第0話:襲来、身元簒奪者 (Invasion of the Identity Snatchers)
この世には自分の手に負える事と、そうでもない事がある。大抵の場合はしんどいと思いながらも、こればかりは無理だと思いながらも、無意識的に一歩ずつ解決に向かって進んでいく。為せば成るという事だ。当然だ。降りかかる火の粉を払うように出来ているのが人間なのだ。不運という名の押し寄せてくる理不尽を嬉しく思うの者などいない。だからこそ、事態が深刻であれば深刻であるほど、重い尻を上げて、対策を立てるため奔走するようになる。
これが、今まで私が属していた世界の仕組みだった。それは暗黙的に『常識』と名付けられ、みんな従っていた。もはや、この世の真理でもあるのだと、そう思っていた。少なくとも私はそうだった。だが、今この瞬間、その『常識』とやらはガタガタと音を立てて崩壊し始めている。絶賛、現在進行形で。誰の手にも負えない事になりつつある。いや、実は認めたくないだけで、とっくにその時点を遥かに超えている気がする。常人ならまず関わったりしない事態だ。
「もう一度言いましょう。正式事件名『人間の削除及びその場を利用するなりすまし達に関する件』改め、俗称『シルバーミラー事件』の被害者リストは今皆さんに手渡した資料の通りです。一人残らず、なりすましであり……本来その人物に当たる人間は既に削除されています。そうとしか、言いようがない」
「削除……?理解できん!!ヒューゼス卿、これは一体どういう事か!?」
長ったらしい正式事件名のせいで余計話がややこしいが、肝心なとこはなんとなく理解出来た。ヒューゼス卿に向かって怒鳴り散らしている本部行政官は、そうでもないらしいけど。
「その反応も承知の上です……何度でも言いましょう。他に言いようがないのです。理解しろとは言いませんが、納得してもらいます!!削除は削除!!」
「は、はあ?」
理解できないものに詳しい説明を求めたつもりの本部行政官は、いきなり暴論で押し切られてしまったために声も出ないようだ。面食らっている本部行政官に少しだけ同情してしまう。
しかし、こんな切羽詰まったヒューゼス卿は見たことがない。一体、『人間が削除された』とは何だ?本来の人間に代わって他の誰かがなりすましを働いている……という所までは直観的にそのまま理解出来る。実にシンプルな内容ではないか。
その人物が犯罪か何かに加担しているのか、それともまんまと巻き込まれてしまったのか、とにかく本来の人間の立場を利用し、ニセモノが都合よく活動しているということなのだ。だが、その次がどうしてもわからない。脳みそが聞いた言葉を処理しようとしてくれないのだ。正確にはその概念が私の中に無いというべきかも知れない……。
結局、私は腕を組んで唸るしかやることが無くなったわけだが、どうやらそれは私だけじゃないようだ。
「他の皆さんも『シルバーミラー事件』の理解にはだいぶ苦しんでおられるご様子ですね。元老院の方々はどうです?」
「……むしろ、ヒューゼス卿はしっかり理解出来ておるのかね?」
「おそらくは。『削除』がどういった状態なのか……、概念的には理解出来ているつもりです。少々冒涜的な言い方になるかも知れませんが……例えば、神の加護を失った生命体はどうなると思いますか?」
「生命体が生命体たりえるよう支えている構成因子こそが、万物の摂理たる神の加護なのじゃ。……常人ならおぞましくて口にするのも不敬であると騒ぐじゃろう。経典に書いてある通りなら、神の加護というタガが一旦外れれば、体がバラバラになるか、存在そのものが霧散するのう。それが元老院含め学会の教理解釈じゃ」
「ええ。生命体が加護を喪失するということは……それすなわち、『生命体ではなくなる』ということです。後は、もう、おわかりになられたかと。みなまでは言わないで置きましょう」
ヒューゼス卿の解説を最後に重い沈黙が訪れた。そうか、みんな『人間が削除された』とはどのような事象なのか薄々理解出来たということか。いまや誰も口を開けようとはしない。
静かなはずなのに、みんな心象だけが忙しい。もはやテーブルに突っ伏して唸る者がいれば、何かを発言しかけては落胆しながらやめる者もいる。固まってしまいただただヒューゼス卿のことを見続ける者もいた。いや、正確にはその虚しい眼差しの向け先にヒューゼス卿がいただけで、彼は決してヒューゼス卿のことを見ているわけではなかった。どうやら、治安長官の立場にある彼は責任を問われる役としてこれから始まる闇の時代と先んじて対峙しているのだろう。
この先、彼に降りかかるはずの様々な誹謗中傷、陰謀論、政争、暗闘……どれも計り知れない程の化け物であり、途方もない戦いが彼の目には既に映っているのだろう。思慮深いヒューゼス卿も察しがついているのか、治安長官に気づいた素振りは見せない。彼女もただただ自分に出されている紅茶を見つめているだけだった。その趣のあるティーカップには似合うはずもない『迷える猟犬』というロゴが刻まれているのはちょっと印象的かな。
やはり、みんな怖いんだな。もし、自分のせいでこの静寂が破られようなら、ヒューゼス卿から聞かされた恐ろしい事実がまるでそれきっかけで真実として確定してしまいそうな気がしてならないんだな。
だから、誰も口を開けようとはしない。私がその役を買って出てもいいが……悲しいかな、私は発言権を許されるまでは呼吸音すら大きくしてはならない立場にあるのだ。無為に時間だけが過ぎていく。後日聞かされたが、この頃には私はもう舟を漕いでいたらしい。
「そういえば、ラナ・マーヴェラス殿からの見解はありませんか?何も、元老院の方々の護衛に快く同行されたとか。そんな忠誠心のあるラナ殿ならば、今の状況を踏まえた上で、斬新な意見が聞けるかも知れませんね。『シルバーミラー事件』に対するラナ殿の鋭いご意見、是非、このヒューゼスめからお願い申し上げます」
忠誠心と斬新なご意見にどんな関係があるのかはさておき……これからの時代を決めかねないこの第73回首脳会議が破綻してしまうのは望ましくなかったのだろう。ヒューゼス卿は私のことを生贄に出すことで半ば強引に会議を進行させる荒業を披露してきた。
噂の鬼神官ヒューゼス卿とは本当だったようだ。恐れ入ったな。しかし、負けてなるものか……斬新な意見どころか、今までの内容をまとめることで首脳会議を終わらせよう。それが、この場においての私の使命に違いない。
「僭越ながら修交名で名乗ることを先に深くお詫び致します。私、ラナ・マーヴェラスはこの偉大なる首脳会議にて発言を許されたことに対し嬉しく思います。『シルバーミラー事件』について私からの見解を述べるにあたって、先に一つだけ、発表しなくてはならないことがあります。『黒祭殿書』を知っていますか。発見されて1000年経つ呪物です。私はその解読に携わっており、1ヶ月前、ようやく解読が終わりました」
「うむ……それは讃えられるべき偉業じゃが、マーヴェラスよ、それがこの首脳会議とはどういった関係があるのかね?」
「実は解読が終わって12時間後、黒祭殿書は盗難に遭いました。これは特級機密指定0号事件であり、この場での発言が初の公開となります」
「な、なんと……」
そこまで言って周りを見渡すと、元老院の方々は言葉を失って仰天している上に、ヒューゼス卿にいたっては耳を塞いで目をもギュッと閉じてしまっている。自分の立場では聞いてはならない情報だと悟ったのだろう。なんて律儀な人なんだ。無理もない。内容が内容だ。あまりにも不穏すぎる。
しかも、特級機密指定とは知ったところでリスクしか生じない煙たがれがちの情報なのだ。端から見れば、特級やら機密やらで聞こえはいい。とても秘密めいた感じで、それはそれは陰謀論者達の格好の餌食なわけだが……実際には『情報社会のふん便』でしかない。それが現場での特級機密指定の扱いだ。
だから、聞いてもらう。怖がらなくてもいい。
「目を開けて。耳をすませて。私に集中してください。これはとても重要なことです。黒祭殿書は比喩、隠喩、暗喩に満ちていますので、この『シルバーミラー事件』とはよく結びつかなかったのです。しかし、今しがた気がつきました。先程、元老院の方々とヒューゼス卿はこう言いました。『タガが外れれば体がバラバラになる、存在が霧散する、生命体が生命体ではなくなる』と。これは黒祭殿書の内容と酷似しています。その内容を簡単に説明しますと……」
「や、やめてくれたまえ!!これ以上特級機密指定に関わると、わしの命に危険が迫るではないか……いや、それよりも、わしはマーヴェラス、お前そのものの狂気に畏怖を覚えるのじゃ!!」
「やめません。私のことはいくら貶してくださって結構ですので、最後までご静聴願います。我らの故郷デウス;エデンとその民は神の加護によって『生まれながらの永続』を約束されました。それは言うなれば……」
「うるさい!そこは知っておる!奇跡を現実に具現化する『オール・シングス』から、我々はその力を受信している状態にある。じゃから、我々に老いはあれど、永遠に生きられるのじゃろ!それが黒祭殿書と何の関係があるというのじゃ!!」
ヒューゼス卿を除く他の皆さんは薄々としか理解出来てなかったため、少々荒療治な感じで話を進めてしまったが、ようやくここまで漕ぎ着けることが出来た。いずれはデウス;エデンに大っぴらに宣告する日は来るのだろうけど、ここにいる皆さんには今すぐ『シルバーミラー事件』の全貌をはっきりと認識してもらう必要があるのだ。
「もちろん、関係ありです。『シルバーミラー事件』とは……永遠を生きるこのデウス;エデンにて、黒祭殿書を利用し、有史以来初めて、人間を死なせるという、今までに類を見ない新種のテロなのです」
時刻:|聖エデン世紀《Saint Eden Century》1149年5月8日23時01分
場所:秘匿要塞国デリリアム
行事:第73回首脳会議
発言:ラナ・マーヴェラス
……偉大なる時代『感覚世界』――その予兆が胎動した日であった。
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