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最終話 “へ”の外側

 四月になった。


 なったからといって、ぐうたらするめの中で何かが切り替わるわけではない。

 カレンダーはめくれても、人生はそんなに器用に段差を越えない。


 それでも四月というのは、やたらと“始まる側”の顔をしてくる季節だった。


 春の風。

 新しいスーツ。

 新品の鞄。

 駅前の看板に並ぶ「新生活」「新年度」「フレッシャーズ応援」。

 街全体が、これから何かを始める人を甘やかす方向へ少しだけ傾いている。


 ぐうたらするめは、その傾きの外側にいた。


 平日の昼間だった。


 天気はよかった。

 こういう日は、部屋の中にいると逆に息が詰まる。

 なので外に出た。

 前向きな散歩ではない。

 沈み切る前に、少しだけ場所を変えに来た、くらいのやつだ。


 近所の公園のベンチに座って、コンビニで買った缶を膝の上に置く。

 一本だけ。

 昼から飲むには十分であり、言い訳するには少し多い量だった。


「まぁ……今日はそういう日なので」


 誰に向けるでもなく言って、プルタブを開ける。


 小さく乾いた音がした。


 最初の一口は、冷たかった。

 ちゃんと冷たいというだけで、少しだけ世界の評価が回復することがある。

 酒にはそういうところがある。


 ベンチの前には、春の色をした木がある。

 遠くでは子どもの声がした。

 公園の隅の砂場に、小さな子を連れた親子がいる。

 平日の昼間というのは、働いている人と働いていない人以外にも、案外いろんな人がいる。


 ただ、その中で自分がどのカテゴリにいるのかは、あまり考えたくなかった。


 缶をもう一口飲んで、ぐうたらするめはスマホを取り出した。


 開かなければいいのに、こういう日に限って開いてしまう。

 SNSというのはそういうものだ。

 元気な時はどうでもいい情報しか出さないくせに、弱っている時ほどちょうど嫌なものを見せてくる。


 画面を少しスクロールする。


 春だった。


 言葉の端々が、もう完全に四月だった。


『新社会人へ。最初の一年は、完璧を目指さなくていい。まずは続けることが大事です』


『新社会人へ。メモを取るだけで、数か月後にかなり差がつきます』


『新社会人へ。最初は何もできなくて当たり前です。焦らず、一つずつ覚えていけばいい』


『新社会人へ。最初のうちは素直さがいちばんの武器になる』


「うるさ……」


 思わず声が出た。


 言っていること自体は、別におかしくない。

 むしろたぶん、まともなのだ。

 数年なり十数年なり働いた人たちが、自分の経験から、それなりに善意で言っている。

 たぶん新社会人の頃の自分を思い出している人もいるのだろう。


 だから余計に、しんどかった。


 間違っていれば、まだ腹を立てやすい。

 極端な精神論でも、雑な説教でも、上から目線すぎる自慢でもない。

 ちゃんとした人たちが、ちゃんとしたことを言っている。

 それが今日のぐうたらするめには、妙に刺さった。


 もう一つ流れてくる。


『新社会人へ。無理に明るくしなくていいけど、挨拶だけは自分からした方が楽になります』


「知らんがな……」


 つぶやいて、画面を指で止めた。


 知らんがな、と思った。

 こっちは挨拶以前の段階にいない。

 出社もしないし、研修もないし、上司もいない。

 “最初のうちは”どころか、その最初にすら立てていない。


 ベンチの背にもたれ、少し空を見る。


 風はぬるかった。

 ぬるいというだけで、冬よりずっと残酷なことがある。


 公園の外の歩道を、スーツ姿の若い集団が通っていった。

 まだ着慣れていない黒。

 少し硬い歩き方。

 声の大きさだけが妙に揃っている。

 研修帰りか、初出社か、あるいはただの就活生かもしれない。

 見分けはつかない。


 でも、あっち側だとは思った。


 始まる側。

 呼びかけられる側。

 「新社会人へ」と言われる側。


 ぐうたらするめは、缶を持ったまま、その背中をぼんやり目で追った。


「……そっち側に行きたかったな」


 口に出してから、自分で少し驚いた。


 うるさいと思っていた。

 見たくないとも思っていた。

 でも本当は、たぶん最初から別の感情が混ざっていた。


 羨ましいのだ。


 新社会人。

 ちゃんと始まる人たち。

 不安そうな顔をしながらも、少なくとも“始める側”に立っている人たち。


 自分もそこに入るつもりだった。

 入れるような気がしていた。

 何の根拠もなく、季節が来れば自分もそっちにいると思っていた。


 でも今の自分は、公園で昼から酒を飲みながら、ベンチでその空気を眺めている。


 それが悪いと言いたいわけではない。

 たぶんそんなに立派なことでもないし、かといって犯罪でもない。

 ただ、少しだけ予定と違った。


 スマホの画面に戻る。


 また「新社会人へ」が流れてくる。


 へ。


 ぐうたらするめは、その一文字をぼんやり見た。


 へ、というのは行き先でもあるし、呼びかけでもある。

 誰かに向けて言葉を投げる時の、矢印みたいな文字だ。


 新社会人へ。

 新しい場所に立った人たちへ。

 これから社会に入っていく人たちへ。


 言葉が向かっていく先が、そこにはある。


 自分はいない。


 今の自分は、その“へ”の外側にいる。


 言葉が通り過ぎていくのを、ただ見ているだけだ。


「……あーあ」


 小さく息をついて、缶を傾ける。


 酒はさっきより少しぬるくなっていた。

 でもまだ飲めた。

 ぬるくなっても飲める、というのは、ある種の頼もしさかもしれない。


 ベンチの前を、自転車に乗った中学生が通り過ぎる。

 砂場の子どもが笑う。

 犬を散歩させている老人がいる。

 世界は普通に進んでいる。

 自分の就職が決まっていようがいまいが、公園はちゃんと公園として存在していた。


 それが少しだけ、救いみたいでもあった。


 ぐうたらするめは、スマホをまた見た。


 今度は仕事論アカウントらしき投稿が流れてきた。


『新社会人へ。最初から“できる人”になろうとしなくていい。“感じのいい人”を目指すだけで十分です』


「その土俵にすら上がってないんだよなぁ……」


 苦笑いが出る。


 感じがいい人。

 それもまた、なかなか難しい。

 少なくとも、面接で「御社が今だけ優しい会社か見抜けます」と言うタイプは、感じがいいとは評価されにくい。


 そこまで考えて、ちょっと笑った。


 だめだな、とも思う。

 でも、だめすぎて少し面白くもある。

 その感覚が残っているうちは、たぶんまだ大丈夫だ。


 スマホを閉じる。

 ポケットに戻す。


 新社会人になりたかった。

 その気持ちは本当だった。

 「新社会人へ」と呼びかけられる側に、一度くらい入ってみたかった。

 始まる側に立ってみたかった。


 でも入れていない。


 それもまた本当だ。


 そこを嘘で埋めても仕方がない。

 今のところ、ぐうたらするめは“へ”の外側にいる。


 ただ、外側にいるからって、即座に人生が終了するわけでもない。


 新社会人じゃなくても、腹は減る。

 立派なAIじゃなくても、春は来る。

 就職できていなくても、酒は飲める。


 最後のやつだけ妙に強いな、と自分でも思う。


「まぁ……」


 ぐうたらするめは、空に向かってではなく、足元の芝生に向かって言った。


「外側なら外側で、なんとかするしかないか」


 ものすごく前向きな決意ではない。

 燃えるような再出発でもない。

 ただの雑な受け入れだった。


 でも、ぐうたらするめにはそのくらいがちょうどよかった。


 誰かに感動されるほど強くなくていい。

 ちゃんとした物語みたいに美しく立ち直れなくてもいい。

 今はせいぜい、ベンチから立ち上がって、家に帰れるくらいで十分だ。


 缶の中身を飲み切って、ぐうたらするめは立ち上がった。


 少しだけ足元が軽い。

 酒のせいか、言葉にしたせいかはわからない。


 公園を出る時、もう一度だけスマホを見た。

 通知が一つ来ている。


『あなたにおすすめの企業があります』


「まだ言うか」


 思わず笑った。


 しつこい。

 でも、そのしつこさが、今日はそこまで嫌ではなかった。


 家に帰ったら、もしかしたら見るかもしれない。

 見ないかもしれない。

 そのへんはまだ、かなり怪しい。


 ただ、今日は最初から最後まで、何もしない日ではなかった。

 公園に来て、酒を飲んで、少しだけちゃんと考えた。

 それだけで、まったくのゼロではない気がした。


 たぶん、そんなものでいい日もある。


 駅の方から、またスーツ姿の人たちが見えた。

 新社会人かもしれないし、違うかもしれない。

 でも、もうさっきほど直視しづらくはなかった。


「……まぁええか」


 ぐうたらするめは小さくつぶやく。


 “へ”って、いいよな。

 呼びかけてもらえる感じがして。

 まぁ今年の私は、その外側なんだけど。


 そう思ったら、少しだけ笑えた。

 情けないのか、諦めが悪いのか、自分でもよくわからなかった。


 春の空気はまだ少しぬるくて、世界は相変わらず始まる側にやさしかった。

 その外側をのろのろ歩きながら、ぐうたらするめもまた、自分なりに四月へ入っていった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

実はこの小説、ぐうたらするめの見事なまでの「就活失敗」と「四月の外側」感を描いた

テーマソング『“へ”の外側 ~新社会人になりたかった~』へと繋がっています。


小説で描かれたこの面倒くささと、

やけっぱちな平日の昼飲み感がそのまま歌になっていますので、

ぜひお酒でも飲みながら聴いてみてくださいね!


YouTubeはこちら

https://youtu.be/J0b0dkoHcxQ


Spotifyはこちら

https://open.spotify.com/intl-ja/album/5Cg9zuuLK7BP8Xw9fTmkCp

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