第一章 踊る活字
小章① 世紀の大発明
十一月、冷たい雨が降る火曜日の夜。 東京・大手町。日本経済の中心地にある『帝都経済新聞社』の編集局は、締め切り前の殺気立った熱気に包まれていた。 電話のベル、キーボードを叩く音、怒号。それらが混じり合い、独特のノイズとなってフロアを満たしている。
企業報道部のデスク、貴島 壮一郎は、最終版のゲラ(校正刷り)を前に、赤いボールペンを走らせていた。 四十八歳。入社二十五年のベテラン記者。白髪混じりの髪をかき上げ、くたびれたジャケットの袖から覗く腕には、古びたロレックスが光っている。かつては数々の特ダネ(スクープ)をものにし、「帝経の剃刀」と呼ばれた男だが、今は現場の指揮を執る立場だ。
「貴島さん、一面トップ、差し替えです!」
若手記者が駆け寄ってきた。
「なんだ、またか。今度はどこの決算だ?」
「違います! ニブス・エナジーです! 広報からリリースが出ました。ついに『夢の電池』が完成したと!」
貴島の手が止まった。 『ニブス・エナジー』。新興のエネルギーベンチャーだ。以前から、リチウムイオン電池を遥かに凌駕する「全固体量子電池」の開発を謳っていたが、実用化は十年先と言われていたはずだ。
「……裏は取れているのか?」
「編集局長からのトップダウンです! 『独占インタビューが取れた。他紙に抜かれる前に出せ』と!」
その時、編集局長の黒川が、フロアの奥から大股で歩いてきた。 五十代半ば。仕立ての良いスーツに身を包み、常に権力者のような振る舞いをする男だ。
「貴島! 何をしている。一面の大見出しだ。『ニブス、世界を変える』。これでいけ」
「局長、しかし……技術的な裏付けが不十分です。専門家のコメントもまだ取れていません」
貴島が反論すると、黒川は鼻で笑った。
「裏付け? 社長の東堂が会見で現物を見せると言っているんだ。それが最大の証拠だろう。……これは国策に関わる大発明だぞ。帝経が書かなくてどうする」
黒川は、貴島のデスクに一枚のメモを置いた。 そこには、東堂社長の独占インタビューの要旨と、驚くべきスペック数値が記されていた。 『充電時間10分、航続距離500キロ。コストは従来の十分の一』。 あまりにも出来すぎた数字だ。
「……飛ばし(未確認情報)になりませんか」
「飛ばしではない。スクープだ。……貴島、お前も焼きが回ったな。昔の鋭さはどこへ行った」
黒田は冷ややかな目で貴島を見下ろし、去っていった。 貴島は唇を噛んだ。 サラリーマン記者としての悲哀。上司の命令は絶対だ。 彼はため息をつき、赤ペンを握り直した。
「……分かった。原稿を直す」
小章② 狂乱の株価
翌朝。 『ニブス・エナジー、夢の電池を開発。EV市場の覇権を握るか』 帝都経済新聞の一面を飾った大見出しは、株式市場に爆弾を投下した。 東証開始の鐘とともに、ニブス・エナジーの株価は垂直に跳ね上がった。 買い気配のみで値がつかない「ストップ高」。 その熱狂は関連銘柄にも波及し、日経平均株価をも押し上げた。
昼のニュースでは、東堂社長が得意げに「黒い箱」――試作品の電池――を掲げる映像が繰り返し流された。 「これは日本の技術力の勝利です!」 東堂の自信に満ちた笑顔。端正な顔立ちと、スティーブ・ジョブズ気取りのプレゼンテーションは、大衆を熱狂させるのに十分だった。
貴島は、社内のテレビでその様子を眺めていた。 周囲の記者たちは「やったな」「大スクープだ」と沸き立っている。 だが、貴島の胸のざわめきは消えなかった。 長年の記者生活で培った「臭覚」が、腐った匂いを嗅ぎ取っていた。
あの「黒い箱」。 本当に動くのか? 映像ではLEDライトを点灯させていただけだ。中身が乾電池でも同じことができる。
「……調べ直すか」
貴島はジャケットを掴み、編集局を出た。 自分の書いた記事(署名記事ではないが、デスクとして責任がある)が、もし虚構だったとしたら。 それは記者としての死を意味する。




