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猫にもわからない

作者: とんぼ
掲載日:2026/09/09

国語の試験で、現代文の「作者の気持ちを答えよ」という問題が苦手だった経験はありませんか?


「そんなの本人に聞かなきゃ分かるわけないだろ」


……そう思っていた主人公が、もし本当に“作者本人”だったらどうなるのか?

試験会場で突然前世の記憶(夏目漱石)を取り戻した高校生が、自分の作品の入試問題に挑むコメディ短編です。


気楽にお楽しみいただければ幸いです!

試験開始のチャイムが鳴った。


 佐伯悠真は、問題冊子を開いた。


 国語。


 現代文、古文、漢文。


 現代文は、あまり好きではない。


 文章を読む。

 設問を見る。

 選択肢を読む。


 そして、作者が何を言いたかったのかを考える。


 ――それが、どうにも苦手だった。


 作者の気持ちなんて、本人に聞かなければ分からない。


 そう思っていた。


 しかし。


 この日だけは違った。


 試験会場は静かだった。


 何十人もの受験生がいるのに、誰も喋らない。


 空調の低い音。

 紙をめくる音。

 誰かが椅子を動かす、ほんの小さな音。


 緊張しているのか、空気まで少し硬い。


 悠真は机に手を置いた。


 冷たい。


 そして、わずかにざらついている。


 表面には細かな傷があった。


 試験会場の机なんて、どこにでもある普通の机だ。


 なのに。


 その木の感触に触れた時に、少し視界がぶれた気がした。


「気のせいだ。」


 第一問の本文を見た。


「……え?」


 悠真の手が止まった。


『吾輩は猫である。まだ名はない。』


「……」


 知っている。


 もちろん知っている。


 誰でも知っている。


 夏目漱石。


『吾輩は猫である』。


 明治時代の文学作品。


 悠真は本文を読み始めた。


『吾輩は猫である。まだ名はない。』


「……」


 その一文を目にした瞬間だった。


 頭の奥で、何かが弾けた。


 机。


 木の机だった。


 今、触れている机とは違う。


 もっと古い。


 木の表面には細かな凹凸があり、手のひらにざらつきが伝わってくる。


 その上に原稿用紙が置かれている。


 紙も、今のコピー用紙とは違った。


 指先に、わずかなざらつきがある。


 自分の手が見える。


 ペンを握っている。


 窓から光が入っている。


 インクの匂い。


「……ここ」


 悠真は小さく呟いた。


 覚えている。


 この一文を書いた。


 知識として知っているのではない。


 書いたときの感覚そのものが残っている。


 原稿用紙のざらつき。


 ペン先が紙を擦る感触。


 インクが紙に染みていく感覚。


 原稿用紙に、


『吾輩は猫である。』


 と書いた。


 そして、少し考えた。


「猫に名前、いるかな」


 そんなことを考えた。


 そこで、


『まだ名はない。』


 と続けた。


「……そうだった」


 悠真は本文に目を戻した。


 次の文章。


『どこで生れたかとんと見当がつかぬ。』


「ああ……」


 また記憶が戻った。


 今度は夜だった。


 部屋は暗い。


 机の上だけが明るい。


 黄色っぽい灯りだった。


 今の蛍光灯のような白い光ではない。


 机と原稿用紙だけが、その灯りの中に浮かんでいる。


 机の上に明かりがついている。


 その周りだけが明るい。


 原稿用紙の端には、書き損じた紙が丸めて置いてある。


 猫がどこから来たのか。


 どういう猫なのか。


 少し考えた。


「本人にも分からないことにするか」


 そう思った。


 そして書いた。


『どこで生れたかとんと見当がつかぬ。』


「……そうそう」


 悠真は、思わず笑った。


 さらに読み進める。


『何でも薄暗いじめじめした所で、ニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。』


「……ここも覚えてる」


 今度は、書いている途中の自分の姿がはっきり浮かんだ。


 猫の鳴き声をどう書くか考えている。


「ニャーニャーでいいか」


 そう決めて書いた。


 そして読み返した。


「……」


 少し笑った。


「俺、ここで笑ってる」


 記憶の中の自分は、文学者らしく難しい顔をしているわけではなかった。


 ただ文章を書いている。


 猫を動かしている。


 猫に喋らせている。


 そして、その猫から人間を眺めさせている。


 悠真はページをめくった。


 知っている。


 この先に何が書いてあるのか。


 どこで文章を書き直したのか。


 どこで手を止めたのか。


 どこで夜が遅くなったのか。


 どこで腹が減って、いったん筆を置いたのか。


 少しずつ、記憶が戻ってくる。


 完成した本を読んでいるのとは違う。


 文章そのものだけではない。


 その文章を書いていた自分の時間まで、一緒に蘇ってくる。


「……そうだった」


 悠真は本文を見つめた。


 これは「知っている文章」ではない。


 自分が書いた文章だ。


 机も。


 原稿用紙も。


 ペンも。


 インクの匂いも。


 書きながら考えていたことも。


 全部、自分の記憶だった。


 そして、もっとはっきりと思い出した。


 猫に喋らせた。


 人間を猫の目から見た。


 人間のやっていることを、猫に少し偉そうに語らせた。


 それが面白いと思った。


「猫に喋らせたら面白そう」


 それだった。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「……俺、これ書いたな」


 悠真の中で、二つの記憶が重なった。


 夏目漱石。


 そして、自分。


「……マジか」


 悠真は、問題冊子を見つめた。


「俺、夏目漱石だったんだ」


 しばらく呆然としていた。


 だが。


 試験中である。


 感慨にふけっている場合ではない。


 悠真は本文を最後まで読み切った。


「よし」


 余裕だった。


 作者本人だ。


 こんな問題、楽勝に決まっている。


 悠真は設問に目を移した。


 問一。


『「吾輩」が指すものとして、最も適切なものを選べ。』


「猫」


 即答。


 ③。


 丸。


 問二。


『「吾輩」は、どのような立場から人間を観察しているか。』


「猫の立場」


 丸。


 簡単だ。


 悠真は、口元を少し緩めた。


 なんだ。


 国語、今日いけるんじゃないか。


 作者本人なんだから、当然だ。


 周りの受験生が一生懸命問題文とにらめっこしている。


 悠真は少しだけ優越感を覚えた。


 ――こっちは作者なんだけどな。


 そして問三。


『「吾輩」という一人称を用いることによって生じる効果として、最も適切なものを選べ。』


「……」


 悠真のペンが止まった。


「効果?」


 選択肢を見る。


 ①人間社会を外部から客観的に観察する視点を生み出す。


 ②人間と動物の立場を逆転させ、人間の本質を浮かび上がらせる。


 ③近代社会における人間の孤独を表現する。


 ④作者の自我を猫という存在に仮託する。


「……」


 本文を見る。


 選択肢を見る。


 本文を見る。


 もう一度、選択肢を見る。


「……どれ?」


 さっきまでの余裕が、ほんの少し消えた。


 ①。


「まあ……そうだな」


 ②。


「……これも、そうだな」


 ④。


「自我……?」


 分からない。


 悠真は椅子に座り直した。


「いや、待て」


 記憶を探る。


 猫。


 喋る。


 吾輩。


 なぜ「吾輩」にした?


「……なんとなく偉そうだから」


 それしか出てこない。


「いやいやいや」


 自分で自分に突っ込む。


「入試で『なんとなく』はダメだろ」


 もう一度、選択肢を見る。


 ①か②。


 悠真は指で問題文をなぞった。


「作者の意図……」


 記憶を探る。


「俺、このとき何考えてた?」


 さっきまで蘇っていた記憶には、そんな難しいことは出てこなかった。


 机。


 原稿用紙。


 インク。


 猫。


 そして、


 ――面白そう。


「……」


 悠真は、少し嫌な予感がした。


 問三だけで三分経った。


 ようやく①に丸をつける。


「……たぶん」


 その「たぶん」が、嫌だった。


 問四。


『本文における猫の視点が、人間社会をどのように相対化しているか、六十字以内で説明せよ。』


「…………」


 記述。


 悠真はシャーペンを持った。


 書く。


『猫という人間とは異なる視点から――』


 止まる。


「……異なる視点?」


 自分で書いた文章なのに、自分の言葉が急に信用できなくなった。


 消す。


『猫の視点を通して、人間の――』


 止まる。


「人間の何?」


 本文を見る。


「……何なんだよ」


 また消す。


 隣では、カリカリカリカリと鉛筆が走っている。


 前の席も。


 後ろも。


 みんな書いている。


 悠真だけが、自分の作品を前にして固まっている。


「……みんな分かってるの?」


 妙な焦りが湧いてきた。


 さっきまで、


 ――こっちは作者なんだけどな。


 と思っていた。


 今は、


 ――こっちが作者なのに、なんで俺だけ書けないんだ。


 と思っている。


 悠真は汗を拭った。


「待て」


 自分に言い聞かせる。


「俺が作者だぞ」


 本文を見る。


「分からないはずがない」


 もう一度読む。


 内容は分かる。


 もちろん分かる。


 猫に人間を語らせた。


 人間をちょっとからかった。


 それは覚えている。


 だが。


「六十字にしろって言われると……」


 言葉が出てこない。


「……急に分からん」


 問五。


『作者が猫を語り手として設定した理由について、当時の社会状況にも触れて、百字以内で説明せよ。』


「……当時の社会状況」


 悠真は天井を見た。


 明治。


 文明開化。


 西洋化。


 近代化。


 知識人。


「これは……」


 書ける。


 たぶん。


 いや、書ける。


 悠真は自信を取り戻しかけた。


『明治期の日本では西洋化と近代化が進み――』


 ペンが止まった。


「……で?」


 猫。


 文明開化。


 猫。


 近代化。


 猫。


「……どうつながるんだ?」


 記憶を掘る。


 掘る。


 さらに掘る。


 出てくるのは、


 猫に喋らせたら面白そう。


 だけだった。


「…………」


 悠真は問題冊子を見つめた。


「俺、猫にそんな社会的使命を背負わせた覚えないぞ」


 汗が、今度はこめかみから流れた。


 問六。


『本文中の「吾輩」の言動を踏まえ、作者の人間観について、具体的な表現を二つ挙げて説明せよ。』


「人間観……」


 悠真はペンを置いた。


 深呼吸。


 目を閉じる。


 前世の自分を呼び出す。


 ――夏目漱石。


 お前は何を考えていた?


 ……。


 何を思って書いた?


 ……。


 人間についてどう考えていた?


 ……。


「…………」


 悠真は目を開けた。


「腹、減ってたな」


 出てきた記憶はそれだった。


 次。


「眠かった」


 次。


「締切があった」


 次。


「猫に喋らせたら面白そうだった」


 悠真は頭を抱えた。


「違う違う違う」


 俺はもっとこう――。


 文学者らしい何かを考えていたはずだ。


 深い思想とか。


 人間存在についての苦悩とか。


 近代文明に対する批判とか。


「……考えてたよな?」


 自分に聞く。


 返事はない。


「考えてたことにしてくれよ……」


 当然、返事はない。


 悠真は本文を睨んだ。


「なあ、俺」


 本文に話しかける。


「お前、何でこの表現にした?」


 当然、紙は答えない。


「どういう意図?」


 沈黙。


「何を象徴してる?」


 沈黙。


「……俺だろ、お前」


 当然である。


 悠真の手が震え始めた。


 問七。


『この作品が日本近代文学史において重要な位置を占める理由を、作品の特徴と当時の社会背景を関連づけて説明せよ。』


「…………」


 悠真の顔から血の気が引いた。


「文学史?」


 そこまで来ると、もう意味が分からない。


「俺が書いた時点で、文学史じゃないだろ……」


 作品の特徴。


 社会背景。


 関連づける。


「三つも要求するなよ……」


 汗が顎から落ちた。


 残り二十一分。


 悠真は周囲を見た。


 みんな黙々と解いている。


 一人だけ、ものすごい勢いでページをめくっている。


 別の一人は、もう漢文に入っている。


「……速くない?」


 急に不安になった。


「俺、遅い?」


 時計を見る。


 遅い。


 かなり遅い。


「まずい」


 悠真はページをめくった。


 問八。


 最後の問題。


『以上を踏まえ、作者・夏目漱石が「吾輩は猫である」を通して読者に伝えようとした「人間とは何か」について、百二十字以内で論述せよ。』


「…………」


 悠真は動かなかった。


「人間とは何か」


 もう一度読む。


「人間とは何か……」


 目が泳ぐ。


 手に汗。


 背中に汗。


 額にも汗。


「……知らん」


 小声だった。


 しかし。


 このままではまずい。


 悠真は答案用紙に向かった。


「作者本人なんだから……」


 書く。


 ――人間とは、


 止まる。


「……何?」


 分からない。


 人間とは何だ。


 漱石は何を考えていた?


 いや、悠真は何を考えていた?


 机。


 原稿用紙。


 インク。


 猫。


 ――面白そう。


「…………」


 悠真は答案用紙に書いた。


『猫に喋らせたら面白いと思った。』


 見つめる。


「違う」


 消す。


 書く。


『人間社会を猫の視点から描くことで――』


 止まる。


「何を?」


 消す。


 書く。


『人間とは、自分を偉いと思っているが――』


 止まる。


「……俺、そんなこと言った?」


 消す。


 残り十五分。


 悠真はついに、答案用紙に小さく書いた。


『作者本人ですけど?』


 じっと見る。


「……」


 消しゴムで消す。


 消した跡を見つめる。


「……何やってんだ、俺」


 最後の問題は空欄のまま。


 試験終了のチャイムが鳴った。


 答案が回収される。


 悠真は椅子に深くもたれた。


「……疲れた」


 国語の試験で、こんなに疲れたのは初めてだった。


 帰り道。


 悠真は駅前の本屋に入った。


 自動ドアが開く。


 紙とインク、それから少し古い本の匂いが混ざった空気が流れてくる。


「……」


 その匂いに、また記憶が引っかかった。


 机の上に積まれた本。


 原稿用紙。


 インク。


 夜。


 書きかけの文章。


 悠真は一瞬、足を止めた。


 けれど。


 すぐに文学の棚へ向かった。


 そこに『吾輩は猫である』が並んでいた。


 一冊手に取る。


 本文を開く。


 やっぱり覚えている。


 ここは自分が書いた。


 ここも。


 ここも。


 本文なら分かる。


 書いたときのことも分かる。


 なのに。


 解説を読む。


『本作は近代化する日本社会における知識人の自意識を――』


「……」


 悠真は眉をひそめた。


『猫という異質な視点を導入することで、人間中心主義を相対化し――』


「…………」


『「吾輩」という一人称には、作者の――』


「………………」


 悠真は本を閉じた。


「俺、こんなこと考えてたのか?」


 考えていない。


 少なくとも、記憶にない。


 だが。


 自分が書いた。


 間違いなく、自分が書いた。


 それなのに、後世の人間は、自分でも知らない自分を次々と発見していく。


 悠真はしばらく黙っていた。


 そして。


「……文学って、怖いな」


 少し笑った。


「でも――」


 ここまで考えて、悠真はふと思った。


 もしかすると。


 自分が気づかなかったことを、後の人間が見つけたのかもしれない。


 書いた本人には見えなかったものが、他人には見える。


 それは、案外悪いことではないのかもしれない。


「……まあ、いいか」


 本を棚に戻した。


 そして店を出る。


 ――三日後。


 大学から合格通知が届いた。


 封筒を開ける。


 紙を指でつまんだ瞬間、その感触が妙に気になった。


 少し硬い。


 さらりとしている。


 試験で使った答案用紙とは違う。


 新しい紙の、乾いた感触。


「受かった……」


 悠真は安心した。


 しかし、その封筒の中に、一枚の紙が入っていた。


「……」


 嫌な予感しかしない。


 読む。


『国語・記述問題について』


「……」


 悠真は紙を持ったまま固まった。


 続きを読む。


『問八において、「作者本人ですけど?」と記述した答案がありました。』


「……」


 悠真は目を閉じた。


 続きを読む。


『出題意図を理解していないものとして、得点を与えませんでした。』


「…………」


 悠真は紙を机に置いた。


 そして天井を見上げた。


「だから……」


 しばらく黙る。


「……本人なんだって」


 窓の外で、一匹の猫が鳴いた。


 悠真は猫を見返した。


「お前なら分かるか?」


 猫は答えなかった。


 ただ、悠真を一瞥すると、さっさと歩いていった。


「……お前もかよ」



最後までお読みいただき、ありがとうございました!


「作者の意図」と「出題者・批評家の解釈」のギャップという、誰もが一度は感じたことのある国語の試験の理不尽さをテーマに書いてみました。

どれだけ歴史に残る大豪傑や文豪であっても、執筆当時は「腹減ったな」「締め切りヤバいな」「なんか面白そうだから書いた」くらいのリアルな感覚だったのかもしれません。


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