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遠くの星  作者: 雨咲はな
21/43

21.背信



 私は言葉を失い、トモ兄の顔を凝視した。

 トモ兄は薄く冷ややかな微笑を浮かべたまま、黙っている。

「……調べたの?」

 ようやく口から出た声は、自分のものとは思えないくらい低かった。


 衝撃よりも動揺よりも、今この時の私の中にあったのは、もっと強くて、もっと静かで、もっと熱いものだった。

 マグマのように、ふつふつとたぎり、冷えれば固くなるだけだ。


 トモ兄は、私の問いに、ゆるりと目を細めた。この問題はこの公式を使えば簡単に答えが出るんだよ──と、中学生に数学を教える時のように。

「調べるなんて、そんな手間をかけるほどのものでもなかったよ。ナツのバイト先の本屋が、どこにあるのかは知っているんだし」

「…………」

 店に行ったのか。いつだ。まさか今日、ここに来る前に?

「ナツとは同じ高校の同級生なんだってね」

 そんなことまで……と私は拳を握ったが、トモ兄は平然とした態度を崩さない。まるで世間話でもしているような、淡々とした言い方だった。

 トモ兄はこの容姿だし、人に対する姿勢も口調も柔らかで、相手に警戒心というものを起こさせない。適当な口実を作って問いかければ、誰からだって、容易く聞いた以上の答えを引き出すことが出来るだろう。

 バイト仲間か、店長か、誰がトモ兄に対して喋ったにしろ、私はその人を責める気なんてない。でも。


 ──でも、こんなやり方は、あまりにも。


 私は唇を引き結び、無言で足を踏み出した。

 頭の中が、怒りと悲しみで飽和状態になっている。熱いものがぱんぱんに詰まっているようで、うっかりすると涙が落ちていきそうだった。こんな状態でトモ兄と冷静に話が出来るとは思えない。

 泣きながら文句を言い立てたって、トモ兄は子供をあしらうように対処するだけだろう。それでは、今までとまったく同じだ。

「待ちなさい、ナツ」

 スマホを持ったまま客間の襖戸に手をかけたところで、素早く立ち上がったトモ兄に反対側の腕を取られた。

 ぐっと引っ張られ、強引にトモ兄のほうに向けさせられる。

 どこまで私の意志を無視するのかと、私はかっとなった。

「トモ兄──」

「ナツ」

 いい加減にして、という憤りの言葉は、トモ兄の顔を見た途端、喉から出る手前で萎んで止まった。

 それくらい、トモ兄は見たこともないような険しい目をしていた。

 トモ兄が私の両肩を掴む。痛いくらいの手の力に、私は怒りを忘れて身を固くした。こういう時のトモ兄は危険だと知っている。本能的に逃げようとしたが、掴んでいる手はびくともしない。


「ナツ、僕の名前を呼んでごらん」


「……な、に」

 いきなりの要求に、私は戸惑って言葉に詰まる。

 何を言ってるんだろう、とトモ兄の顔を見返したが、彼はひどく真剣な眼差しを私に注いでいるだけだ。深い色をした目が、こちらを覗き込んでいた。

「ト……トモ、兄?」

「違う」

 うろたえながら出した私の呼びかけを、トモ兄ははっきりと否定した。ますますわけが判らなくて、私は口を噤むしかない。

 トモ兄はトモ兄なのに、一体、何を言っているのだろう?

「僕の名前だ」

「──だから」

「君がさっき、眠りながら口に出していた」

「…………」

 ようやく、トモ兄の求めているものがなんなのかを悟った私は、いましがた戻ってきた血の気をまた失くしそうになった。

 夢を見ながら、名前を呼んでいたのか、私は。

 よりにもよって、トモ兄の目の前で。


 和人さん、と?


「……ちが」

「何が違うの」

 首を小刻みに振りながら、震える声を出した私に、トモ兄は間髪入れずに追及してきた。強い視線はひたと私に据えられたまま、性急なくらいの問い詰め方だった。

「い、いつもの夢を見ただけだよ。これまでと同じ内容だよ。桜の──」

「そうかい?」

 いつもすぐに私の嘘を見破ってしまうトモ兄の口元が歪んでいる。

 怒っているのか、笑っているのかも、よく判らない。肩を掴まれた手に、さらに力がこもって、骨がみしみしと軋むようだった。

「今までずっと、名前を呼ぶ手前で夢が途切れていたのに、今日に限ってその続きを見たということかな。……そうじゃないんだろう? ナツ。新しく記憶を取り戻して、それで僕の名前を思い出したんだろう?」


 ためらいもなく、「僕の名前」と、トモ兄は言う。

 夏凛である私が、未だに奈津という存在に上手く馴染めないのと違い、トモ兄は前世の「和人」という人物を、完全に自分の中に取り込んでいるのだろうか。


「僕のことを、思い出したかい」

 抑えるような声音で問われて、私は何も反応を返すことが出来ない。首を振ることも、頷くことも。

 私のすぐ前にいるトモ兄の顔も声も、和人さんのそれとは違う。和人さんはもう少しほっそりとして、男の人なのにたおやかで、トモ兄よりも物静かな雰囲気があった。

 こんなことを思ってしまうほどに、私の脳裏にはもう、くっきりとしたあの像が刻み込まれている。

「……トモ」

「知哉じゃない、和人だ」

 トモ兄はわずかに苛立たしげに遮ってそう言った。

 「和人」であることを強調するトモ兄の姿に、私は違和感を覚えずにはいられない。

 だって、ねえ、トモ兄。



 ……なぜ、そんな風に、今の「知哉」のほうを、否定するの?



「僕は、和人の名前を君に教えなかった。ナツも、知ろうとはしなかったね。眠りながら、君の口からその名前が出たのを聞いて、僕がどれほど嬉しかったか、判るかい?……君が自分でその名前を思い出してくれるのを、僕はずっと待ってたんだ。君が、はっきりと僕を思い出してくれるのを」

「…………」

 ずっと、待ってたのに──と呟かれた声が重なった。

 奈津が年頃の娘になるまで、自分を受け入れられるくらいの年齢になるまで、近くで見つめながら、ただひたすら待っていた和人さん。ようやく思いが通じて結婚の約束をした時、二人はどれほど幸福だっただろう。

 それが奈津の死によって引き裂かれて、恋人たちは後世に希望を託したのだろうか。

 和人さんの記憶を持ったトモ兄は、今度は幼い私が成長するのを見守りながら、奈津の記憶を取り戻すまで、自分のことを思い出すまでと、ずうっと待ち続けていたのだろうか。


 それは、寂しい──ことだっただろうか。


「……っ」

 我慢できなくなって、私の目から涙がぽろりと零れ落ちた。

 若いうちに世を去ってしまった奈津は可哀想だ。やっと手に入れた恋人を失った和人さんは可哀想だ。

 けれど。


 ……前世の記憶に縛られ続けるトモ兄と私も、可哀想だ。


 知哉として、夏凛として、トモ兄と私は、それぞれこの場所に足をつけて、今、この世を生きているではないか。親があり友人があり自分の世界があり、頑張って精一杯、知哉と夏凛の生を進んでいる途中ではないか。

 本当だったら、トモ兄も私も、自分の前にある「現在」だけを見ながら、まだ真っ白な未来に向けて、その道を進んでいけるはずだったのに──



 私たちは、前世の記憶なんて、持って生まれてくるべきではなかったのだ。



「……トモ兄、クリスマスの日に、女の人と一緒にいたよね?」

 少しの間の後で私が出した唐突な問いかけに、トモ兄ははじめて驚いた顔をした。

「女の人?」

「私もあの日、出かけてたの。二人で並んで歩いてるところを見たよ」

「……ああ」

 私がそう言うと、トモ兄は何を考えているのかよく判らない無表情になった。

 肩を掴んでいた手が、ようやく、ゆっくりと離れていく。

「大学の、同級生だよ。別に、ナツが心配するような仲じゃない」

「そんなことが言いたいんじゃないよ」

 トモ兄を見返して、きっぱり言った。落ち着いた声が出せたことに、誰よりも自分自身がほっとした。

「トモ兄があの人と歩いてるのを見てね、私はそういうのが、すごく自然だな、って思ったんだよ。トモ兄の隣にいる人は、私じゃなく、ああいう女の人であるべきだと思う。私とトモ兄は、イトコ同士、っていう関係がいちばんしっくりくる。たとえ前世が恋人同士だったんだとしても、結婚の約束をしていたとしても、今の世でまた同じにならなきゃいけない、っていうのは、やっぱり不自然だし、おかしいよ」


 前の世で恋仲だった二人が、この世で偶然巡り会ってまた恋に落ちる──という話ならともかく。

 前世で交わした約束を叶えるために現世で一緒にいる、というのは、私には、どう考えたっておかしいとしか思えない。


「…………」

 トモ兄は表情を変えないまま、黙って私を見つめている。

「ねえトモ兄、いつまでも前世を引きずるのはやめよう? 奈津や和人さんの記憶は、私たちの中で静かに眠らせて、私たちは私たちの人生を進んでいこう? トモ兄の周りには、私なんかよりももっとトモ兄にぴったり合う女の人がいるはずだよ」

 クリスマスの日、トモ兄の隣を歩いていた綺麗な女の人の姿を思い返しながら、私は一生懸命に言った。

 トモ兄に向けられた、ひたむきで真っ直ぐな眼差し。ああいう人なら、きっとトモ兄と誠実に付き合っていける。

 トモ兄はずっと、誰にも本気にはならずに軽い付き合いばかりを繰り返していたという。奈津との約束があるからと、今までのトモ兄がずっと自分の心を抑え込んでいたのだとしたら、それは奈津にとってもトモ兄にとっても、不幸なことだ。

 私が蒼君のそばにいるだけで何より安心するように、トモ兄にはトモ兄の、息をつける場所が、ちゃんとあるはずなのだ。


 その場所は、私の隣じゃない。


「……それで?」

 トモ兄がわずかに唇を吊り上げた。

 いつも穏やかに微笑する口元が、こんなにも皮肉な色合いに彩られるのを見るのはつらかった。

「それで、前世のことはなかったことにしようって? 奈津のことも、和人のことも、結婚の約束もなかったことにして、他の男を選ぶってこと?──そんな裏切りが、許されるとでも思ってるのかい、ナツ」

「奈津は、もういないんだよ、トモ兄」

 私がそう言うと、トモ兄の身体がぴくりと揺れた。

「記憶を持っていたって、私と奈津は、やっぱり違う。トモ兄だって、わかってるはずだよ。奈津と和人さんは愛し合ってたのかもしれないけど、私とトモ兄は違う」

 奈津と和人さんの間にあったであろう感情が、私とトモ兄との間には存在していない。

 それなのに、奈津と和人さんと同じになろうというのは、やっぱり、間違っているのだ。


 前世で愛し合っていたから、という理由で、私はトモ兄と恋は出来ない。


「奈津は、もう、死──」

「死んでなんていない」

 トモ兄は私の言葉をひったくるようにして激しい調子でそう言った。

 過剰なまでのその反応に、私は眉を寄せて続きを呑み込む。変だ、と、ここにきて、違和感がさらに大きく膨れ上がった。


 何か──変だ。


「……トモ兄?」

「死んでない。奈津は、ちゃんと生まれ変わって、ここにいるんだから」

 私の声も耳に入らないように、トモ兄はそう繰り返して私を見た。

 ……なんだろう。その瞳が、ものすごく真っ黒に見える。普段の彼の、理知的で優しい光がどこにもない。

「奈津」

 トモ兄はそう呼んで、いきなり私の腕を掴んで引き寄せた。夏凛の通称としての「ナツ」ではなく、はっきりと前世の恋人の名として、それを口にした。

「奈津は、誰にも渡さない」

 奈津じゃない、夏凛だ、と言おうとした。


 ──けれど、その言葉を紡ぐ前に、私の唇はトモ兄によって塞がれた。


 息が止まりそうになった。

 目を見開いたまま、トモ兄の温かい唇を強く押しつけられて、私はパニックに陥った。もがいて暴れたが、背中に廻った腕は容赦なく私を離さない。

 襖とドアを隔てて、リビングからは大人たちの笑い声が聞こえてくる。

「……っ、ト」

 唇の離れた一瞬の隙に、私はトモ兄の名を呼ぼうとした。荒い息に紛れて、掠れた声しか出なかったけど、やめて、と全力で制止しようとした。

 でもその声は、再びのキスによって封じられ、奪われた。

 柔らかい感触は、あまりにも強引なやり方で、一方的に与えられるだけのものでしかなかった。

 正真正銘、私のファーストキスだ。女の子として、漫画や小説の中によく出てくるその場面に、憧れがなかったと言えば嘘になる。だけど、本来だったら甘い感情とともにもたらされるものであるはずのそれが、現実の私には、ただただ、怖くてたまらなかった。


 この時、私の覚えた恐怖は、突然キスされた、という理由によるものじゃない。


 トモ兄はこれまでずっと、私の親や親戚の前では、「優しい従兄」としてあり続けていた。二人きりになると少し違う顔を見せて私を怯えさせることもあったけれど、家族の前では、必ず「兄」としての顔を表に出していた。

 ……なのに、今。

 少し大きな声を出せば、誰かがひょいと顔を出すかもしれないというこの状況で、トモ兄はそれをまったく気にする様子もない。

 すぐ近くに自分の親だっているというのに、私の身体を腕の中に閉じ込めたまま、さらに口づけを深めようとしている。

 そのトモ兄の変化が、私は何よりも怖かった。


「つ」

 トモ兄が短い声を上げて、顔を離した。


 私はその身体を力ずくで押しのける。私に思いきり噛みつかれて、トモ兄の唇からは、薄っすらと血が滲んでいた。

 トモ兄が、親指を自分の唇に持っていき、そこに血がついているのを黙って眺める。

 私は彼にくるっと背を向け、乱暴に襖を開けた。

 廊下を走るドタドタとした荒々しい足音に、背後のリビングのドアが開いて、誰かが声をかけてきたようだったが、振り返りもしなかった。

 玄関にあった自分のコートとバッグをひっつかみ、そのままドアを勢いよく開け放って祖父宅を飛び出す。

 まだ雪のちらつく中、目的地も定まらずにがむしゃらに走り続けた。

 走って走って、自分がどこにいるのかもよく判らないくらい祖父の家から離れた場所まで来たところで、手の中のスマホが、のどかな着信音を鳴らした。あんなことがあっても、私はずっとそれを持ち続けていたらしい。

 乱れた呼吸で立ち止まり、すぐに耳に当てる。

 でも、喉に綿でも詰まっているみたいで、ちっとも声が出てこない。ぎゅうっと歯を喰いしばる。


「──橘?」

 小さな機械の向こうから、声が聞こえた。


 私の名を呼んだ、そのたった一言だけで、張りつめていた糸がぷつんと切れた。

「……う」

 うわあん、と声を上げて、スマホを握ったまま、私は子供のように泣き出した。





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