暗闇の中で
夜が世界を包む。
ミミ太郎はネコのおかげで夜目が効くのだが、中身は人間である。闇の中を歩いて回ることは、恐怖で頭を抱えるには十分だった。
(いや、普通に怖いなあ……灯りのない世界。こういう時だけは人間の暮らしに戻りたいなあ。ネットもあるし)
気づけば、気温すらもこの体で感じていることに驚愕したミミ太郎は、夜の温度の変化を憂いていた。
(毛皮が結構あったかいから今のところはなんとかなるけど……家の中がいかに快適か思い知らされるな)
カメラのナイトモードのような視界の中、ミミ太郎は半ば手探りで落ち着ける場所を探す。
理由は自分の死がどう処理されるのか不安だからだ。何も襲ってこない場所で、ゆっくり寛ぎたいのだ。
ミミ太郎は推測する。この世界での死は、おそらく八割方何も起こらない。
あなたは倒されましたというメッセージだけログに残されて、他は何も起きない、はず。なぜならカラスを倒した時、バグによって違う画面へ進めなかったからだ。ならば、自分が倒されても同じことである可能性が高いのではないか。
だが、もし動けなくなったら? ボスを倒しても変化はないが、プレイヤーの死はまた処理が違うかもしれない。仮にずっと操作不能になったりなんかしたら、絶対に発狂するだろうとミミ太郎は確信する。
そしてミミ太郎にとって不審な要素はまだある。リアリティが限りなく高くなった異様な風景。現実そのもののような世界。
万が一、倒された時に本当の意味で死んでしまうとしたら……とそこまで考えて、ミミ太郎は自分の思考に馬鹿馬鹿しくなる。
そういえば現実の時間では今は何時なのだろうと、急激に重たくなってきた瞼をその肉球でこすりながら、ミミ太郎はぼんやり思う。
この眠気は、この世界から出れなくなるなんていう重大な事件が起こったことによる疲れからなのか、本来の自分の体が寝る時間に差し迫ったからなのか。今の状況では確認のしようがないが、その両方のような気がしていた。
幸いなことに遺跡の中であるため、部屋のような場所は見つけやすい。ミミ太郎は、暗闇の中での捜索ながらも落ち葉などが溜まった四角い間取りの吹き溜まりの一角を見つけ、寝床にすることにした。
(ちょうど落ち葉がいい感じにベッドの役割を果たしてくれてるし、天井は吹き抜けだけど、それ以外は他の動物からは見つかり辛い良い場所だ)
落ち葉をならすようにぐるぐるとその場を回りながら、ミミ太郎は猫のようにくるまって寝る準備を整えたが、一度安心すると、ミミ太郎は驚くほどすぐに意識を落とす。
ワイルドライフの中で寝るのも、ミミ太郎にとっては初めてのことだった。
ハウジングをする人たちの中ではこのためにこのゲームをやっているというくらい、割とゲーム内睡眠はメジャーなことなのだが、こんなにも心地よいものなのかとミミ太郎は感じていた。
落ち葉の感触が実際にあり、それが硬い地面から体を守ってくれる。さらに驚くほど暖かい。中に埋れれば自分の姿も隠しやすいし、掛け布団に潜ったような気分なのだ。この場所の全てが、自分に優しくしてくれている気がする。
しかし、そんな一時の幸福も長くは続かない。
ーーカツ、カツ。
遠くから足音が聞こえるのだ。確かな体重を感じる足取り。ミミ太郎は自身よりその体は大きいと、直感する。
ここまで来るのかは不明だが、この部屋の入り口は隠されているわけではない。入ろうと思えば入れてしまう。
足音は止まらず、さらに近づいて来る。まるで、この場所を知っているかのように。ゆっくりと。
ミミ太郎は不思議に感じる。なぜ、こんなにも的確にこの場所を目指して来るのか。やはり動物特有の嗅覚でわかってしまうものなのだろうか。そんなシステムはないはずだが、今の状況では有り得る話だ。落ち葉の中にいるだけでは、ネコの匂いはかき消せないのだろうか。
ミミ太郎は心の中で冷や汗を流す。
精神も疲弊した中で、謎の存在に気を張らなければいけないせいで、極限状態に陥っていた。
ーー万が一、本当に死ぬとしたら?
心臓の鼓動が早まる。
その音で気付かれてしまうかもしれないほどに。
足音はさらに明確に聞こえて来るようになり、やがてーー消えた。
(……行ったのか? それとも、隠れて様子を伺っているのか?)
しばらく辺りの気配を探るが、ネコの聴力を持ってしても、周囲に先ほどの生物の気配はない。
聞こえるのは虫たちの奏でる音色と、わずかな風を受ける草葉の揺れだけだ。
ミミ太郎は安堵のため息をつく。
ここまであの正体不明の生き物が近づいてきていたのは、ただの偶然だったのだろうか。もしかしたら、すぐ近くに巣があって、帰ってきただけなのかもしれない。それはそれで少し心配が残るが、よく考えればあの足音は他の動物を襲うための響きではなかった。
だとすれば自身と同じように、巣に戻って寝ようとしていただけだったのではないだろうかと、ミミ太郎は勝手に納得する。
そう、自分に都合のいいように。自分勝手に解釈して、安心した直後だった。
ミミ太郎は自身に残る少しの心配の正体を掴んだ。
夜行性。
ミミ太郎の中身は人間だ。朝に起きて夜に眠る。しかし他の動物はどうだろうか。
普通、巣に戻って寝るならば、日の出ている時間の方が妥当ではないのか。こんな暗闇では、むしろ活動的なのではないのか。
つまり、さっき聞いたあの足音は帰る音ではない。
(い、いる……!)
張り詰めた空気の中、ミミ太郎は背後に突然何かを感じる。
自分以外の息遣い。熱。大きな気配が、知らぬ間に隣に佇んでいた。
勢いよく振り返ると、そこにはミミ太郎よりもはるかに大きな哺乳類が落ち葉の中を覗いている。
その黒い体と煌めく瞳は全てを掌握したように見下ろしていた。
ミミ太郎の全身の毛が逆立ち、思わず臨戦態勢をとる。体を少しでも大きく見せる、猫の威嚇である。
しかしそんな状態であるミミ太郎の体よりも5倍ほど、相手の頭は上にある。
生物にとって指標となる強さの一つに、頭の高さがある。
人が野生の動物に襲われにくいのは、二足歩行に進化したからだという一説が存在し、実際、四つ足で生活するよりも体が大きく見える。そして頭の位置が高い。ということは、野生の世界において攻撃を上からできることを意味する。それだけ有利になりやすいのだ。
野生の動物たちはそれを論理的に理解しているかはわからないが、少なくとも本能的にそれを感じ取っているのだろう。ミミ太郎の身にも、それを目の前にすると、いかに強力な武器であるかが伝わる。
見た目でわかるほどの、明らかな体力の差。いつ仕掛けてくるかわからない上段からの攻撃。おまけに、慣れていない暗闇での戦闘。様々な不利がミミ太郎の心を押しつぶしてくる。
ミミ太郎は必死に策を練る。落ち葉を撒き散らせて驚かせた隙に逃げるべきか。しかし、少しでも動いた瞬間に仕留められそうだ。動かずにできることは、視線を特定の方向へ移動させてインベントリを開くことくらいである。
そしてそのままミミ太郎は一つだけできることがあったと思い出し、先ほど手に入れた剣を口に装備する。攻撃力が上がったりすることはないので、ほとんど意味はない。苦し紛れの策だ。しかし他に何もやれることがなかったのだ。
その瞬間、目の前の黒い哺乳類は、その四つ足を踊るように不規則に動かす。戦う前の準備運動のようにミミ太郎の目には映った。やはり、余計な行動はしない方がよかったか。となれば、取れる行動は一つだ。
ミミ太郎は、その奇妙なステップを最後まで見届ける前に、全速力で逃げ出した。
(はぁっ、はぁっ。なんだったんだあれは)
気づけば、ミミ太郎は遺跡を外れた草原にいた。
思い返せば、馬のようなシルエットに思えたが、草食動物ならばこちらを襲ってくる理由がわからない。夜行性なのかどうかも、ミミ太郎の知識には存在しない。
そもそも、あの謎の動きは一体なんなのか?馬であるならばあんなことはしないはずだ。あと1秒でも遅れていたら、轢かれるか喰われるかの二択を迫られたに違いない。ゴリラが胸を叩くのと同じように、威嚇をしてきた、ということなのだろうか。
そして暗闇の中で、あんなにも動物の目が光るものだとミミ太郎は知らなかった。そのイメージが強く頭の中に恐怖心として残っている。仮にもネコとなっている体に、全く気づかれることなく懐に忍び寄れるほどの隠密力に、実際ミミ太郎はかなり驚かされた。
だが、それに関してもよくよく考えると不審な点がいくつか残る。
なぜ、一度足音を聞かせたのか。獲物を仕留めたいのなら、初めから音を出さない方がいいはずだ。
そして忍び寄った最後に威嚇をするという、隠れた意味をなくすような行動。これではせっかくの不意打ちのチャンスをなくして、自分の存在を知らしめるだけだ。
ミミ太郎は一つ思いつく。まさかそれ自体が目的だとでもいうのだろうか? 自分の方が強い存在だ、と。自分と相手には圧倒的な差があると言わんばかりに、自慢するかのように力を見せびらかしているのだとしたら……。
(そんな動物いるのか? いや、モンスターだったとしたら、あり得るのかなぁ)
モンスターは普通の動物とは違い、人間並みの知能を持つ、という設定の種族も存在する。
もっとも、この世界では二足歩行の人型は出てこないので、ゴブリンやオークといった類は出てこない。
アップデートで猿たちが新たに登場した時ですら、そこそこ箱板が荒れたものだ。そんなユーザーの反応を見て、ワイルドライフの運営会社は類人猿キャラの待機モーションや移動モーションをより動物らしく改変し、極力人型の動物やモンスターにスポットを当てることはなくなった。
そんなゲームだからこそ、知恵の回るモンスターといっても、その姿は小動物を切り裂く鎌を持つカマキリの姿だったり、牛より大きな腹のクモの姿だったりする。
(ただ、モンスターにしては動物らしい普通の見た目だったんだよなぁ。暗くてちゃんとは見えなかったけど)
大抵、モンスターにはその外見的な特徴を持っていることが多いのだが、あの生き物にはそれらしいものがなかった。
とにかく、ミミ太郎にとってはまだ色々と情報が足りない。
(って、あれ? 俺の剣どこにやったっけ?)
口に咥えていたはずの剣がなくなっていた。
(まいったな。必死で逃げてきたから、さっきの場所に落としてきたのかも。まあ別に使わないからいいけどさ……)
朝になってから例の場所を探すという案もあるのだが、ミミ太郎はあまり気乗りがしない。まださっきの生物が居残っている可能性も少なくないからだ。使い道のないレアアイテムのために危険を冒すのは得策ではない。
とりあえず、周囲に邪魔者がいないのを確認してから、ミミ太郎はネコお得意の木登りで眠れそうな場所を探す。
このゲームの基本は自分の位置と相手の位置を意識することだ。高所にいればいるほど有利といっていい。つまり、寝る場所も地面より高い方がより安全というわけだ。
眠気が既に限界を超えていたミミ太郎は、寝れるだけの幅広い枝木を見つけ、そのまま朝まで目を覚まさなかった。
初めて外で1日を過ごしたミミ太郎は、朝の日差しの眩しさに驚かされ、意識を取り戻した。
家の中での朝とは違う、ギラギラとした光がミミ太郎の視界を覆う。
(こんなに太陽を近く感じるのも初めてだな……)
ミミ太郎は自分が木の上にいたことを忘れて、思わず落ちそうになる。バランス感覚はネコのパラメータらしく優れているのだが、中身のビビリな性格が下を見る度に恐怖心でいっぱいになってしまう。
(これだからあまり高い場所には行きたくないんだよなぁ。まあ、カラスの時は戦うのが前提だったから仕方なかったけどさ)
ミミ太郎は意を決して木から飛び降りる。ネコにとってはなんのダメージも負わない高さだったが、ミミ太郎にとっては精神ダメージをゴリゴリ削られたような気がする。VR特有の現象だ。
その際に、ミミ太郎は遠くで気になるものを見つけた。遺跡の一部だろうか、白い石を集めてできたようなそれは小さな祠のようにも見える。
近くに寄って様子を見ると、その入り口は扉のようなもので閉ざされていた。そしてその手前には台座があり、細い何かを刺せるような窪みがある。ミミ太郎はこのオブジェクトを知っていた。
(そういえば、考察好きなユーザーたちがよくこれについて議論してたなー。いかにも剣を刺してくださいって感じなんだけど、実際にやってみても何も起きないんだっけ)
ミミ太郎はあまりゲームの世界観設定に興味がない方だったため、あまりこのようなオブジェクトを見かけても気にしていなかったのだが、今のこの世界なら何か変わっているかもしれない。
その祠に何があるのか、インターネットの中の皆が知らないものなのだ。今のミミ太郎になら、もしかしたらそれを暴ける、可能性がゼロではない。ネームドアイテムといわれる、まだユーザーが見つけきれていない、一つのセーブデータに一つしかない隠されたアイテムの存在もある。
誰も知らない神秘の扉の先。その魅力は、ミミ太郎にとっても例外ではなかった。
(試しに取り返しに行ってみるかなあ。剣。もうもぬけの殻になってるかもしれないし、いたらいたで引き返せばいいか)
よく見ると自身の足跡がところどころ地面に残っているので、ミミ太郎は逃げてきた道を戻るには苦労しなかった。
ゲームにおける足跡システムだ。知らない道を歩くと自然環境がほとんどのこのゲームでは、すぐに道に迷ってしまう。そのため、ユーザーアンケートによって最初期のアップデートで真っ先につくられた。これによって、ありとあらゆる場所での探索がかなり容易になっており、その足跡は発生してから24時間、その足跡をつけたプレイヤーにだけ表示される。他の生き物に追跡されるということはない。
ミミ太郎は念のため、迷路のようになっている遺跡の縁に登ってから、昨日の夜の現場の様子を見に行く。幸い、すぐにその場所を見つけることができた。どうやら昨日の生物も今はいないようだ。
しかしそこには、一つだけ昨日と違う大きな点が存在した。
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黒い石の床に大きな矢印が白く彫られている。ミミ太郎は自分の目を疑った。
昨日までこんなものはなかったはずだ。夜だから気づかなかったのかもしれないが、そもそも文字だとか、記号みたいなものはこの世界には存在しないのだ。
(つまり、これは……意識的に書かれたものだ)
だが、どうやって書いたのだろうか。そう思ったミミ太郎は下まで降りて辺りを見渡す。するとその側には折れて使い物にならなくなったミミ太郎の剣が捨てられていた。
アイテムには耐久値が設定されているものがある。インベントリを開いたときに確認できるが、大抵宝箱から手に入れたそういったアイテムは耐久値が限りなく低くなっていることが多いため、そのまま使えばすぐに壊れてしまう。
ミミ太郎は確信する。状況的に見て、この矢印は剣で書かれたものだと思って間違いないだろう。剣のこんな使い方は今まで聞いたことがない。というより、できなかったのだが。
それよりもミミ太郎は、他のことが気になって仕方なかった。
(もしかして、人間……プレイヤーがどこかにいるのか?)
そう思った直後、他の動物が入り口から姿を現す。
そこにいるのは、黒鹿毛のポニーだ。
どこかで見たことのあるような体格のそれは、例の奇妙なステップを繰り出しーーそのまま遠くに駆けて消えていく。