20.記憶
「──奈津」
名を呼ばれて振り返ると、微笑みながら歩いてくる男の人の姿が目に入った。
「和人さん?」
私は驚いて片手を口に当てる。あまり驚いたので、もう片方の手に抱えていた風呂敷包みを危うく落としてしまうところだった。中には、到来物の高級な菓子が行儀よく箱に詰められているのに、落としたら目も当てられない。
「重そうだね」
包みの均衡が崩れそうになり、慌てて持ち直した私を見て、和人さんは笑いながら手を差し出してきた。
さりげない仕草で私の手から風呂敷包みを取り上げ、自分の手に持つ。
「そんなことなすったらいけませんよ」
と、私はうろたえた。
和人さんは、もとは名のある公家に繋がるという、由緒ある大きなおうちの跡取り息子である。つまり、お華族さまだ。
家がご近所であるという関係で、私とは幼い頃からよく見知った間柄ではあるけれど、だからといって、そんな人に下男や女中のように荷物を持たせるなど、あまりにも厚かましく礼儀知らずの行為になる。
父と母も、これを知ったら私をきつく叱りつけることだろう。
「気にしなくていいよ。これは奈津が持つには、少し嵩が大きいしね。どこかへのお届け物かい?」
「ええ、あの、少し珍しい品が手に入ったものですから、父のお知り合いのお宅へお持ちするんです」
お知り合い、というよりは、多分、これから懇意にしたい財産家、というところが真意なのだろう、と私は思いながら答えた。
貿易商を営み、維新のどさくさで家を大きくした私の父は、未だ周囲からは「成り上がり」の目で見られている。使用人を何人も抱える邸宅に住みながら、父も母も、早く名実ともに一流の財界人として認められたいと、ほうぼうに名を売り恩を売り縁を結ぶことに必死だった。
これから私が伺うお宅も、おそらくそういう目的で、現在の父が少しでも親密になろうと躍起になっている相手なのだろう。菓子程度でどの程度心を開いてくれるのかはいささか心許ないと思うのだが、母から直々に命じられれば私は従うしかない。
「それにしても、和人さん、いつお帰りに?」
包みを抱えた和人さんは、成り行きのまま私の隣を歩いている。これでは本当にお供みたいだわ、と思って私は困惑した。こんなところ、誰かに見られたらどうしよう、と気が気ではない。
「昨日だよ」
私の落ち着かない心持ちを余所に、和人さんはのんびりとした歩調で、まるで散歩でも楽しんでいるようだ。
彼はれっきとした特権階級であるにも関わらず、昔から非常に磊落で、親しみやすい性質の持ち主だった。
私に対しても、いつも優しく、兄のように接してくれる。
「お勉強、大変でしょう」
「まあ、そうだね。だからたまの休みには、こうして家に帰って幼馴染とゆったり過ごしたいんだよ」
和人さんは現在、帝国大学に通うため、東京に出て一人暮らしをしている。あちらでも女中くらいはついているのだろうし、仕送りも潤沢だろうから、さして不便なことはないだろうとは思うのだが、それでも勉強は大変なのだろうなあ、と私はぼんやりと空想するしかなかった。
私も手習い算盤くらいまでは習わせてもらったが、今の時代、まだまだ女と教育とは疎遠な関係だ。大学で難しい勉強をしていると言われても、正直なところ、あまりぴんとこない。
「和人さんは、お医者さまになられるんですよね?」
私の言い方がすでに「決定」になっているのが可笑しかったのか、和人さんはくすくすと笑いながら、なれたらね、と答えた。
「きっとなれますよ」
どうしてそんな曖昧なお返事なのだろう、と私はかえって不思議になって、そう請け負った。
和人さんは、ずっと幼い頃から神童と呼ばれたほどに頭のいい人なのだし、優しく穏やかな性格は、人を助ける職業にとても向いている。
和人さんの家ならば、遊んで暮らしていくことだって出来るのに、そうやってきちんと将来の夢に向かって進んでいくところは、本当に偉いなあ、と私は心から彼を尊敬していた。
「ありがとう。ところで奈津、どうしてまた、届け物をするのに供の一人もつけないんだい。物騒だろうに。お花やお茶を習いに行く時、いつも君に付いている女の子は?」
「お清でしたら、今日は別に用事がありまして」
「だったら、女中の誰かでも」
「今日はあいにく、誰も手が空いている者がおりませんでした。届け物をするくらいなら、私一人でだって出来ますよ、和人さん。もう十五になりましたもの」
私は少し胸を張りながら言ったが、和人さんは口を噤んで何かを考える顔になった。
年齢的にはそれほど大きく離れていないのに、和人さんはよく私を頑是ない子供のように扱う。
彼にとって、いつまでも私は小さな妹のようなものなのだろう。
「……この荷物は、そんなに重要なものなのかな。使用人ではなく、君が一人でわざわざ届けなければならないほど」
包みに目を落としながらぼそりと零された疑問に、私は、さあ、とあやふやに返事をした。
中身の菓子自体は、さして重要なものだとも思えない。多分、父と母にとって、重要なのは、「一人娘が届けに行く」という事実なのではないのだろうか、と私は考えていた。それほどまでに、我々はあなたを特別で大事な人だと思っているのですよ、ということを伝えるために。
そういう理由で、今日の私の着物はよそゆきの上等なものにさせられ、普段きっちりとおさげに結わえられている髪は、後ろでふわりと束ねて高価な簪で飾られたのだろう。いつもよりも、後頭部が重い。届け物をするためだけでいくらなんでも大仰な、と私は思ったのだが、母がどうしてもと言い張るので仕方ない。
「相手はどこの方?」
和人さんに訊ねられ、私は素直に先方の氏名を口にした。
奥さまと離縁されてからは、大きなお屋敷に数少ない使用人と暮らしているという三十代の資産家だ。私はその方のことをよく存じ上げないが、両親がお近づきになりたいと願うくらいなのだから、お金には不自由していなくて、なおかつ手にしている権力も大きいのだろう。
私が告げた名前に、和人さんはまた黙り込んだ。
「奈津」
しばらくして私を呼んだ時、彼の口調も顔つきも、ずいぶんと厳しいものになっていた。
「その家まで、僕も一緒に行く」
いきなり言われ、私はびっくりした。行こうか、という提示ではなく、断言だ。お喋りついでに荷物を持ってあげる、という領分を完全に超えている。
「そんな、とんでもありません」
慌てて手を振って辞退した。届け物の包みを持たせた上に、訪問先にまで同行させては、本当に私の供という扱いになってしまう。和人さんに、そんな申し訳のないことをさせるわけにはいかない。
それに、母からは、「必ず一人で行くように」と言われているのだ。
「父にも母にも、叱られます」
「僕が勝手についていくんだから、奈津はそんなことを気にしなくていい。君の父上と母上には、あとで僕のほうから、いかようでも説明するさ。いいかい、君は先方に着いたら、途中で幼馴染と出会って一緒に来ましたと言うんだよ。その時、僕の名前もちゃんと出して、相手に紹介するんだ、いいね?」
「……でも」
私は戸惑って口ごもった。
和人さんの名前を出すということは、彼の家の名を出す、ということでもある。これから訪問する相手よりも、数段格が上のそんな名を出してしまったら、向こうが委縮してしまうのは判りきっていることなのに。
「僕の言うことを聞きなさい」
ぴしゃりと言われて、私は小さくなった。しょんぼりして、はい、と大人しく頷くしかない。
和人さんは、華族さまだけあって、普段はとてもおっとりとして温和なのに、やはり人の上に立つことに慣れているのか、こういう言い方をすると、それ以上の反論を撥ねつける威厳と迫力がある。
「──まったく、あの欲の深い両親に育てられているわりに、本人は世間知らずなんだから、目が離せない」
独り言のように小さな声で呟かれ、私は、はい? と首を傾げる。
和人さんは、そんな私にわずかに苦笑してから、ふいに手を伸ばして、簪を挿してある私の髪に触れた。
どきん、と心臓の音が跳ね上がった。
「和人さん?」
「……まだ子供だと思ってたけど、こうして見ると、もうすっかり年頃の娘だ」
長い指先がするりと私の髪を梳いていく。
ずっと、待ってたのに──と、声にならない声が聞こえた気がした。
「奈津は、誰にも渡さないよ」
和人さんは、強い光を放つ瞳で、そう言った。
***
目を開けたら、見慣れない木の天井が見えた。
私の部屋の天井は白いクロスが貼られているはずなのにな、おかしいな、と夢から醒めきらないうつろな頭でぼんやりと思う。
喘ぐような息遣いが間近で聞こえて、なんだろうと訝しく思ったが、すぐにそれは自分自身のものだと気づいた。まるで全力疾走でもした後のように、忙しない呼吸を繰り返し、心臓はばくんばくんと破裂しそうなほど大きな音を立てつづけている。
──夢。
夢を見てたんだ、と思い、即座に否定した。
ちがう、夢じゃない。
あれは、「記憶」だ。
私が……奈津が、実際に経験した出来事だ。
私だけど、私じゃない私の「過去」から切り取ったカケラだ。
まだ荒い呼気が整わないまま、私は自分の腕を持ち上げ、額に乗せた。
その途端、そこがびっしょり濡れていることに気がついて、びっくりする。なんだこれ、水でもかぶったのか、と思ったが、どうやらそれは汗らしい。
よくよく意識を戻してみれば、全身も汗だくなのか、着ている洋服が身体にべったり張りついていた。うわ、気持ち悪い、と顔を顰める。
「ナツ? 目を覚ました?」
かけられた声に顔を動かすと、畳の上に座っているトモ兄の姿が見えた。なんでトモ兄、私の部屋にいるの、ていうか、いつ私の部屋は和室にリフォームされたんだろ? と思いかけ、やっとクリアに目が覚めた。
ここは私の部屋じゃない、おじいちゃんの家の客間だ。
ああ──そう、そうだ。私はお正月におじいちゃんの家に挨拶に来て、庭に出たのだ。それで、降っている雪と一緒に、白い花の幻影を見たのだ。
他に男の人の姿も見たが、どうやらそれは幻ではなかったらしい。
私の名を呼びながら近寄ってきた人は、トモ兄だった。
私はその姿を見て、すっかり混乱してしまった。
白い花、こちらに向かってくる人。その光景が、私がよく見る前世の一場面とダブったからだ。
そして混乱して、動転して、なんだか足元がぐらぐらと覚束なくなって──それで、どうなったんだっけ。
「……トモ兄」
私はのろのろと身を起こして、喉から声を引っ張り出した。
上半身を起こして見回してみて、客間にはちゃんと布団が敷かれてあり、私はそこに寝かせられていたのだと判った。
ということは、私はあのまま意識を失っていたということか。
「私、どうしたのかな」
「いきなり倒れたんだよ。大丈夫かい」
トモ兄に答えられ、ううむ、やっぱりな、と内心で唸る。汗をかいている以外に、大して気分が悪いわけでもないから、ただの貧血だったのだろう。そういえば、昨夜、ろくに眠ってなかったもんね。
「ごめん、トモ兄、びっくりしたでしょ」
そう言うと、トモ兄はちょっと笑った。
「そりゃあね。遅れて到着してみれば、ナツが一人で庭に出て空を見上げててさ。声をかけたら、なんだかまるで幽霊でも見たような顔して、そのままひっくり返っちゃったんだよ。そんなに驚かせたのかと生きた心地もしなかった」
「……うん。ちょっと、びっくりした」
私は俯いて、小さく返事をした。
ある意味、あの時見たのは、本当に「幽霊」だったのかもしれない。
「慌てて抱き上げて家の中に運んで寝かせたんだよ。病院に運ぼうかどうしようか迷ったけど、どこも正月休みだしね、おばさんも『ただの貧血なんだから寝かせておけば大丈夫よ、また夜更かししたんでしょ』って言うし」
「…………」
まあ、そりゃその通りなんだけどさ。なんか、そこまで全然心配されないのも、ちょっと腹立たしい。目覚めた時に、そばにいるのがトモ兄だけ、というのもどうなんだ。耳を澄ますと、リビングのほうからは大人たちの笑い騒ぐ声が聞こえてくる。倒れた娘を客間に寝かせて、あとはトモ兄に任せて放置してどんちゃん騒ぎですか、ああそうですか。
「ごめんね」
面倒をかけさせたことは悪かったなと思って、私は頭を下げてトモ兄に謝った。頭を下げたら、重力に従って頬のほうに汗が何筋か流れて、自分でも呆れた。
私、一体どんだけ汗びっしょりになってるんだ。
ただ、前世の記憶の夢を見たからって。
頭を下げたまま、腕でぐしぐしと顔を拭い、ついでに目元のあたりもごしごしとこすった。
いやだな、もう。こすってもこすっても、視界が滲む。涙は心の汗、とかいう言葉があったっけ。あれ、反対か? どっちにしろ、目から出るこの滴も全部汗だ、そういうことにしよう。
すぐ近くでじゃっという水音がしたと思ったら、トモ兄が濡れたタオルを差し出してくれた。ちらっと見たら、枕元にはちゃんと水の入った洗面器が置かれている。こういう気の利いた心遣い、いかにもトモ兄らしい。
私はそのタオルを受け取って、すっぽりと顔全体が隠れるようにして押し当てた。ひんやりとした冷たさが心地いい。
ぐっと口元に強く押し当てたのは、嗚咽の声が漏れないようにするためだ。
目をきつく瞑り、濡れタオルの感触だけを感じながら、私は必死で、込み上げてくる熱い塊を飲み下す努力をした。
──奈津。
「和人さん」の声が耳に甦る。顔も、声も違うけれど、あれはトモ兄の前世の姿だ。
まだ十五の奈津には判らなかったのだろうか。あの口調、あの眼差し、彼は本当に、奈津のことを愛しく思っていた。
二人が恋人同士になるのはもう少し先のことなのだろうけれど、和人さんは、そのずっと以前から奈津のことが好きで、大事に守っていたのだ。
裕福な家で育ち、世間知らずだった奈津。物事を深く考えもせず、ただ親の言いなりに動くだけだった奈津。
──両親が「縁を結びたい」と望んでいた資産家の独身三十男の家に、一人で使いに出されるというのがどういうことかもまるで判っていなかった、幼い奈津。
もしかしたら、先方と親の間で、ひそかに縁談の話でも進んでいたのかもしれない。まだ十五といっても、そういうことがあってもおかしくない時代であっただろう。
でもどちらにしろ、あのままならば奈津にとっては不幸な未来が待っていたはずだった。……和人さんが機転を利かせて救ってくれなければ。
誰にも渡さない、と和人さんは言っていた。
奈津も──私も、きっと、その想いを受け取ったのだ。彼を選び、彼に守られて生きることを決意したのだ。
けれども、その約束が叶えられる前に、奈津は早逝してしまった。
叶えられなかった約束を、生まれ変わって叶えよう、と、息を引き取る時、奈津も思っていたのだろうか。
誰か他の人を好きになるのは奈津に対する裏切りだ、と言うトモ兄の言葉は、そういうことなのか。
だったら──だったら、今ここにいる「私」はまるで、奈津のために生きているようなものじゃないか。
悲しいのか、腹立たしいのか、不憫なのか、私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。ただどうしてか、涙が瞳の奥から溢れて止まらない。
はっきりと自覚できるのは、恐怖心。
……もしかして、この先もこんな風に、私はどんどん前世の記憶を取り戻していくのだろうか。トモ兄と話をして、なんとか彼を説得できたとしても、こうして奈津だった頃の記憶は、私の中に甦り続けるのだろうか。これから和人さんと恋に落ちて、結婚の約束をして、そして死んでいくところまで、私は夢という形で追体験していくことになるのだろうか。
そうやって、奈津と夏凛と、私はふたつの人生を歩んでいかなければならないのだろうか。
無理だ、そんなこと。
私の結論は早かった。だって、無理だよ、普通の人間には、そんなこと。そのうち、私は狂ってしまう。
ぐいっと乱暴にタオルで拭って、私は顔を上げた。
敷いてあった布団のすぐそばに置かれたスマホを手に取り確認すると、倒れた時から三十分も経っていなかったのでほっとした。着信も、まだ入ってない。
蒼君に会いたい、と、この時の私はそればかりを考えていた。会いたい、会わないと、という強い衝動が突き上げてくるようで、じっとしていられなかった。
スマホを握ったまま、蹴飛ばすようにして布団をはねのけ、勢いよく立ち上がる。
「トモ兄、私、これから友達と会う約束があるから、出かけてくる」
「…………」
トモ兄と目を合わせてきっぱり言うと、痛いほどの沈黙が返ってきた。
今から? とも、さっき倒れたばかりなのに、という質問も心配の言葉もない。こちらに向けられる目は、よそよそしいほど落ち着いている。
少しして、
「会うって」
と、トモ兄が場違いなほど、ゆったりと口を開いた。
その口元に浮かんでいるのは──冷笑だ。
「……鷺宮、蒼君に?」
トモ兄は、はっきりとその名を口にした。




