19.目眩
そのあと、蒼君と近くのファミレスに行った。
ファミレス内は、外の喧騒が嘘のように静かだった。そこそこお客さんは入っているものの、特別な空気は何もない。ウエイトレスさんはサンタのコスプレをしていないし、店内を流れるBGMも、クリスマスとはまったく無関係なものだ。
座っているのは男同士だったり女同士だったり男女だったりいろいろだったけれど、みんな、「クリスマスって何だっけ?」という顔をしている。
穏やかに笑ったり、ひそひそと囁きを交わしたり。はしゃぐ女子高生の集団や大声で笑う若者グループもおらず、ひっそりとしているくらいに落ち着いていた。
クリスマスだからって、世界中のすべてが浮かれているわけではないらしい。ちょっとだけ驚くような気分と、そりゃそうだよね、と改めて納得するような気持ちが同時に湧き上がる。
きらびやかな飾りつけも、賑やかなお祭り騒ぎも決して嫌いではないけれど、今の私には、こういう場所のほうが安心した。
「私、アラビアータにしようかな。唐辛子のマークが二つもついてるから、辛くて美味しそう」
席について、メニューを見ながら私がそう言ったら、
「おしるこなんて甘ったるいものが好きなのに、辛いものも食うのか」
と、向かいに座った蒼君が、同じくメニューに目をやったまま、ぼそっと呟いた。
特殊な嗜好というわけでもあるまいし、人を変わり者みたいに言わないでほしい。
「甘いものも好きだけど、辛いものも好きなんだよ。でも、苦いものは苦手。ゴーヤとか、ピーマンとか」
「子供か」
「じゃあ、蒼君はゴーヤ好き?」
「…………」
「あっ黙った。嫌いなんでしょ。ピーマンは?」
「出てきたら食う。しょうがないから」
「同じじゃん!」
その蒼君はというと、ハンバーグのセットを頼んでいた。意外と子供っぽい、いやいや、普通の男子高校生っぽい、のかな? 同年代の男の子とこうして差し向かいでゴハンを食べる、という経験が今までになかった私には、そういう判断もいまいち出来ないのだが、蒼君の平らげるスピードの速さもかなり衝撃だった。
蒼君は脚は長いけど身長自体はそんなに高いほうではない。全体的に痩身で、淡々とした本人の雰囲気と相まって、いかにも精進料理ばかり食べているような感じがするくらいだ。なのに、ハンバーグとライスのセットが運ばれてきてから皿が空になるまではあっという間で、私は目を剥いた。
「はやっ! え、もうないの? 私まだ半分も食べてないのに」
「どうやったらそんなに遅く食えるのか判らない。歩くのも遅いのに」
「普通だよ! ていうか、歩く速度とは関係ないと思うんだけど!」
言い返してから、ふと気がついた。
……あれ、そういえば。
そういえば、蒼君は食べるのも速いけど、歩くのも速いんだっけ。以前に学校から駅までの道のりを並んで歩いた時は、かなり苦労して早足で彼について行ったのを思い出す。蒼君は前だけを見て、私のことなんてまるで意にも留めず、自分のペースですたすたと歩いていたのだった。
でも、今は。
私は、早足になったことなんてない。いつもの調子でゆったりと歩いて、ぺらぺらと口を動かしていただけで、それを気にしたこともなかった。
それくらい自然に、仏頂面の蒼君が何気なく私の隣にいたからだ。
ああ、そうか、と今になって、本当にようやく今になって、私は気づいた。
些細なことだけど、とても大きなこと。
いつの間にか、変わっていたこと。
──蒼君はずっと、私の歩調に合わせてくれていたのだ。
「…………」
手にしていたフォークとスプーンを皿に置いたら、カチンという金属質の音を立てた。まだ何か食べようとしていたのか、メニューを眺めていた蒼君が、私に視線を移す。
「もう食わないのか?」
「ううん、そうじゃなくて。……あのね、蒼君。これ」
バッグの中から細長い包みを取り出して、テーブルの上に乗せた。そのままずいっと自分の前にまで押し出され、蒼君が怪訝な顔をする。
私はうろうろと目線をあっちこっちに彷徨わせ、結局どうしたらいいのか判らずに、そのまま下に向けた。
「何、これ」
「えーと、今日の午前中、買い物に行って見つけたの」
「……へえ。で、何、これ」
「えーとえーと、あのほら、バイトでいろいろ迷惑かけてるから、そのお詫びも兼ねて」
「兼ねた、何?」
「えーとえーとえーと、いわゆる大人社会で言うところの、お中元お歳暮的、なものかな。お世話になったあの方に、みたいな。うん、つまり、そういう」
「クリスマスプレゼントか」
「ぎゃ!」
しゃらっと言われて悲鳴を上げる。その具体的名称を口にしないよう濁し続けてきた私の努力を、蒼君は見事なまでに一瞬で粉砕した。クリスマスという行事に関わることなんて何ひとつ知りません、みたいなことを言っておいて、反則だ。
「い、いやホント、プレゼントなんていう大層なものじゃなくてさ。たまたま、買い物のついでに見つけて、なんとなく」
「…………」
「それでそのう、大したものじゃないんだけど、よかったら」
「…………」
「ただの文房具だし。今日はホラこういう日だから、こういうことがあってもいいんじゃないかなあーって。べっ、別に、深い意味はないんだけどね!」
「……ぶ」
「そ、そう、文房具ね。……え?」
私がきょとんと目を瞬いた途端、蒼君がぶはっと噴き出した。
「そっ……それで」
苦しそうに呻いてる、と思ったら、違った。
蒼君は、めちゃくちゃ可笑しそうに、くくくっと笑い転げていた。
「それでお前、店を出てからあんなに挙動不審だったのか」
テーブルに顔を突っ伏し、お腹を押さえながら肩を揺らしている。蒼君が笑うところを目の前で見たのはこれが二度目だが、前回よりもツボに嵌ったらしく、なかなか笑いが収まらない。
そうか、そんなにもあからさまに、私は挙動不審だったのか……
「それにそのセリフ、どこのツンデレだ。橘のキャラと合ってねえし」
「…………」
ツンデレ……
なるほど。「べ、別に、あんたのことなんて何とも思ってなんかいないんだからね!」というやつですね。蒼君も難しい本を読むわりに、やっぱり今どきの高校生として、そういう知識もちゃんとあるんですね。俗世間のことは一切興味ない、というわけじゃないようなのは嬉しいが、それはそれとして、決してツンデレキャラを狙って言ったわけではないので、お願いですからそろそろ笑うのを止めてもらえないだろうか。恥ずかしいよ!
蒼君はしばらくそうやって笑い続けた後、ようやく、ふー、と息を吐き出して顔を上げた。
その時にはもうわずかな笑いの余韻が口元に残っているだけだったものの、いつもむっとした顔をしている分、それだけでずいぶんと優しく表情が和んでいるように見える。
笑われるのも恥ずかしいけど、笑うのを止められても、非常に惜しいような気分になって複雑だ。どうせなら、ずっと顔を上げて笑ってくれればよかったのに。
その顔のまま、蒼君は包みを手に取って開け、中に入ったものを出すと、目の高さにまで持って行ってまじまじと検分するように眺めた。うう、ここから逃げたい、と私は椅子の上でもじもじする。
「サンキュ。貰っとく」
それだけ言って、蒼君はそのブツを着ていたパーカのポケットにしまった。
大げさでもなく、かといって迷惑そうでもないので、心からほっとした。これこれ、これですよ。こういう軽いやり取りを、私は望んでいたのだ。途中経過は少々不本意だが。
「俺は何も持ってないけど」
「え、うん、そんなのいいよ、全然」
そんなことを期待していたわけではないので私は慌てて両手を顔の前で振ったが、蒼君は、「代わりに、ドリンクバーを奢ってやる」と言ってくれた。
この店のドリンクバーは百八十円である。おしるこより五十円も高い。今日の蒼君は太っ腹だ。
「えー、いいの? ありがとう」
「金を出すからには全種類飲めよ」
「いや無理だから。それはもはや罰ゲームだから」
そう言って、私は笑った。ドリンクバーの追加注文をするため、ウエイトレスさんを目で探す。
蒼君は、何も訊ねない。私も言い出さない。
私たちはファミレスで、トモ兄の話題には一切触れなかった。
次の日、バイト先で、蒼君が着けている黒エプロンの前ポケットには、新品のボールペンが差し込まれていた。
私はそれを見てちょっと赤くなり、でも、とても勇気を貰えたような気分にもなって、よっしゃ、と拳を握り気合いを入れた。
トモ兄と話して、前世に決着をつけるんだ。
──そして、それが叶ったら、今度こそ蒼君に私の気持ちを伝えよう。
私は、もっともっと、蒼君のことが知りたい。
綺麗な部分も、そうでない部分も、全部全部含めて、たくさんのことが知りたい。
表に出ているところも、出ていないところも。
厳しいところも──優しいところも。
そういうところを、ちゃんと気づける自分でありたいと願うから。
***
さて、一月二日。
祖父母の家に両親と一緒に挨拶に行った私は、いきなりトモ兄のお母さんに先制パンチを喰らわされた。
「知哉ねえ、用事があって、今日は来られないかもしれないんですって」
なんだとう、と私はかなりがっくりきた。前日から悶々とトモ兄との話し合いのシミュレーションを立てて、ほとんど眠りもしなかったこの意気込みを、一体どこに持っていけばいいというのだ。
まあ他に、スマホの充電は大丈夫かな、とか、いざという時に通話切れを起こしたりしないかな、とか何度も何度も確認したりしたせいもあるけれど。
すっかり拍子抜けしている私に向かって、
「知哉君がいないからって、そう寂しそうにしなさんな」
「夏凛はまったくお兄ちゃんっ子よね、ほほほ」
「小学生の頃からちっとも変わってないのねえー」
と、おじいちゃんおばあちゃんおばさんが一斉に慰めの言葉をかけてきた。
祖父母は娘二人、つまり私の母とトモ兄のお母さんしか子供がいない。トモ兄も私も一人っ子なので、母方のイトコはトモ兄だけだ。そんなわけで、幼い頃から親戚の集まりがあると、私はずーっとトモ兄にベッタリだった。
……どうやら、彼らにとっての私は、その当時の記憶からまったく成長していないらしい。そんなわけないのに、さすが母と血が繋がっているだけのことはある。もう面倒くさいから放っておこう、と決意して、私は曖昧に笑った。
父と伯父は、到着して早々から、祖父母と卓を囲んで宴会モードになっている。この調子で、夜まで食べたり飲んだりして時間を過ごすのが、大人の正月のあるべき姿というものなのだそうだ。そちらに混じってグダグダしていてもしょうがないので、ツマミを作りながらぺちゃくちゃと話に花を咲かせている母と伯母のいるほうで時間を潰すことにした。
もちろん、スマホはいつ鳴ってもいいように、すぐ近くでスタンバイオッケーだ。
祖父母の家は台所とダイニングが一つになっていて、独立したリビングとは完全に別になっている。今となっては、こういう作りの家のほうが珍しいんだろうなあー、と思いながら、私は食卓の椅子に座って足をブラブラさせていた。
流しでは、から揚げを揚げている母と、洗い物をしている伯母がものすごいマシンガントークを繰り広げている。
「それで、うちの人の給料がなかなか上がんなくてさあ」
「あんた、それは何処だっておんなじよ。うちだって役職は上がっても結局いろんな手当を減らされて、前より少ないくらいなんだから。肩書がついて喜ぶのは本人くらいのもんよ」
「えー、そうお? だけどこれからまだお金がかかるっていうのに、これじゃねえ」
などという、まあ、要するに夫についての愚痴ばっかりだ。リビングには聞こえないからって、お互い言いたい放題。おいおい、それは娘の前でしていい会話じゃないだろ、と思うのだが、どうも二人とも、私の存在はすっかり頭から抜け去っているらしい。
「でも、お姉さんのとこは、息子の出来がいいんだから、いいじゃないよ」
と母が言ったところで、私はさりげなく話に加わることにした。この流れで行くと、「その点うちの娘は頭も悪くて能もない」という方向へ向かうのは必然である。
「ねえ、おばさん、そのトモ兄だけど」
私が後ろから声をかけると、二人は似たようなビックリ顔で振り向いた。やっぱり姉妹だなあと思う。性格もわりと似ているので、実はトモ兄もいろいろと苦労しているのかもしれない。
「あら、夏凛ちゃん、いたの?」
いましたよ、最初っから。
「やーねー、この子ったら、いるならいるでちゃんと主張しなさいよ」
どうやって主張しろというのか。
「……トモ兄ってさ、今、彼女がいるでしょ?」
理不尽な文句は聞き流すことにして、私は好奇心を装って訊ねてみた。
唐突な質問ではあるが、母も伯母も、性格的にそういうことは一切気にしない。
「あら、そうよねえ。知哉君て、いかにもモテそうだもん、一人や二人はいそうよねえ」
ころりと乗っかったのは、もちろん私の母である。この人ほど誘導尋問に乗せやすい人は、多分、世の中にそうはいない。それにしても、「彼女」が二人いたら、それはそれで問題ではなかろうか。
「うーん、どうかしらねえー」
伯母の返事は曖昧だった。言いたくない、というより、言いたくてもよく知らない、という顔つきだ。
「高校生までは一緒に住んでたじゃない? だからほら、電話とか、ちょっと見かけたりだとかで、多少はあたしにも把握できてたのよね。でも今は一人暮らししてるから、もうサッパリよ」
「高校生の頃は、彼女がいたんだ?」
私が追及すると、伯母は一度頷きかけて、それから再び首を捻った。
「多分、いたんじゃないのかな、って思うんだけど。でもどうも、みっちり付き合ってる相手、っていうのはいなかったんじゃないかしら。家に連れてきたりすることも一度もなかったし、誰も紹介してくれなかったし。しかも相手はけっこう頻繁に入れ替わってるみたいだったしねえ」
「…………」
私は口を噤んだが、母はけらけら笑って喜んだ。
「やだー、知哉君って、ああ見えて遊び人?」
「そうかもねえ」
伯母は苦笑気味に同意して、それから、ぽつりと呟くように付け足した。
「……あの子が女の子に本気になるってこと、あるのかしらね」
その声には、母親としての心配が滲んでいた。
***
それからまた話が夫のことへと戻っていった母たちから離れ、私はぶらりと庭に出ることにした。
「……あれ」
玄関のドアを開けて、すぐに気づいた。
朝から空が薄暗い灰色をしているなと思ったら、白いものがふわふわと舞い始めている。
上着を着てこなきゃダメだったか。風はないけど、冷気が強い。
「クリスマスにも降らなかったのに、お正月に降ったかー」
頭上の曇天を見上げ、独り言を零した。
そんなに大雪になる感じではないので、ちょっとほっとする。祖父の家までは父の車で来たものだから、傘を持ってこなかった。雪はどちらかといえば好きなほうだが、今日は外出を阻まれるほど降られては困る。
手の中に持っていたスマホに、視線を落とした。まだ、何の反応もない。
……ていうか、本当に鳴るのかな、これ。蒼君のことだから、「忘れてる」可能性もかなり大きな割合で占めているような気もしないではないのだが。
いややめよう、そのことは考えないようにしよう。悲しくなってくる。
今日会ったとしても、トモ兄と話が出来ないということは、つまり、蒼君への告白も先延ばしということか、と思いついてため息をついた。
うーん、ちょっと残念、なような、よかった、ような。
軽く頭を振って、もう一度、空を見る。
雪がそのうち雨になるかもしれないし、近くのコンビニにでも行って、ビニール傘を買ってこようかなあ、と考えた。どうせ家の中にいたって暇を持て余すだけだし。
じゃあ、上着を取ってこよう、と思いながら、私は身体を反転させようとした。
──その時、いきなり強い風が吹いた。
「……っ!」
びゅ、と風に煽られ、降っていた雪がぱあっと舞いあがる。瞬間、白い雪が、まるで花びらのように空中に散って、視界を遮った。
目の前一面に、白い──
白い花。
突然、世界が暗転した。
そこはもう、見慣れた祖父の家の庭ではなく、寒い冬の昼間でもない。
私を包むのは、真っ暗な闇と、ひそやかな静寂だ。周りを取り囲んでいるのは、見渡す限りの桜の花だった。
白い花びらが降りしきる。その中に、私はぽつりと立っていた。月に照らされて光り輝く桜の花弁。舞い散る花嵐。
地面を踏む、軽い足音がした。前方から、背の高い人影が、微笑みながら近づいてくる。
「──ナツ」
私の名前を呼ぶ人。
あれは……あれは。
和人さん。
「……あ」
目を見開いた。ふらふらとよろめく。震える手で口を押さえて漏れる声を押しとどめた。指の先からすうっと冷えていく。
足許の地面が、ぐらりと揺れた。




