猫にもわからない
国語の試験で、現代文の「作者の気持ちを答えよ」という問題が苦手だった経験はありませんか?
「そんなの本人に聞かなきゃ分かるわけないだろ」
……そう思っていた主人公が、もし本当に“作者本人”だったらどうなるのか?
試験会場で突然前世の記憶(夏目漱石)を取り戻した高校生が、自分の作品の入試問題に挑むコメディ短編です。
気楽にお楽しみいただければ幸いです!
試験開始のチャイムが鳴った。
佐伯悠真は、問題冊子を開いた。
国語。
現代文、古文、漢文。
現代文は、あまり好きではない。
文章を読む。
設問を見る。
選択肢を読む。
そして、作者が何を言いたかったのかを考える。
――それが、どうにも苦手だった。
作者の気持ちなんて、本人に聞かなければ分からない。
そう思っていた。
しかし。
この日だけは違った。
試験会場は静かだった。
何十人もの受験生がいるのに、誰も喋らない。
空調の低い音。
紙をめくる音。
誰かが椅子を動かす、ほんの小さな音。
緊張しているのか、空気まで少し硬い。
悠真は机に手を置いた。
冷たい。
そして、わずかにざらついている。
表面には細かな傷があった。
試験会場の机なんて、どこにでもある普通の机だ。
なのに。
その木の感触に触れた時に、少し視界がぶれた気がした。
「気のせいだ。」
第一問の本文を見た。
「……え?」
悠真の手が止まった。
『吾輩は猫である。まだ名はない。』
「……」
知っている。
もちろん知っている。
誰でも知っている。
夏目漱石。
『吾輩は猫である』。
明治時代の文学作品。
悠真は本文を読み始めた。
『吾輩は猫である。まだ名はない。』
「……」
その一文を目にした瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
机。
木の机だった。
今、触れている机とは違う。
もっと古い。
木の表面には細かな凹凸があり、手のひらにざらつきが伝わってくる。
その上に原稿用紙が置かれている。
紙も、今のコピー用紙とは違った。
指先に、わずかなざらつきがある。
自分の手が見える。
ペンを握っている。
窓から光が入っている。
インクの匂い。
「……ここ」
悠真は小さく呟いた。
覚えている。
この一文を書いた。
知識として知っているのではない。
書いたときの感覚そのものが残っている。
原稿用紙のざらつき。
ペン先が紙を擦る感触。
インクが紙に染みていく感覚。
原稿用紙に、
『吾輩は猫である。』
と書いた。
そして、少し考えた。
「猫に名前、いるかな」
そんなことを考えた。
そこで、
『まだ名はない。』
と続けた。
「……そうだった」
悠真は本文に目を戻した。
次の文章。
『どこで生れたかとんと見当がつかぬ。』
「ああ……」
また記憶が戻った。
今度は夜だった。
部屋は暗い。
机の上だけが明るい。
黄色っぽい灯りだった。
今の蛍光灯のような白い光ではない。
机と原稿用紙だけが、その灯りの中に浮かんでいる。
机の上に明かりがついている。
その周りだけが明るい。
原稿用紙の端には、書き損じた紙が丸めて置いてある。
猫がどこから来たのか。
どういう猫なのか。
少し考えた。
「本人にも分からないことにするか」
そう思った。
そして書いた。
『どこで生れたかとんと見当がつかぬ。』
「……そうそう」
悠真は、思わず笑った。
さらに読み進める。
『何でも薄暗いじめじめした所で、ニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。』
「……ここも覚えてる」
今度は、書いている途中の自分の姿がはっきり浮かんだ。
猫の鳴き声をどう書くか考えている。
「ニャーニャーでいいか」
そう決めて書いた。
そして読み返した。
「……」
少し笑った。
「俺、ここで笑ってる」
記憶の中の自分は、文学者らしく難しい顔をしているわけではなかった。
ただ文章を書いている。
猫を動かしている。
猫に喋らせている。
そして、その猫から人間を眺めさせている。
悠真はページをめくった。
知っている。
この先に何が書いてあるのか。
どこで文章を書き直したのか。
どこで手を止めたのか。
どこで夜が遅くなったのか。
どこで腹が減って、いったん筆を置いたのか。
少しずつ、記憶が戻ってくる。
完成した本を読んでいるのとは違う。
文章そのものだけではない。
その文章を書いていた自分の時間まで、一緒に蘇ってくる。
「……そうだった」
悠真は本文を見つめた。
これは「知っている文章」ではない。
自分が書いた文章だ。
机も。
原稿用紙も。
ペンも。
インクの匂いも。
書きながら考えていたことも。
全部、自分の記憶だった。
そして、もっとはっきりと思い出した。
猫に喋らせた。
人間を猫の目から見た。
人間のやっていることを、猫に少し偉そうに語らせた。
それが面白いと思った。
「猫に喋らせたら面白そう」
それだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……俺、これ書いたな」
悠真の中で、二つの記憶が重なった。
夏目漱石。
そして、自分。
「……マジか」
悠真は、問題冊子を見つめた。
「俺、夏目漱石だったんだ」
しばらく呆然としていた。
だが。
試験中である。
感慨にふけっている場合ではない。
悠真は本文を最後まで読み切った。
「よし」
余裕だった。
作者本人だ。
こんな問題、楽勝に決まっている。
悠真は設問に目を移した。
問一。
『「吾輩」が指すものとして、最も適切なものを選べ。』
「猫」
即答。
③。
丸。
問二。
『「吾輩」は、どのような立場から人間を観察しているか。』
「猫の立場」
丸。
簡単だ。
悠真は、口元を少し緩めた。
なんだ。
国語、今日いけるんじゃないか。
作者本人なんだから、当然だ。
周りの受験生が一生懸命問題文とにらめっこしている。
悠真は少しだけ優越感を覚えた。
――こっちは作者なんだけどな。
そして問三。
『「吾輩」という一人称を用いることによって生じる効果として、最も適切なものを選べ。』
「……」
悠真のペンが止まった。
「効果?」
選択肢を見る。
①人間社会を外部から客観的に観察する視点を生み出す。
②人間と動物の立場を逆転させ、人間の本質を浮かび上がらせる。
③近代社会における人間の孤独を表現する。
④作者の自我を猫という存在に仮託する。
「……」
本文を見る。
選択肢を見る。
本文を見る。
もう一度、選択肢を見る。
「……どれ?」
さっきまでの余裕が、ほんの少し消えた。
①。
「まあ……そうだな」
②。
「……これも、そうだな」
④。
「自我……?」
分からない。
悠真は椅子に座り直した。
「いや、待て」
記憶を探る。
猫。
喋る。
吾輩。
なぜ「吾輩」にした?
「……なんとなく偉そうだから」
それしか出てこない。
「いやいやいや」
自分で自分に突っ込む。
「入試で『なんとなく』はダメだろ」
もう一度、選択肢を見る。
①か②。
悠真は指で問題文をなぞった。
「作者の意図……」
記憶を探る。
「俺、このとき何考えてた?」
さっきまで蘇っていた記憶には、そんな難しいことは出てこなかった。
机。
原稿用紙。
インク。
猫。
そして、
――面白そう。
「……」
悠真は、少し嫌な予感がした。
問三だけで三分経った。
ようやく①に丸をつける。
「……たぶん」
その「たぶん」が、嫌だった。
問四。
『本文における猫の視点が、人間社会をどのように相対化しているか、六十字以内で説明せよ。』
「…………」
記述。
悠真はシャーペンを持った。
書く。
『猫という人間とは異なる視点から――』
止まる。
「……異なる視点?」
自分で書いた文章なのに、自分の言葉が急に信用できなくなった。
消す。
『猫の視点を通して、人間の――』
止まる。
「人間の何?」
本文を見る。
「……何なんだよ」
また消す。
隣では、カリカリカリカリと鉛筆が走っている。
前の席も。
後ろも。
みんな書いている。
悠真だけが、自分の作品を前にして固まっている。
「……みんな分かってるの?」
妙な焦りが湧いてきた。
さっきまで、
――こっちは作者なんだけどな。
と思っていた。
今は、
――こっちが作者なのに、なんで俺だけ書けないんだ。
と思っている。
悠真は汗を拭った。
「待て」
自分に言い聞かせる。
「俺が作者だぞ」
本文を見る。
「分からないはずがない」
もう一度読む。
内容は分かる。
もちろん分かる。
猫に人間を語らせた。
人間をちょっとからかった。
それは覚えている。
だが。
「六十字にしろって言われると……」
言葉が出てこない。
「……急に分からん」
問五。
『作者が猫を語り手として設定した理由について、当時の社会状況にも触れて、百字以内で説明せよ。』
「……当時の社会状況」
悠真は天井を見た。
明治。
文明開化。
西洋化。
近代化。
知識人。
「これは……」
書ける。
たぶん。
いや、書ける。
悠真は自信を取り戻しかけた。
『明治期の日本では西洋化と近代化が進み――』
ペンが止まった。
「……で?」
猫。
文明開化。
猫。
近代化。
猫。
「……どうつながるんだ?」
記憶を掘る。
掘る。
さらに掘る。
出てくるのは、
猫に喋らせたら面白そう。
だけだった。
「…………」
悠真は問題冊子を見つめた。
「俺、猫にそんな社会的使命を背負わせた覚えないぞ」
汗が、今度はこめかみから流れた。
問六。
『本文中の「吾輩」の言動を踏まえ、作者の人間観について、具体的な表現を二つ挙げて説明せよ。』
「人間観……」
悠真はペンを置いた。
深呼吸。
目を閉じる。
前世の自分を呼び出す。
――夏目漱石。
お前は何を考えていた?
……。
何を思って書いた?
……。
人間についてどう考えていた?
……。
「…………」
悠真は目を開けた。
「腹、減ってたな」
出てきた記憶はそれだった。
次。
「眠かった」
次。
「締切があった」
次。
「猫に喋らせたら面白そうだった」
悠真は頭を抱えた。
「違う違う違う」
俺はもっとこう――。
文学者らしい何かを考えていたはずだ。
深い思想とか。
人間存在についての苦悩とか。
近代文明に対する批判とか。
「……考えてたよな?」
自分に聞く。
返事はない。
「考えてたことにしてくれよ……」
当然、返事はない。
悠真は本文を睨んだ。
「なあ、俺」
本文に話しかける。
「お前、何でこの表現にした?」
当然、紙は答えない。
「どういう意図?」
沈黙。
「何を象徴してる?」
沈黙。
「……俺だろ、お前」
当然である。
悠真の手が震え始めた。
問七。
『この作品が日本近代文学史において重要な位置を占める理由を、作品の特徴と当時の社会背景を関連づけて説明せよ。』
「…………」
悠真の顔から血の気が引いた。
「文学史?」
そこまで来ると、もう意味が分からない。
「俺が書いた時点で、文学史じゃないだろ……」
作品の特徴。
社会背景。
関連づける。
「三つも要求するなよ……」
汗が顎から落ちた。
残り二十一分。
悠真は周囲を見た。
みんな黙々と解いている。
一人だけ、ものすごい勢いでページをめくっている。
別の一人は、もう漢文に入っている。
「……速くない?」
急に不安になった。
「俺、遅い?」
時計を見る。
遅い。
かなり遅い。
「まずい」
悠真はページをめくった。
問八。
最後の問題。
『以上を踏まえ、作者・夏目漱石が「吾輩は猫である」を通して読者に伝えようとした「人間とは何か」について、百二十字以内で論述せよ。』
「…………」
悠真は動かなかった。
「人間とは何か」
もう一度読む。
「人間とは何か……」
目が泳ぐ。
手に汗。
背中に汗。
額にも汗。
「……知らん」
小声だった。
しかし。
このままではまずい。
悠真は答案用紙に向かった。
「作者本人なんだから……」
書く。
――人間とは、
止まる。
「……何?」
分からない。
人間とは何だ。
漱石は何を考えていた?
いや、悠真は何を考えていた?
机。
原稿用紙。
インク。
猫。
――面白そう。
「…………」
悠真は答案用紙に書いた。
『猫に喋らせたら面白いと思った。』
見つめる。
「違う」
消す。
書く。
『人間社会を猫の視点から描くことで――』
止まる。
「何を?」
消す。
書く。
『人間とは、自分を偉いと思っているが――』
止まる。
「……俺、そんなこと言った?」
消す。
残り十五分。
悠真はついに、答案用紙に小さく書いた。
『作者本人ですけど?』
じっと見る。
「……」
消しゴムで消す。
消した跡を見つめる。
「……何やってんだ、俺」
最後の問題は空欄のまま。
試験終了のチャイムが鳴った。
答案が回収される。
悠真は椅子に深くもたれた。
「……疲れた」
国語の試験で、こんなに疲れたのは初めてだった。
帰り道。
悠真は駅前の本屋に入った。
自動ドアが開く。
紙とインク、それから少し古い本の匂いが混ざった空気が流れてくる。
「……」
その匂いに、また記憶が引っかかった。
机の上に積まれた本。
原稿用紙。
インク。
夜。
書きかけの文章。
悠真は一瞬、足を止めた。
けれど。
すぐに文学の棚へ向かった。
そこに『吾輩は猫である』が並んでいた。
一冊手に取る。
本文を開く。
やっぱり覚えている。
ここは自分が書いた。
ここも。
ここも。
本文なら分かる。
書いたときのことも分かる。
なのに。
解説を読む。
『本作は近代化する日本社会における知識人の自意識を――』
「……」
悠真は眉をひそめた。
『猫という異質な視点を導入することで、人間中心主義を相対化し――』
「…………」
『「吾輩」という一人称には、作者の――』
「………………」
悠真は本を閉じた。
「俺、こんなこと考えてたのか?」
考えていない。
少なくとも、記憶にない。
だが。
自分が書いた。
間違いなく、自分が書いた。
それなのに、後世の人間は、自分でも知らない自分を次々と発見していく。
悠真はしばらく黙っていた。
そして。
「……文学って、怖いな」
少し笑った。
「でも――」
ここまで考えて、悠真はふと思った。
もしかすると。
自分が気づかなかったことを、後の人間が見つけたのかもしれない。
書いた本人には見えなかったものが、他人には見える。
それは、案外悪いことではないのかもしれない。
「……まあ、いいか」
本を棚に戻した。
そして店を出る。
――三日後。
大学から合格通知が届いた。
封筒を開ける。
紙を指でつまんだ瞬間、その感触が妙に気になった。
少し硬い。
さらりとしている。
試験で使った答案用紙とは違う。
新しい紙の、乾いた感触。
「受かった……」
悠真は安心した。
しかし、その封筒の中に、一枚の紙が入っていた。
「……」
嫌な予感しかしない。
読む。
『国語・記述問題について』
「……」
悠真は紙を持ったまま固まった。
続きを読む。
『問八において、「作者本人ですけど?」と記述した答案がありました。』
「……」
悠真は目を閉じた。
続きを読む。
『出題意図を理解していないものとして、得点を与えませんでした。』
「…………」
悠真は紙を机に置いた。
そして天井を見上げた。
「だから……」
しばらく黙る。
「……本人なんだって」
窓の外で、一匹の猫が鳴いた。
悠真は猫を見返した。
「お前なら分かるか?」
猫は答えなかった。
ただ、悠真を一瞥すると、さっさと歩いていった。
「……お前もかよ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
「作者の意図」と「出題者・批評家の解釈」のギャップという、誰もが一度は感じたことのある国語の試験の理不尽さをテーマに書いてみました。
どれだけ歴史に残る大豪傑や文豪であっても、執筆当時は「腹減ったな」「締め切りヤバいな」「なんか面白そうだから書いた」くらいのリアルな感覚だったのかもしれません。
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