「通話中」の状態になっている。
「……も、もしもし?」
弱々しい泣き声のまま、おそるおそる問いかけてみた。
蒼君があまりのことに呆れてスマホを投げ出していたとしても当たり前だから、返事がないことは覚悟していたのだけれど、驚くことに、反応はすぐにあった。
「……やっと、泣き止んだか」
その呟きと共に、はあー……という、長くて深くて、なんだかものすごくいろいろなものを含んだようなため息が吐き出された。
──どうやら、私の泣きが収まるまで、蒼君はスマホの向こうで、ちゃんと待っていてくれたらしい。
「ご、ごめんなさい」
さっきまで、ずっと心の中で呪文のように唱えていた言葉を口にする。
そうしたら、外に出した分、ほんの少しだけ、何かが軽くなったような気がした。気がした、だけなのかもしれないけれど。
「えっと……」
ぐいぐいと拳で目元を拭いながら、なんて言えばいいのか考えた。
派手に泣いたばかりだからか、私の頭はまだちょっとどこかぼんやりとしているようで、言い訳も説明も、何も思い浮かばない。
ところが私が何かを言う前に、蒼君の方から質問をしてきた。
「お前、今、どこにいる?」
何があったんだ、とか、なんでいきなり泣いてんだ、とか、普通この状況で出されるような内容をすっ飛ばして、そう言った。
「え。い、今?」
唐突な問いに、私は慌てて周囲を見回した。見回して、あれ? と思う。
やみくもに走ってきて、もちろん祖父の家はもう視界にはなく、目に入るのは、見知らぬどこかの誰かの家ばっかりだ。住宅街だから、目立つような大きな建物などもない。祖父の家は私の家からそう離れていないとはいえ、近所というほどでもないので、似たような家ばかりの景色は、私にはまったく馴染みのないものである。
つまり、自分が現在いるところが、私には明確に把握できない。
一言で言うと、迷子だ。
「……どこだろう、ここ」
「…………」
思わず内心をそのまま口に出したら、非常になんともいえない沈黙が返ってきた。普段、何を考えているか今ひとつ掴めない蒼君だけど、この時は、「お前はアホか」と思っているらしいのが、ひしひしと電波を通じて伝わってきた。
「あ、えーとね、大丈夫、表示があるから」
目についた電柱に住所表示の細い看板がついているのを見て、私は慌ててそれを読み上げた。それだけで自分のいる場所が判るほど地名などに詳しくはないのだが、あとでスマホで検索すればいいだろう──と思っていたら、
「ああ、わかった」
と、即座に蒼君の落ち着き払った声が届いた。
蒼君は私と違い、町名を聞いただけで、大体の場所が理解できるらしい。さすが旅人、と私は感心した。
「そこなら多分、ちょっと歩けばすぐ駅に着く。あの駅だと……ちょうどいい」
ナントカ線だから、とぶつぶつ呟いているが、よく聞き取れない。私が、何が「ちょうどいい」のかを訊ねるよりも先に、再び蒼君が口を開いた。
「もう挨拶は終わったんだな?」
「あ……うん」
私はもごりと返事をする。一応、トモ兄を除いた親戚には、あけましておめでとうの挨拶は済んでいるのだから、いいだろうと思うことにした。
「いいか、橘。そこからいちばん近い駅が」
と、蒼君は、私でも聞いたことのある駅名を口にした。
確か、祖父の家の最寄り駅から、ひとつ向こうの駅だな、と思い返して呆れる。私、そんなところまで走って来ちゃったのか。
それから蒼君は、その駅とは違う、とある駅の名前を出して、そこに行け、と私に指示をした。あっち方面の電車に乗って、四つ目の駅だから、間違えるなよ、と念押しもした。よく判らないながら、私は大急ぎで、方面と駅名の、それぞれ言われた名前を頭に叩き込む。
「俺、今から家を出る。多分、お前のほうが先に到着すると思うから、駅の待合室で待ってな。迷わず来られるな?」
「う、うん」
あの、それで、その駅には何が──と聞く前に、電話は切れた。そういう点、蒼君は相変わらずなのだった。
私は少しの間ぽかんと手の中のスマホを見つめてから、すぐに我に返って、きょろきょろとあたりを見回した。えっと、駅、駅、と口の中で呟いて、とりあえず足を動かす。
スマホで検索するよりも、人に聞く方が早いかなあ、と思っていたら、ちょうどすぐ近くの家から、女の人が出てきた。ほっとして、声をかけるべく、小走りに彼女に向かって駆け寄る。
「あのう、すみません、ちょっとお聞きしたいんですけど」
気がつくと、いつの間にか、雪はやんでいた。
──そしていつの間にか、私の涙も止まっていた。
***
無事に駅に到着して、路線図で蒼君に言われた駅名を確認してから、電車に乗った。
いつも私が使う線とは違うから、その駅がどういう場所にあって、何があるのかも判らない。乗客はまあまあいたけれど、そんなに多くはないから、これから向かう方面は、繁華街などとは違うのだろう。
ちらほらと見える着物姿の人も、破魔矢や紙袋を持っている様子からして、これから家に帰るところらしかった。
空いている座席に座り、電車に揺られながら、私は手の中のスマホの真っ黒な画面を眺める。
今頃、祖父の家では、何が話されているんだろうなあ、と考えた。
誰にも何も言わずに飛び出してきてしまったから、夏凛はどこに行った? くらいのことは、間違いなく言われているだろう。あんなに乱暴にドアを開けて、なんて、母親あたりはぷんぷん腹を立てているかもしれない。
……トモ兄は、その疑問になんて答えるのだろう。
ちょっとケンカになって、とか、どうも僕がナツを怒らせてしまったみたいで、とか、あの口当たりの柔らかい言い方で答えるのだろうか。
まだはっきりと傷が残っているに違いない唇を少しだけ上げて、苦笑の形にするのだろうか。
きっとそれだけで、母親は納得するだろう。もう、あの子ったら、またワガママ言ったんでしょう! なんて怒って、トモ兄に対して謝ったりするのだろう。
それやこれやを考えると、とても自分から電話をかける気にはならなかった。母親の携帯にかけて、ほら、知哉君に代わるから、ちゃんと謝りなさい、と強制されるところが簡単に想像できる。
──いつまで、こんなことが続くのかな。
スマホに目を落としながら、悄然と内心で呟いた。
親や親戚の前では仲の良い兄と妹のような関係を演じながら、けれども裏では、こんな風に、だんだんと混迷をこじらせていくばかりなのだろうか。私の言い分をちっとも聞き入れてくれる気のないトモ兄は、この先一体どうするつもりなのだろう。
あんな形で強引にキスされて、拒絶して、もはや私たちの間には、繕いようのない決定的な亀裂が入ってしまった。
「イトコ同士」という縁はこれからだって続いていくのに、またトモ兄と会った時に、私はなんでもない顔をして妹のように振る舞える自信なんてない。
顔を上げると、向かいの窓の外では、見知らぬ景色が軽快なスピードに乗って流れていた。これから晴れていくのか、灰色の雲の間から、太陽の細い陽射しが覗いている。
ガタンガタンという電車の音を聞きながら、ちっちゃい頃、トモ兄と電車に並んで座って、こうして窓の外の景色を見たっけ、と、私はぼんやりと思い出す。
あれはなんだったかな。大人はいなくて、まだ小学校の高学年くらいだったトモ兄と、二人でどこかに遊びに行った帰りだったかな。電車に乗った時には、外はもう暗くなっていた。
散々遊び回って、疲れていた私は、座席に座った途端、ウトウトとしはじめた。トモ兄は優しく、眠いなら僕にもたれて寝るといいよ、と言ってくれたんだっけ。
幼かった私は、素直にその言葉に甘えて、今考えるとまだ小さな、けれど当時の私にとっては頼もしく大きな身体に寄りかかり、窓の外を流れていく夜空をぼんやりと半目で追っていた。
トモ兄も一緒に、そちらをじっと見つめていた。
しいんとして、他にあまり乗客もいなくて、冷房が効きすぎた車内は、ちょっと肌寒いくらいだった。
ああそうだ、夏の暑い日だった。だって、うつらうつらしながら、トモ兄が私に話しかけてくれていた内容を、覚えてる。
ナツ、この時期はね、「夏の大三角」っていうのがよく見えるんだよ。
こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブ。その三つの星が、夜空に三角形を描いてるんだ。
その三つの星のうち、ベガとアルタイルは、織姫と彦星とも呼ばれてる。ナツも知ってるだろ? 七夕の日だけに会うことのできる、恋人同士。
三角形を作る星は三つなのにね。恋人同士なのは、そのうち二つなんだ。
……ねえ、ナツ。
残された一つは、悲しくないのかな。どんな気分で、繋がった三角形の他の二つの星を、眺めているのかな。
暗い闇の中で、自分だけが取り残されたような気持ちで、仲の良い恋人たちを見ているんじゃないのかな。
だって、祝福なんて、できないよ。
悔しくて、寂しくて。
僕ならきっと、たまらない──
トモ兄は昔から、星の好きな子供だった。中学、高校と、天文学部に所属していたくらいだ。私にもよく星座のことなんかを教えてくれたけれど、その時のトモ兄の声は、私に説明するというよりは、ほとんど独り言のようなものだった。
私はトモ兄の話を耳に入れながら、いつしか、ぐっすりと眠ってしまった。
静かな声と、頭越しに伝わる温もりと、身体を揺らす穏やかな振動と、自分たちを包む星々の明かりと。
その時の私の世界は、それだけで綺麗に完結していた。
とても、満足だった。
その小さな小さな世界で、私は心から、幸せだったのだ。
……でも、あの頃にはもう、戻れない。
悩んだ挙句、私は母親あてに、友達と会ってくる、そのまま直接家に帰る、という旨のメールを打ち、スマホをマナーモードにして、バッグの底に押し込んだ。
着信があっても気づかないかもしれないが、しょうがない。不可抗力だ、と、自分自身に言い訳する。蒼君とは、このまま何事もなければ指定された駅で落ち合えるのだろうし、きっと問題ない。
ふう、と小さな息を吐いて、私は座席にもたれて、また窓の外へと顔を向けた。
流れていく景色。進んでいく時間。
ここまで来てしまったら後戻りはできない。時間を巻き戻すことは不可能で、進む先はあまりにも不透明。しかも、漠然とした不安に満ちている。
何もかも判らないことだらけで、私はまだ、未来に向けて、なんの準備も整理も出来ていない。
……けれど、とりあえず。
私はトモ兄と二人きりで作った世界を飛び出して、こうして蒼君に会うために知らない景色の中を電車に揺られて進んでいる。
それは少なくとも、今の時点で私が出した「答え」なのではないか、と思った。




