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遠くの星  作者: 雨咲はな
13/43

13.予兆



「……え」

 私は今まで、「頭が真っ白になる」という言葉は、単なる比喩だと思っていたのだが、この時、そうではないことを心の底から実感した。

 思いもかけない時に、思いもかけないことを言われると、本当に、頭の中がパカッと白くなるのだ。

 間抜けな声を出したっきり、私は中途半端に笑みを止め、そのまま表情を変化させることさえ出来なくなってしまった。

「お前のノート」

 一方、蒼君は顔も声音も、まったくいつも通りだった。もう一度繰り返してから、手に持っていたコーヒー缶のプルトップを、カツンといい音をさせて開ける。

 今日は自転車に乗りながらじゃなくて、ここで飲むんだ、と、どうでもいいことを思った。

「なんかいろいろと書いてあっただろ、他のやつの字で。あれ、誰の?」

 ストレートで単刀直入な問いかけだった。缶を口元に当てながら、視線だけがまっすぐ私のほうに向かってくる。

「…………」

 蒼君の瞳はいつも、静かで、澄んでいる。以前にもそう思ったことを、今になって、また再確認した。

 綺麗な水のようで、冬の夜空のようなその瞳に、私はやっぱり、どうしても惹き込まれずにはいられない。


「──従兄のだよ」


 思いがけず、答えは自分の口からすらっと出た。

 もしかして、蒼君の瞳に見入っていたことがよかったのかもしれない。気負うこともなく、必要以上に口調が固くなることもなく、「従兄」という単語を、今までのお喋りと同じ調子ですんなり出せたことに、なにより私自身がほっとした。

「イトコ?」

「うん、大学の三年生でね、うちの近くで一人暮らししてるの。アルバイトで塾の先生をやってて、私の勉強も時々見てくれる」

 自分で言いながら、しみじみした。本当に、言葉にすれば、それだけのことなんだよなあ、と思う。私の台詞のどこにも、何も、嘘なんてひとつも混ざっていない。外側から見えるのも多分、この言葉通りのものでしかないのだろう。


 ──前世なんて、そんなものがなければ。


 付け加えるようにそう思って、目を伏せる。

 暗い中で、自分が持っているおしるこの缶に書いてある、原材料、の欄を機械的に頭の中で読み上げた。強制的に他のことを考えていないと、すぐに思考がさっきのことに引き戻されそうだった。

 とてもじゃないけど、もう二度と、頭上を見上げる気にはなれない。

 ……怖くて。


 ああ、そうか、私は怖いんだ。

 また真上に顔を向けて、その時に今度は何を思うのか、想像すると怖くてたまらない。

 だから頑なに目線を空に向けようとはしないで、必死になって別のことを考えようとしてるんだ。


「……ふーん」

 再び顔を上げると、まだこちらに向けられていた蒼君の目と、正面からぶつかった。

 意外にも、先に逸らしたのは蒼君だった。無愛想な返事とともに、缶を傾け、一気に中身を喉へと流し込む。

「ごめん、見にくかった?」

 なにぶん私のノートは誰かの書き込みを想定してとってはいないので、余白部分はさほどあるわけではない。だから、その隙間を埋めるようにしてびっちり入れられたトモ兄の字は、几帳面で読みやすくはあるけれど、かなり細かいものにならざるを得なかった。蒼君に渡したのはさらにそのコピーなので、もしかしたら、小さな文字があちこち潰れてしまっていたかもしれない。

 私の問いに、蒼君は「いや」と素っ気なく答えた。口から離した缶に目を落とし、手持無沙汰そうに軽く振る。

「説明がシンプルで要点をついてて、俺でも判りやすかった。今回の試験じゃ、あのコピーにかなり助けられたな」

「そう」

 この場合、私のノートというよりは、トモ兄の書き込みのほうが、より蒼君の助けとなったのだろうことは間違いないので、私は言葉少なく相槌を打つ。心中がいろいろと複雑すぎて、何をどう言ったらいいのか、さっぱり判らない。

 でも、褒められている対象は、私の「従兄」なのだ。いい加減な受け答えをしていいはずがない。ちゃんと返事をしなければ、と私はなんとかお腹に力を入れる。蒼君がこんなに率直に何かを褒めることなんて、滅多にないのだろうし。

「日頃は中学生に教えてるから、そういうのが上手なんだよ」

「ああ、確かに、子供に教えるみたいな懇切丁寧さで書いてあった」

「うん。私の頭のレベルに合わせてるのかも」

「塾の先生をするくらいなら、その従兄は、頭がいいんだろ」

「そうだね、昔から。だから私のお母さんにいいように使われて」

「昔から……ね」

 蒼君が呟くように言って、缶を振る手を止めた。私はだんだん疲れてきて、口を噤んで黙り込む。

 なんで私たち、いつまでもこんな所で、こんな話をしているのかな。

 早くトモ兄のことから離れたいのに、蒼君はなかなかそこから話題を動かそうとしてくれない。

「昔から、お前の家庭教師みたいなことしてるわけ?」

「……うん」

 でも最近はあんまりないんだよ、と続けようとした言葉が、外に出る手前で止まった。

 ……持っている缶を見ながら、蒼君の口許が微妙に歪んでいることに、気づいたからだ。


 笑っている──ようには、とても見えない。

 それくらい、そこにははっきりとした皮肉の色が強く現れていた。


「……あんな、バカみたいな過保護さでか」


 小さな声で、言い捨てるようにそう呟いて、蒼君は持っていた缶を、自販機横のゴミ箱に無造作に投げ入れた。

 ガシャン、という無機質な音が暗がりの中で妙に大きく響く。

「──蒼君?」

「じゃあな」

 蒼君は、急に何もかもに関心を失ったように、ぷいっと踵を返した。

 近くに停めてあった自転車に乗って、あっという間にその場からいなくなってしまう。

「…………」

 私は当惑しながら、その背中が見えなくなるまで、そこに突っ立っていることしか出来なかった。

 いつも無愛想で口も悪い蒼君だけれど、普段は、本当に怒ったりすることはほとんどない。周囲に興味がないからと言えばそうなのかもしれないけれど、基本的に、蒼君は何事に対しても、否定したり拒んだりということをしないからだ、と私は思っていた。

 ……でも、今の蒼君は。


 どこかがひどく、冷たくて尖っていた。

 声は小さかったけれど、口調は攻撃的なくらいに鋭い刺があった。


 あんな蒼君ははじめてで、私はなすすべもなく困惑するしかない。

 ふらりと一人旅が出来てしまうくらい精神的に自立した蒼君から見ると、高校生にもなって従兄に勉強を見てもらっているという私は、あまりにもお子様で、苛ついたのかな。

 須田さんといい、今日の私はとことん、「甘えた子供」として見られてしまう巡りあわせであるらしい。見られる、というか、実際そうなのだろうけど。

 ──蒼君はきっと、そういうのが好きじゃないんだ。

 もっとちゃんとしっかりした大人になりたいなあ、と私はため息をつく。でも、「大人になりたい」と思っても、じゃあ具体的に、どうやったら大人になれるのかが、判らない。


 ……大人になるって、そもそも、どういうことなんだろう?


「あれー、橘さん、まだいたのー?」

 しょんぼりと落ち込んでいる私に、後ろからどこまでも軽い声がかかったと思ったら、店長だった。

 私を見てニコニコしている店長は、「能天気」というものを体現したような顔をしていた。もしかしたらこの人は、横から見たら、厚みが五ミリくらいの、ペラペラした紙でできているのかもしれない。これから店長を正面以外で見るのはやめておこう。怖いから。

「あ、今から帰るところです。店長もですか?」

 まだ店内には、須田さんや他のバイトの人たちが少し残っているはずなんだけどな、と思いかけて気づく。閉店業務のあと、店を戸締りしたりするのは、店長でなくても問題はないのだろう。私はそのあたりよく知らないのだけど、店の従業員出入口の鍵を持っているのは、店長だけではないみたいだし。

「ううん、僕は夜間金庫に、売り上げを持ってこうと思って」

 と、店長は手に持っている黒いポーチを高く上げて、私に見せた。

「それはお疲れ様ですが、そういうことを店の外で大声で言うのはどうかと思います」

 私が強盗だったら、絶対にこれから、店長のあとを尾けていって襲う。私が強盗ではなくても、こんな風に宣伝するように堂々と言うことじゃないと思う。

「あっ、そうだね。物騒だからね。ナイショね、ナイショ」

 あははーと笑って、店長は子供みたいに人差し指を口の前に持っていった。

「……はあ、ナイショですね」

 なんかなあ、店長を見ていると、悩むのも落ち込むのも、バカバカしくなってくるなあ、とどっと全身から力が抜けていくのを感じる。世の中にはきっと、こういう屈託のない善人が必要なんだろう。

「そういえば、橘さん、今日は須田さんにこっぴどくやられてたねえ」

「…………」

 店長は朗らかに笑ったまま、遠慮なくぐっさりと私が触れて欲しくないことを蒸し返した。前言撤回。店長は確かに軽くて薄くて屈託もないが、性格はきっちり悪いのでした。

「み、見てましたか」

「見てた見てた」

 楽しそうに笑いながら、思いきり同意された。ひょっとしてあの時、本屋じゅうの人々が全員、私が須田さんに怒られているのを目撃していたのではと、疑心暗鬼になる。


「……すみませんでした。これから気をつけます」


 蒼君に対してしたのと同じように頭を下げて謝ると、店長は面白そうに少しだけ眉を上げた。

「うんうん、須田さんは厳しいけど、叱られたからってあんまり気を落とさないでね。須田さんはああ見えて、悪気はあっても悪意はないんだよー」

 あわわ。

「て、店長、その発言はいろいろとまずいです」

 私は焦ったが、店長はちっとも気にしていなかった。

「僕はあんまり、人にお説教したりするの、得意じゃないからさー」

 確かに、私が店長に怒られたことは今までに一度もない。真面目に仕事をしているところも一度も見たことがないので、説教されたとしても、いかにも説得力がなさそうだ。

「その分、須田さんがきっちり教育してくれてるんだよね。でも言い方がきついから、若いバイトの子ほど、叱られてすぐに辞めちゃったりするんだよね。今どきの子って、家でも学校でも、怒られることがあんまりないみたいでさ。だからきっと、大人になりきれないんだね」

「…………」

 その言葉に、私はますます恥じ入って首を竦めた。


 叱られただけで、泣いて家に逃げ帰りたくなった私は、間違いなく、店長の言う「今どきの子」だ。


「……早く大人になれるよう、努力します」

 俯きがちにぼそぼそとそう言うと、店長が陽気な笑い声を上げた。

「いやいや、そう急いで大人にならなくてもいいでしょう。橘さんは、今のままでゆっくり進んでいくといいよ」

「でも」

 思わず反論をした私に、店長は、ん? という顔をした。

 はいそうですね、と普通に返事をしていれば、ここで和やかに会話は終わったはずだったのに、バカだな、私。須田さんのこととか、さっきの蒼君のこととか、今でも怖くて空を見上げられないこととか、いろんなことがいっぺんに頭を駆け巡り、少しムキになっているみたいだ。

「私、早く大人になりたいんです。どうすれば、そ……鷺宮君みたいにしっかりできるでしょうか」

 私から見ても「しっかりした大人」にはあまり見えない店長は、それを聞いて、ますます面白そうな顔をした。

「鷺宮君って、橘さんが思うほど、別に大人じゃないと思うけど」

「そんなことないですよ」

 むっとして言い返す。


 蒼君はいつも落ち着いているし、私みたいに些細なことでいちいちぶれたりしない。

 彼の中にはきっと、頑丈な芯が、揺れもせずまっすぐに入っている。

 自分の抱えた問題に対処できないまま、逃げたり思考停止したりする私とは、根本的に違うのだ。


「いやホントに」

 私の不満そうな表情に、店長が噴き出しながら言った。

「鷺宮君は普通の高校生の男の子だよ。ただ、かなり不器用なだけで。……今日もけっこう、見てて面白かった」

 終わりのほうの言葉は、ほとんど独り言のような言い方だった。くくくっ、と笑いをかみ殺しながら言うので、私にはよく聞き取れなかった。

「はい?」

「大人になりたいっていうのなら、せめてその不器用さを包み込んでやるような、大らかさを持つといいかもね。あ、これいいな。今、僕、目上の人間として、わりといいこと言ってるよね?」

「いや、よく、意味が……」

 わかんないんですけど、と言おうとしたが、自分で自分に酔っている店長の耳にはもう、私の言葉なんて入っていないらしかった。なんとなく、こういう大人にはなりたくない。反面教師として、店長は私にそう教えてくれているのか、なるほど。

「じゃあ僕、もう行くから。橘さん、暗いけど気をつけて帰りなさいね」

 最後だけ、かろうじて普通の「店長」っぽい言葉を口にして、にっこり笑う。

 それから、私が手に持っているものに目をやって、あははとまた笑った。


「おしるこね、僕も好きだよ。美味しいよねー、甘くて。人に怒られてヘコんだ時にはなおさら、元気が出るように甘いものがいいよねえ」

「…………」


 また明日頑張って働いてねー、と手を振って銀行へ向かう店長を見送って、私は改めて自分の掌の中にある缶をまじまじと眺めた。

 人に怒られてヘコんだ時は、元気が出るように甘いものがいい……?

 そういえばあの時、蒼君は、須田さんにやられてたな、って私に声をかけてから、自販機にお金を入れてたんだっけ。

 ……あれ?


 ひょっとして。

 もしかしてもしかしたら。

 このおしるこって、「ノートのお返し」、なんかじゃなくて。


「…………」

 考えた途端、頬が火照ってきた。

 蒼君の言動のひとつひとつで、気持ちをあっちこっちに揺さぶられてしまう私は、やっぱりまだまだ子供なのだろう。

 じんわりと温かい缶を両手で握りしめ、一人で顔を赤くしながらその場に立ち尽くす。落ち着け、私の心臓。これくらいのことで、跳ね回るんじゃない。

 缶を持っているのとは反対の手で、自分の胸のあたりを強く押さえた。

 そこは、みっともないくらいに上擦っていて、甘くて温かくて……でも、やっぱり。


 痛かった。


 ──私はまだ、空を見上げられない。

 綺麗な星空を見ながら「自分」の口から出た声と言葉が、今も私の頭にこびりついている。

 奈津には、好きな人がいた。その恋は、とても幸せなものだった。美しい星空と、恋した人がいれば、他には何も要らないと思うほど、奈津は満ち足りていたのだ。

 ……ずっと動かなかった記憶がちらりと顔を覗かせたのは、今まで静かに眠っていた奈津が、私の中で起き上がり、反乱を起こそうとしているから、じゃないのだろうか?

 奈津が夏凛に向かって、責めているんじゃないだろうか。


 その恋は、間違いだと。偽物だと。

 奈津の恋こそが、「本当」だと。


 そんなのはおかしい、と私の理性は思っている。私が現在抱いているこの気持ちは、間違いでもないし、偽物でもない。

 でも、ひょっとして──とも、思ってしまう。

 もっと前世の記憶が戻ってきたら、こんな考えすら、忘れてしまうのではないか。トモ兄の言うように、あっさりと奈津の恋心を取り戻すのではないか。

 判らない。判らないから、怖い。そこには、自分が自分でなくなるような、恐怖心しかない。

 今になって突然やって来た新しい記憶に、私は混乱し、怯えていた。

 ……止まっていた何かが、少しずつ変わっていくような、そんな予感がする。


 一瞬だけ甦った奈津の記憶は、これからはじまる変化の、最初の兆しなのかもしれなかった。





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