De Officiis「義務について」
「改革」とは、2つ種類がある。
改革の本質が前提となる事柄や基礎の変更にあるのであれば、それが「個人」であっても「集合体」であっても改革は起こりうる。
一つは外圧からの「改革」。
これは戦争に負けた、独立した、など「環境」そのものが変化せざるを得ない場合。
わかりやすい例えならば、戦後の日本だろう。
実際にアメリカは「年次改革要望書」として日本に「外圧」送付してきていた。
変われ、と
まあ、日本は要望に則して変えているがアメリカは一切無視している。
「敗戦国」なんてのは、そんなもんだ。
もう一つは、内部からの「改革」。
「脱皮」というのか「破れた袋を捨てる」というのか。
そもそも体制側にいた「人物」が、体制を打ち壊し、新たな体制を作り上げる。
これは「ヨーロッパ」の概念を作り出した「ガイウス・ユリウス・カエサル」
Iulius Caesarに他ならない。
では「内部」からの「改革」をなされた側、残された側はどうするのか。
答えは単純に「批判」である。
取り残された「考えることを辞めた人達」は、結局のところ戻ることもそのプライドから進むことも出来ず、ただ「批判」する。
特に自身が「貴種」ではなく「普通」であり、現在までの社会システムで生かされているなら、なおさら。
「常識」という錦の御旗を振り翳し「考えることを放棄する」。そして「批判」を繰り返す。
過去を振り返り、懐かしんだところで「現実」は変わらないのに。
しかして、繰り返される歴史を見れば「残された」側であった「手紙魔」が残した膨大な「嘆き」と「批判」。
この「泣き虫」な「政治家」はそれでもいう。
「義務とは、人間として、また市民としての道徳的任務の完遂を意味する」と。
「切り抜かれた」情報を、ただ「喰らい」「批判」する。
「何が真実なのか」
真実すら、他面的な一面に過ぎないとするなら「受け取り手」が「どのように消化」するのか。
敗者であった「旧体制側」で「名を上げた政治家」は、「精神的に泣き虫」だった。
それでも、その名を残し、弁護士の基礎となった。
その「哲学者」からみれば「考えること」をやめ「批判」を繰り返す「現代社会」は、あまりに醜く滑稽だろう。
「節制」を忘れ「選択する」ことを忘れているのだから。
己の心に問いかけてみないか?
「自ら選んだつもりになっている」「誰かに選ばされた選択肢」を「選択」していないのか?
それを「思考の放棄」とはいわないのか?
「走る、曲がる、止まる」。
これができないクルマはクルマ足り得ない。
人間の「本質」が「考える葦」であるならば、なおのこと。
「考える」ことを放棄して「本質」を見失う。
キケロは、プラトンを引用していう。
「永久に動いているものは永久の存在である。しかし、ほかのものを動かしたりほかのものに動かされたりしているものは、その動きをやめるときに、必然的に生きることをやめる。ただ自分自身を動かしているものだけは、決して動くことをやめない。自分が自分自身によって見捨てられることはないからである」。
どうか我が同胞たる「コメント」民達よ。
「切り抜かれた瞬間」のみに着目せず、きちんと考えてほしい。
反射的な反応速度を競うのは「運動」である。
その上で、共に「声」を上げよう。
我らが小さな声、例え「風景」だとしても、集まれば「民意」なのだから。