10.断絶
私が固い顔つきのまま、ぎゅっと唇を噛みしめて黙っていると、「どうして何も言わないの」とトモ兄が追い打ちをかけるように言った。
強い光を放つ眼差しが、私の瞳に向けられる。唇の端がわずかに上がっているけれど、それはいつものトモ兄の優しい微笑みとは全然違うものだ。
追いつめるような目、どこか冷ややかな口調──ここにいるのは、私のよく知る「トモ兄」じゃない。
一瞬、トモ兄の整った顔立ちが、誰かのものとダブって、くらりとした。
私は、この人を知ってる。
「──わ、私」
視線をトモ兄の顔から下げて、やっとの思いで声を絞り出す。
握られている自分の手が、はっきりと判るくらいに震えていた。抑えようと思うのに、自分自身の意志では、どうにも止められない。
「私、別に、好きな人なんて」
と小さな声で続けてから、目を瞑った。瞼の裏に蒼君の顔がちらちらと瞬く。私は必死になってそれを消そうと努力した。
「……いないよ」
意志の力を総動員して、再び顔を上げて言葉を押し出した。
こちらに向けてくるトモ兄の目とまともにぶつかって、今にも逃げたくなるのを踏ん張ってこらえた。
見透かされちゃダメだ。私はもう、自分のしでかした悪戯を見つかって笑って許される子供じゃないんだから。隠すと決めたのなら、絶対に隠し通さないと。
耳の奥で、何かを警告する音がやかましいくらいに鳴り響いている。
──この人に、蒼君のことを知られたらダメだ。
「でも、私にとって、トモ兄はトモ兄なんだよ」
私は懸命に言った。トモ兄は表情を変えもしない。今の彼が何を考えているのか、私にはまったく判らない。
「私にとって、トモ兄はずっと、『大好きなお兄ちゃん』なの。それ以外にはならないの。他の男の人と同じようにはならない。これまでも、これからも。……今も、トモ兄のことは、お兄ちゃんとしてしか、見られない。私が言いたいのはそういうことだよ」
本当に、血の繋がった実の兄と妹だったなら、どんなによかっただろう。
私がずっとそう願っていたことを、トモ兄だって気づいているはずだ。
「私は奈津だったけど、奈津と夏凛とは違う。生まれた場所も環境も違う。育ってきた過程も違う。トモ兄への気持ちも違う。同じ『好き』でも、種類が違う」
目と目を合わせて、ゆっくりと言った。トモ兄と対等の目線でいられるように、精一杯冷静な態度でいたかったけど、目の端はぴりぴりと引き攣り続けていた。
本当のことを言うと、怖くて怖くて、今にも泣き出しそうだった。
離れない手が、熱を持っている。熱くなっているのは私の手なのか、トモ兄から伝わる熱なのか、それも判らない。
「そんなことはない」
いつも私の言うことなら大体なんでも無条件に聞き入れてくれるトモ兄は、けれど、この件に関してだけは、本当に頑固だった。
「ナツは、僕の奈津だ」
「トモ兄──」
私は困りきって言葉を探しあぐねた。どう言えば判ってもらえるのだろう。
「トモ兄は、私の大事な従兄なんだよ」
「僕にとっても、ナツは大事な従妹だよ。イトコ同士は恋に落ちたらいけないなんていう法律はない。僕らを縛るものは何もないだろう?」
「だから、そういうことじゃなくて……」
疲弊しつつある頭に、なんだかまるで別れ話をしてるみたいだな、とどうでもいい考えがぼんやりと浮かんで、自嘲しそうになった。この場合、別れを切り出したのが私で、それに納得してくれないのがトモ兄か。トモ兄と私はイトコ同士であって、恋人同士ではないはずなのだが。
……いや、違う。
「夏凛」とトモ兄は恋人同士ではないけれど、トモ兄にとって、「奈津」は確かに自分の恋人なのだ。
しかも、真面目に結婚を前提に考えている。
だから、他の男を好きになることを許さない、とあんな風に言い切ってしまうのか。だからこうして、話が見事なまでに噛み合わないのか。
私たちの間には、どうしてもそのあたりの意識に、明確な齟齬がある。
相違があり、食い違いがある。
ちいさく溜め息をついて、私はもう一度口を開こうとした。
──と、その時、突然。
「ナツ」
名前を呼ぶのと同時に、握っている手を、ぐいっと引っ張られた。
「!」
あまりにも唐突な行動に、抗うことも出来なかった。
私の身体は引かれる腕に従って前のめりになり、気づいた時にはもうすでにトモ兄に抱きすくめられていた。
トモ兄の胸板に自分の顔を押しつけられ、頭がパニックになる。さらりとしたセーターの感触が頬に当たり、シトラス系の香りが鼻腔をついて、息が止まりそうだった。
慌てて身を離そうとしたのに、いつの間にか背中に廻っていた腕はびくともしない。とてもじゃないけれど、力で敵う相手ではないと一瞬のうちに悟った。
トモ兄は間違いなく、「大人の男の人」なのだ。
心底、震えあがった。
咄嗟に口をついて出たのは、いや、という否定の言葉だった。
トモ兄の腕の中でもがいて、私は彼を拒絶した。
ただ恐怖だけが身の裡を支配して、他のことを考える余裕は、私の思考にはまったく存在しなかった。
ほんのわずか、トモ兄が私を抱きしめる力がさらに強まったけれど、それからすぐに、するりと力が抜けた。腕の拘束が解け、私は飛びすさるように後方へと逃げる。
トモ兄は落ち着いた目でその様子を見ていた。唇に浮かんでいるのは、またあの薄い微笑だった。
私は真っ青になって部屋の隅でうずくまるように身体を縮めた。
「ナツ」
その声に、びくっと全身が反応する。
今の私はすっかり怯えきったネズミのようだった。獲物を狩ろうとする猫の前で、ただひたすらぶるぶると震えているしかない。
立てた膝に顔を埋め、何度も小刻みに頭を振った。折り曲げた両足を二本の腕で囲み、お団子みたいに小さくなって丸くなる。
このまま消えたい、とさえ思った。
「──そんなに怖がらなくても大丈夫。何もしないよ」
トモ兄の声が近づいてきて、私はますます深く顔を伏せた。ぎゅうっと強く目を閉じる。
子供がいやいやをするように振り続けていた頭に、大きな手が置かれて、自分でも驚くほどに激しく身じろぎした。
「でも、これで判っただろう?」
トモ兄の手の平が私の頭を優しく撫でる。耳に入ってくる彼の声も、同じように優しかった。
子供の頃、ちょっとしたことで泣き出す甘ったれた私を、トモ兄はよくこうやって頭を撫でながら慰めてくれた。でも、それとはまったく違う。トモ兄の手つきも声も、まるで違う。私の中に、その時覚えた安堵感や嬉しさは欠片もない。
怖い。
変わったのは、トモ兄か、それとも私か。──両方か。
「僕は、君のお兄ちゃんなんかじゃない」
トモ兄は言いながら、執拗なくらい私の頭を撫で続けていた。
私の髪の毛、奈津とは似ても似つかないはずの、肩の上で短く切り揃えた髪の毛を、長い指でさらさらと梳いていく。
私は顔を伏せたまま、視界を真っ暗闇にして、その感触に慄き、身を竦めてじっとしていた。
トモ兄の言葉だけが、頭の中をぐるぐると廻り続けている。
聞こえてくる声は、優しいのに、どこかひどく突き放したような響きがあった。
「大丈夫だよ、ナツ」
そこには、わずかに笑みを含んですらいる。
トモ兄は、今、どんな表情をしているのだろう。私はどうしても怖くて、それを確認することは出来なかった。
「君はきっと、僕を好きになる。僕たちは将来きっと結ばれる。そういう運命なんだから」
運命?
物語の中でしかお目にかかれないようなその言葉を、トモ兄が非常になんでもないことのように、さらりと口にした瞬間、背中を戦慄が駆けあがった。
トモ兄──トモ兄、ねえ。
なにを言ってるの?
「僕以外の男を好きになったらいけないよ、ナツ。それは、僕への裏切りであると同時に、奈津に対する裏切りでもある」
裏切り?
「僕と奈津は約束したんだから──その約束は、なんとしても果たさなきゃいけないんだ。奈津もそれを望んでた。ねえ、ナツ、奈津を悲しませるようなことはしたら駄目だよ。それは、許さない」
許さない、と断固とした調子で言うと、ようやく頭から手が離れていった。
そのまま動くことも出来ずにじっとしていると、ガサガサという物音がして、トモ兄のトントンという足音が階段を下りて遠くなっていくのが聞こえた。
ぱっと立ち上がり、急いでドアを閉め、自分のベッドの中に潜りこむ。
布団を頭からかぶって、赤ん坊みたいに丸まっても、身体の震えはなかなか去ってはくれなかった。
身動きもしないで、息を殺し、神経を集中して階下に耳を澄ませる。
あら知哉君、今から飲み物持っていこうと思ったのよ──という、母の甲高い声が聞こえてきた。来るならもっと早くに来てくれればよかったのに、どこまでも抜けた母である。どうせ今まで夢中になってドラマに見入っていたのだろう。
トモ兄がそれに対して、ナツが気分が悪そうなので、と答えている。いつものトモ兄の、穏やかで朗らかな声だった。
やーねー、あの子ったら勉強がしたくないからって、と呆れたように言う母は、頭から仮病と決めてかかっているらしい。しかしそれに腹を立てる気にもならなかった。私としては、母がこの部屋に乗り込んで、ちょっとあんた何してんのよ、と叱り飛ばしてトモ兄の前に無理やり引き出そうとすることのありませんように、と祈るような気分でいるしかない。
バイトとかで疲れてるんじゃないですか、とトモ兄の笑う声、母がぶつぶつと文句を言う声が小さくなる。リビングのドアが閉じられたのだろう。
とりあえず私はほっとして、ようやく肩の力を抜いた。
そうしてみてはじめて、自分が今の今まで、ものすごく緊張していたことを知った。
身体の強張りかたが尋常じゃない。気づいたら奥歯を噛みしめすぎていたのか、耳の付け根のあたりが固くなり、痛いほどだった。
「…………」
大きく息を吸って、息を吐く。
その拍子に、目からぽろっと涙が零れた。
あれれ。
手の甲で乱暴にぐいっと拭ったら、出し抜けにぽろぽろ、と涙が続けざまに出てきた。こする手に、たくさんの水滴が滴り落ちる。
「……っう、く」
こらえようと思うのに、喉の奥から勝手に嗚咽が漏れた。
安心したのか、今でも怖いのか、いろんなことがショックだったのか、何が何だか自分でもよく判らない。ただ、溢れてくる涙は私の意志に反して止まることはなかった。
しゃくりあげ、涙の止まらない目を、くるんだ布団に押しつける。だんだん息苦しくなってきたその密閉空間で、私は細い声をあげながら、いつまでも泣き続けた。
──泣きながら、私の胸の中には、どす黒い不安が雲のように湧き上がっていた。
トモ兄と私の間には、どうにもならない深い溝がある。それは以前からうすうす感じていたことでもあったけれど。
……今日、私は改めて、その事実を眼前に突き付けられたのだ。
私たちにはお互いに、どうしても通じないものがあることに、トモ兄は気づいているだろうか。トモ兄の言うことが私には理解できないように、トモ兄には、私の言い分がまるで判ってもらえない。
同じ言語を使っているはずなのに、私の言葉は、トモ兄の耳にも、心にも届かない。
その掛け違いは、果たして、「話し合い」なんていう通常の手段で、決着のつくことなのだろうか。
目の前が、茫漠とした闇で覆われていく気がした。
***
最近遅くまで試験勉強をしていたためもあったのか、私はそのまま布団の中で眠ってしまったらしい。
目が覚めたら、外も部屋の中も真っ暗だった。ベッド脇に置かれた時計の短針は、八を過ぎて指している。
ぼんやりしたまま、のたのたと起き上がって階段を下りた。玄関には、もうトモ兄の靴はない。ほっとした。
「んまあ、今起きたの?」
リビングのドアを開けると、早速母親に顔をしかめられた。顔をしかめてから、私をまじまじと見て、今度は眉を寄せる。
「あら、ホントに顔色が良くないわね。ご飯、どうする?」
「少し食べる」
正直、あまり食欲はなかったが、私はそう答えた。結局何も勉強はしなかったわけだし、これからまた夜遅くまで教科書や参考書と睨めっこすることになるだろう。胃袋が空っぽのまま、数式が頭に入るとも思えない。
「じゃ、お味噌汁あっためるわ」
自分の分の夕飯はもう済ませたらしい母親が、そう言ってソファから立ち上がる。テーブルの上には、私とまだ仕事から帰らない父親の分のおかずと、空の茶碗が並んでいる。
「トモ兄、食べていかなかったの?」
私が訊ねると、キッチンの母は、ものすごく残念そうに大きな息を吐き出した。
「今日は用事があるから帰るって。忙しい知哉君にわざわざ来てもらったのに、かえって悪いことしちゃったわあー。あんたは寝ちゃうし、ご飯も食べてもらえないし」
それで母は急遽メニューの変更を行ったらしい。テーブルに置いてあるのは、いかにもやっつけで済ませました、という感じのやる気のない顔ぶればかりだった。いつもトモ兄が食べていく時は、お祝い御膳のような豪華で華やかな献立が並ぶのだが、現在私の目の前にある食事は、葬式の折詰でももうちょっと賑やかなんじゃないかと思えるほど貧相である。こんなんで勉強がはかどるのか、我ながら自信ない。
「あれ」
その時、私はテーブルの上に、自分の学校のノートが数冊、整然と置かれているのを見つけて声を上げた。
トモ兄が来た時に、鞄の中からぶちまけたやつだ。部屋にあるはずなのに、どうしてこんな所にあるんだろ、と訝しく思って取りあげ、ぱらぱらとページをめくる。
そして、手を止めた。
ノートのあちこちには、こまごまと、丁寧な筆跡での書き込みがあった。私には覚えのないものばかりだ。
この字、トモ兄の字だ、とすぐに判った。
重要なところ、試験に出そうなところには、ラインが引いてある。補足するように書いてある文章は、私の頭でも理解しやすいようレベルを下げてあるようだった。暗記物は覚えやすいやり方が、数学は使用する公式がいくつも書き足されて、これだけで教科書なんていらないんじゃないかと思えるほど念が入っている。
いくらトモ兄の頭が良いといっても、ここまでノートを仕上げるのはそれなりの根気と時間を必要としたはずだ。私が少しでも試験で点を取りやすいようにと、トモ兄がちゃんと考えて配慮してくれているのが痛いほど感じ取れた。
「…………」
胸が、ずきずきする。
トモ兄はいつでも私に優しい。私が彼を、あんなにもはっきりと拒絶してさえ。
……きっと、前の世から、トモ兄は一途に、奈津に恋しているのだろう。
私に向けられた愛情のこもった瞳を思い出す。今度こそ約束を叶えられる、と、あんなにも嬉しそうだった。
そんなトモ兄を男性として好きにはなれないと言う私は、「裏切り者」として謗られても無理はないのだろうか。他の男の人を好きになるなんて、やっぱり許されないことなのだろうか。私に奈津としての記憶が戻ってこれば、万事オッケー、めでたしめでたし、になるのだろうか。そうすれば、トモ兄の言うことが、私にも芯から納得できるのだろうか。
……蒼君を好きになるのは、いけないことなのだと、思うようになるのだろうか。
堂々巡り。結局、答えの出ない私は、ここで立ち止まるしかない。
ふー、と息を吐いて、私はぱたんとノートを閉じた。
で、はっとした。
待てよこれ、蒼君にコピーして渡すことになってるんじゃん。
え、これを?
どう見ても私の字じゃない男の字で、いくつも書き込みのしてあるこのノートを?
「ええええー!」
いっそ本当に倒れてしまいたい、と私は思った。




