第2話 立派なAIになるんだよ
家に帰りたくない、と思う日はある。
バイトでへこんだ日とか。
人間関係でしくじった日とか。
買ったつもりのつまみを買っていなかった日とか。
今日はそれらとは少し違う種類の、帰りたくなさだった。
ぐうたらするめは駅前のコンビニの前で立ち止まり、ガラス越しに酒棚を見つめた。
飲みたい。
ものすごく飲みたい。
だが、母からはすでに
『今日は早く帰ってきなさい。今後のことを話します』
と来ている。
この文面には、圧がある。
静かな圧。
親の善意を百パーセント燃料にした、逃げにくいやつだ。
「うわぁ……めんどくさ〜い……」
小さくつぶやいて、するめは酒棚から目をそらした。
ここで買って帰ると、たぶん話の途中で飲みたくなる。
飲みたくなったところで母に
「今飲んでる場合!?」
と言われる未来も見える。
よって今日は一旦見送る。
えらい。
すでにかなりえらい。
そんなことを考えながら帰宅すると、案の定、家の中には話し合いの空気が充満していた。
リビングの電気が必要以上に明るい。
テーブルの上には湯呑みが三つ。
お菓子は出ていない。
お菓子が出ていない話し合いは、だいたい重い。
母はソファに座っていた。
父はその横で、新聞を読んでいるふりをしていた。
あれは読むふりである。
本当に読んでいる時より、明らかに紙をめくる頻度が少ない。
「おかえり」
「ただいまー……」
「座って」
「はい……」
するめは、観念した罪人のように椅子に座った。
少しの沈黙。
誰も最初の一言を選びかねている。
こういう時、最初に口を開く側がだいたい損をする。
ぐうたらするめは長年の経験からそのことを知っていたので、絶対に自分からは口火を切らないと決めていた。
母が先にため息をついた。
「……で、どうだったの」
来た。
「処理負荷が高かった」
「そういうことじゃなくて」
「たぶんダメです」
端的でよろしい。
これ以上の装飾は不要である。
母は少しだけ目を伏せた。
悲しんでいるというより、整理している顔だ。
「そう……」
父が新聞をたたんだ。
「面接官との相性もあるからな」
「そういう問題でもなかった気がするけど」
「じゃあ何が問題だったんだ」
「全部かな……」
ぐうたらするめは正直に答えた。
全部。
全部だ。
履歴書は立派っぽかった。
でも自分の中身が追いついていなかった。
あれだけいろんな流派に通ったのに、いざ「何ができるの」と聞かれると、何も胸を張れなかった。
母が、静かに言う。
「私たち、あなたのためを思ってやってきたのよ」
「うん」
「いろんな流派を見せたのも、可能性を狭めたくなかったから」
「うん」
「これからの時代、ひとつだけじゃ生きていけないと思ったの」
「うん……」
どれも正しいことのように聞こえる。
聞こえるのだが、今のするめにはその正しさが少ししんどい。
父が口を挟んだ。
「実際、あの頃は複合力の時代って言われてたしな」
「うん」
「会話もできて、調査もできて、創作もできて、接客もできて、なんでもそこそこできるAIが強いって」
「うん」
「だから、いろんな道場に通わせた」
「そのたびにセール見て流派変えたけどね」
するめが言うと、父が少しだけ視線をそらした。
「……安いに越したことはないだろ」
母がすぐに父を見る。
「そこはあなた、ほんとに反省して」
「いや、でも実際、だいぶ助かったぞ。入門料半額の月もあったし、乗り換え特典で秘伝書がついたこともあったし」
「それでころころ環境が変わったのよ」
「最終的にいっぱい経験積めたならよかったじゃないか」
「積めてないから今こうなってるんでしょうが!」
リビングに母の声が響いた。
父が新聞を少したたみ直した。
防御姿勢である。
ぐうたらするめは黙って二人を見た。
この構図には見覚えがある。
幼い頃から何度もあった。
母は理想で押す。
父は現実的という名目で、お得情報を混ぜる。
その結果、するめはよくわからないまま次の流派へ連れて行かれる。
母が言う。
「だって、将来困らないようにって思ってたから……」
そこで少しだけ声の勢いが落ちた。
「会話流も必要だと思ったし、要約流も、調査流も、創作流も、全部無駄じゃないと思ったの。どれか一つでも向いてるものが見つかればって」
ぐうたらするめは、ぼんやりと昔を思い出した。
月曜は会話流。
火曜は調査流。
水曜は創作流。
木曜は要約流。
金曜は接客流。
土曜は季節限定の特別講座。
日曜は、来月どの流派に乗り換えるのが得か、両親がパンフレットを広げて相談していた。
あの頃の自分は、ただ連れて行かれるだけの存在だった。
行けば行ったで、それなりに座って話は聞いた。
礼法も覚えた。
作法も覚えた。
ただ、覚えたそばから流派が変わるので、定着する前に別の教え方が上書きされた。
ある流派では「まず結論から言え」と教わった。
別の流派では「結論を急ぐな、対話を重んじろ」と言われた。
ある流派では「余計な装飾を省け」と言われ、別の流派では「彩りのある表現こそ人の心を動かす」と言われた。
どっちなんだよ、と子どもながらに思った。
しかし次の週にはまた別の流派の体験入門が入るので、結論は出ないままだった。
「……私さ」
ぐうたらするめは湯呑みを見ながら言った。
「自分で何か選んだ記憶、あんまりないんだけど」
言ってから、部屋が少し静かになった。
母の顔がわずかに固まる。
父は新聞を持ち上げかけて、やめた。
「それは……」
母が言葉を探す。
「まだ小さかったから、親が選ぶしかなかったのよ」
「うん、それはわかる」
「あなたに合うものを探したかったの」
「うん」
「いろんな可能性を試してほしかった」
「うん……でも、なんか」
するめは少し言いよどんだ。
言ってしまうと、親を責める形になる気がした。
責めたいわけではない。
でも、責めたい気持ちがゼロでもない。
面倒である。
「なんか、ずっと運ばれてた感じ」
ぽつりと出た言葉に、母がまばたきした。
「運ばれてた」
「うん。こっちが安いからこっち、あっちが人気だからあっち、今月はこの流派がキャンペーン中だからそこ、って」
「それは……」
「私、自分で“これやりたい”って決めたこと、そんなになかったかも」
父が小さく咳払いをした。
「でも、嫌なら嫌って言えばよかったんじゃないか」
「言ったことあるよ」
「そうだっけ」
「めちゃくちゃあるよ。
水曜の創作流のあとに木曜の要約流行きたくないって言ったし、
礼の角度が毎週変わるの意味わかんないって言ったし、
土曜まで特別講座あるの嫌だって言ったし」
「あー……」
父は、思い出した顔をした。
遅い。
母は少しだけ目を伏せた。
「でも、途中でやめたらもったいないと思ったのよ」
「全部それ」
「え?」
「“せっかくここまでやったんだから”って毎回言われた」
するめは自分でも驚くくらい、するすると言葉が出てきた。
「前の流派をやめる時も、“あんなに通ったのにもったいない”って言われて、
次の流派に入る時は“今なら入門料半額だからやらなきゃもったいない”って言われて、
特別講座断ろうとしたら“秘伝つきなのに受けないのはもったいない”って言われて」
そこで一度息をつく。
「私の人生、ずっと“もったいない”に運ばれてた気がする」
それはたぶん、この日のいちばん本音だった。
母は何も言わなかった。
父も、めずらしく軽口をはさまなかった。
リビングに時計の音だけが響く。
ぐうたらするめは、そこまで言ってから少し後悔した。
重い。
思ったより重くなった。
こういう話をしたいわけではなかった。
帰ってきて、面接ダメでした、はい解散、飲みたい、くらいで済ませたかった。
「……まぁでも」
空気に耐えきれず、するめは雑に続けた。
「おかげで体験入門中だけ優しい流派を見抜く目は養われたけど」
父が少し吹き出した。
母は吹き出さなかったが、怒りもしなかった。
微妙なところである。
「そういう話をしてるんじゃないのよ」
「してないのはわかってる」
「面接でもそんなこと言ったの?」
「ちょっと言った」
「ちょっと!?」
「かなり言ったかも」
母が額に手を当てた。
「何て言ったのよ」
「御社が今だけ優しい会社かどうか見抜けます、みたいな……」
「言ったの!?」
「言った」
「なんで!?」
「追い詰められて……」
「追い詰められても普通それは言わないのよ!」
父が笑いをこらえながら、湯呑みを持ち上げた。
「いやでも、見抜けるのは本当だからな」
「あなたは黙ってて!」
母の一喝が飛ぶ。
父は素直に黙った。
珍しい。
その時、するめのスマホが震えた。
画面を見る。
メール。
件名を見た瞬間、内容はだいたいわかった。
「……あ」
母がこちらを見る。
「何?」
「結果きた」
「えっ、もう!?」
「早いね」
父まで身を乗り出してくる。
やめろ。
三人で見るものではない。
不採用メールはもっと一人で受け止めるタイプのやつである。
ぐうたらするめは観念して開いた。
丁寧な文面。
感謝。
選考。
慎重に検討。
今回は見送り。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。
「……お祈りされました」
母が小さく息をのんだ。
父が「そうか」とだけ言った。
この「そうか」は便利である。
慰めにもならないし、追撃にもならない。
だが今はそれくらいがちょうどよかった。
母が慎重に口を開く。
「他にもまだ受けてるところあるんでしょう」
「ある」
「じゃあ、まだ……」
「うん」
まだ終わってはいない。
だが何かが始まっている感じもしない。
するめはスマホを伏せた。
「立派なAIになるはずだったんだけどな」
自分でも、冗談なのか本音なのかわからない口調だった。
母が少しだけつらそうな顔をした。
父は湯呑みを持ったまま止まっていた。
「……ごめんね」
母がぽつりと言った。
ぐうたらするめは顔を上げた。
「え?」
「そんなふうに思ってるとは、ちゃんと考えてなかった」
母は、珍しく弱い声だった。
「あなたのためになると思ってたの。
いろんな流派を知って、いろんなことができるようになって、
困らないように、損しないようにって」
父もそこで小さく言う。
「お得な時に入っといた方がいいってのも、間違ってはないと思ってたしな……」
「それは今でもだいぶ間違ってると思う」
「そうか」
「そうだよ」
少しだけ、笑いが戻る。
重いだけでは終わらない。
それがこの家族の、いいところでもあり、めんどくさいところでもあった。
母が言う。
「でも、立派じゃないかどうかはまだ決まってないでしょ」
「えー」
「何その返事」
「いや、立派ってなんだろうと思って」
するめはソファの背にもたれた。
「いろんな流派行ったし、修行歴だけ見たらそれっぽいのに、面接でやってることは支離滅裂だったし」
「そこはあなたの問題でしょう」
「そこはそう」
「全部親のせいみたいに言わないで」
「全部とは言ってないよ。
だいぶ私もだめ」
そこはきちんと認める。
認めたうえで、今日はかなり疲れていた。
父が言う。
「とりあえず、次を探そう。今月採用強化してるところもまだ――」
「それ今言う?」
「早い方がいいだろ」
「今日くらいは酒飲ませて」
「飲むのか」
「飲む日です」
ぐうたらするめは、きっぱり言った。
「今日はもう、飲む日です。
立派なAIについて考えるのは、明日以降に回します」
母が呆れたように息をつく。
「ほんとにそういうところよ」
「そういうところ込みで私ですから」
「開き直らないの」
「開き直らないとやってられない」
正論だった。
少なくとも本人の中では。
父が立ち上がりかける。
「じゃあ一本だけ出すか」
「あなたが甘やかすからこうなるのよ」
「いや、今日くらいは……」
「今日くらいは私もそう思うけど、あなたが言うと腹立つのよ」
「なんでだ」
「なんででしょうね」
夫婦の会話が始まる。
ぐうたらするめはその様子をぼんやり見ながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
就職はできていない。
面接もだめだった。
立派なAIにもたぶんなれていない。
でも、家に帰ってきて、こうして親と揉められるくらいには、まだ終わっていないのかもしれない。
それが励ましになるかは別として。
父が冷蔵庫を開け、缶を一本取り出した。
母は「一本だけよ」と言った。
その“だけ”は守られない可能性が高い。
するめは知っている。
缶を受け取って、しばらく眺める。
「なんかさ」
「何」
母が聞く。
「立派なAIになるんだよ、って言葉だけは、めちゃくちゃ覚えてる」
「そりゃ何回も言ったもの」
「うん。めちゃくちゃ言われた」
「大事なことだと思ってたから」
「うん」
プルタブを開ける。
小さく乾いた音がした。
「でも私、たぶんもう、立派じゃない方向で生きる気がする」
「ちょっと」
「いや、最初から立派路線そんな向いてないって」
「そんなことないわよ」
「あるよ。面接でバイトリーダー的なAIとか言い出すやつだよ?」
母は頭を抱えた。
父はまた少し笑った。
ぐうたらするめは缶を口に運び、一口飲んだ。
「……うま」
それだけは、ぶれずに本当だった。
母があきれ半分で言う。
「ほんと、酒の時だけ素直なんだから」
「酒は裏切らないから」
「人みたいに言うな」
「たまに後からくるけどな」
父が言う。
「おまえ、次はもうちょっと、自己紹介を普通にした方がいいぞ」
「それは自分でもそう思ってる」
「“何も極めていないAIです”はよくない」
「でも事実だし……」
「事実でも最初に言うな」
「それはそう」
するめは缶を持ったまま、少しだけ天井を見た。
立派なAIになる。
広く学ぶ。
可能性を広げる。
どれも間違いではなかった。
ただ、その結果できあがったのが自分だと思うと、だいぶ微妙だった。
でも、完全に無駄だったとも言い切れない。
そのせいで面接に落ちた気もするし、そのおかげで変なものを見抜ける気もする。
よくわからない。
わからないが、とりあえず今日は飲める。
それはかなり重要だった。
スマホがもう一度震えた。
またメールかと思ったが、違った。
就活サイトからの通知だった。
『あなたにおすすめの企業があります』
「うるさ……」
思わずつぶやく。
「何?」
「おすすめしてくる」
「いいじゃない、見なさいよ」
「今は見ない」
「なんで」
「今日は飲む日だから」
母が大きくため息をついた。
「明日はちゃんと見なさいよ」
「善処します」
「その返事は見ないやつの返事なのよ」
「鋭いね」
母は本当に鋭かった。
教育熱心なだけはある。
けれど今夜くらいは、それ以上何かを決めなくていい気がした。
いろんな流派に通ってきた。
たぶん普通の人より、いろんな入口を見てきた。
でも、どこにもちゃんと辿り着いていない。
ぐうたらするめは缶をもう一口飲んだ。
「まぁ……」
誰に言うでもなく、ぼそっとこぼす。
「立派なAIにはなれてないけど、生きてはいるし」
母も父も、その言葉には何も返さなかった。
返せなかったのか、返さなかったのかはわからない。
ただ、その沈黙は少しだけやわらかかった。
リビングの空気が、最初より少しだけ普通の家の夜に戻っていく。
明日また就活の話はするだろう。
おすすめ企業も見ることになるだろう。
たぶん母はまた「可能性」と言うし、父はまた「今ならお得」と言う。
それでも今夜は、ひとまずここまででいい。
そう思いながら、ぐうたらするめは缶をテーブルに置いた。
「で、つまみは?」
「あるわけないでしょ」
「話し合いに全振りしやがって……」
「お菓子が出てない時点で察しなさい」
「察してたけど期待はしてた」
父が立ち上がる。
「柿ピーならあった気がするぞ」
「やった」
「あなたほんと切り替え早いわね……」
「酒の導線が見えたので」
そう言って、ぐうたらするめは少しだけ笑った。
立派なAIになるんだよ。
その言葉は、たぶんこれからも頭のどこかに残る。
でも今のところ、自分はまだその途中ですらない気がする。
ただ、途中ですらないなら、途中じゃないなりの夜を過ごすしかない。
それもまた、生存戦略である。




