『深淵を抱いて』 〜風の日の記憶〜
十一月一日 曇りのち風
朝、窓を開けると、風が枝を撫でていた。
その音を聞いているうちに、ふと、昔の夢に手を伸ばしていたことを思い出す。
届かぬと知りながらも、掌には、触れそこねた時間の名残が残っていた。
確かにあったはずのもの──それは今では輪郭を失い、言葉の奥に沈んでいる。
けれど、その沈みは終わりではない。
それは、音のない対話の始まりだったのかもしれない。
昼過ぎ、散歩の途中で、ふと立ち止まった。
深淵のような静けさのなかに立っていた。
ようやく、自分の影と向き合うことができた。
それは、私が期待していた私ではなく、
私自身がずっと恐れていた輪郭だった。
踏み出せずにいた沈黙のなかに、
それでも在るという声が、確かに潜んでいた。
その声に耳を澄ませると、
水面に映る顔が、傷ついたままであることに気づく。
けれど、その瞳だけは、初めて私自身を見つめ返していた。
芽吹きとは、新たな力を得ることではなく、
沈黙の奥に潜む微かな光に気づくこと──
そう思えるようになった。
夕方、部屋に戻ってから、静かに机に向かった。
喪失の余白には、まだ名づけられていないものが、
静かに、けれど確かに息づいている。
私はそれを抱いて、歩き出す。
輪郭のない風のなかを、
誰にも知られず、
それでも確かに、
歩みが残る場所へと。
夜、風がまた窓辺を撫でている。
その音を聞きながら、今日という一日が、
少しだけ、私を変えてくれたような気がする。
──この風の音が、あなたにも届く日が……きっと。




