リジェットとヴァレン2
市場近くの通りにあるその小さな店は、僅か五席程のカウンター席にスチール椅子をぞんざいに並べただけの質素な場所だった。
狭い店内は油っぽいくすんだ匂いと甘くまろやかな香りが混ざっていて、馴染みのある、懐かしい匂いだ、と桃花は思う。
三日程しか経っていないのに、懐かしいと思うのも妙な話なのだけれど。
一番奥の席に腰掛けると、素っ気ない挨拶と共に冷たい水の入ったグラスが差し出された。
店員は愛想はないけれど粗雑というわけではなく、的確に効率よく働いているように桃花には見える。
腰掛けた安っぽいスチール椅子は傾いているし、テーブルは触れると少し油っぽくてべたべたするけれど、こういう店が案外美味しいものだ、と幼い頃に父親が連れて行ってくれた定食屋を思い出した。
机の端に置かれたくたびれた布巾を見つけた桃花が、机をよく拭きながら周囲を見回すと、壁に象形文字の様な不思議な文字がびっしりと並ぶ紙が貼られている。
〝グラーティア・ストーリア〟で使われている文字は、それぞれひらがなに置き換えられる、と攻略本に書かれてあったけれど、生憎、そこまではしっかり覚えていない。
幼い頃はそれこそしっかり頭に叩き込んだ上で、ゲームの中に出てくる文字を解読しては、読めた事に感動し、ゲームの世界に溶け込めたようで、喜んでいたものだ。
頭の片隅に消えかけている記憶を一向に呼び起こせずに困っていると、隣に座ったヴァレンではなく、更にその先に腰掛けているリジェットが、渋々といった顔で文字の内容を教えてくれた。
どうやら此処は魚料理がメインの定食屋らしい。
リジェットは口は悪いが、それ程に悪びれない性格なのだろう、説明はぞんざいだけれど簡潔で分かりやすく、桃花は今日のおすすめだという定食を店員に頼んでリジェットにお礼を言った。
外気との温度差で汗をかいているグラスに口をつけて、桃花はキッチンで忙しなく働く店員達を眺めながら、久々に嗅ぐ懐かしい匂いに思わずそわそわとしてしまう。
ホエイルの作ってくれる料理はお洒落なカフェやカジュアルレストランで出してくれるような、見た目が華やかで美味しいものばかりだけれど、三食ずっとパンが主食のお洒落な料理となると、食べられなくなってしまったものを所望してしまうのも致し方ない。
まろやかなほんのりと甘い香りは、間違いなく炊き立てのお米の香りで、このゲーム内でも、米を食べる文化がある場所がある。
ゲームの終盤で訪れる事が出来るその場所は、ヴァレンの故郷だ。
「そういえば、リジェットはどうして私の事を知っていたの?」
料理が出来上がる間にそう問い掛ければ、リジェットは面倒そうに首を傾けて言う。
「アイトから聞いた。何かあったら助けてくれ、って」
助けてくれるどころか喧嘩を売られた訳だけれども。
アイトの気遣いは嬉しいけれども、ヴァレンが助けてくれなければどうなっていたか、そんな事を考える気さえもう、桃花には起こらない。
思考を遮るようにぱちぱちと弾ける音がキッチンから聞こえ、鼻先を擽る香りが一層強くなると、桃花はすっかりそちらに意識が向かってしまう。
三角の形をしたフライが二つ、それから、食欲の湧かなそうな紫色をした野菜(恐らくはキャベツなのだろうけれど)が山盛りになって皿に添えられている。
リジェットの説明通り、魚のフライに間違いなさそうだが、この世界では時折、現実とは違う色の食材が出て来るので、その度に驚かされる、と桃花は思う。
紫キャベツのようなものだ、と言い聞かせてみるけれど、一緒にトレイに乗せられて提供されたご飯や味噌汁らしきものは、よく見慣れた色と匂いをしていた。
ほっとして添えられた黒塗りの箸を手に取り、いただきます、と手を合わせて隣を見ると、何故だかヴァレンが箸を持ったまま見つめているので、気恥ずかしくなった桃花は慌ててお椀に手を伸ばし、味噌汁に口をつける。
箸の扱いに慣れているのが珍しいのだろうか。
先程見えたリジェットはフォークを持っていたようだが、彼の生まれはこの街の筈だから、きっと箸には慣れていないのだろう。
コクリと飲み込んだ味噌汁は、馴染みのあるシジミの味噌汁に似た味がして、出汁が良く出ていてとても美味しい。
自然と嬉しくなって笑みを零しながら、熱々のフライに息を吹きかけて冷ましてから一口齧ると、甘い油が口の中に広がり、中の白身魚はしっかりと揚がっているのにふっくらとしている。
骨っぽい所もなく油もしつこくないので、自ずとご飯が進んでいた。
それにしても、と桃花はお米を噛み締めながらしみじみ考える。
お米だけで食べてもこんなにも甘いなんて、以前なら考えもしなかった。
今まで、白米だけでは箸が進まず、ふりかけをかけるか炊き込みご飯の方が断然好きだ、と思っていた己を信じられない程だ。
「トーカは米を食べた事があるのか?」
顔に出ていたのか、ヴァレンがそう問い掛けてくるので、口の中のものを飲み込んで、桃花は頷く。
「私が住んでた所では主食だよ。パンも食べる人が多くなったみたいだけど、私は米の方がほっとするかな。味噌汁も良く飲むし」
「そうか。トーカの住んでいた場所の食事は、俺の故郷のものと近いのかもしれないな」
ヴァレンは極東にある小さな村の出身で、日本に近い文化がある所だ。
剣の腕を磨く為に旅に出ていて、その間に壮大な冒険に巻き込まれた彼は、ゲームの終盤に訪れる故郷をとても大切にしている。
故郷の話が出たせいか、柔らかに笑うヴァレンは、ゲームでのヴァレンとあまり変わらない表情を浮かべている。
自然と嬉しくなって笑うと、リジェットが凄い剣幕で睨んでいる。
「言っとくけど、あんたよりアイトの方が比べるまでもないくらい美人だからな」
ゲームの中では気弱な性格だった為か、アイトの事もアイトお姉ちゃんと呼んでいた筈だが、この口の悪さだ、此処では流石にそうは呼ばないのだろう。
〝舞台〟がシナリオを演じる事ならば、〝舞台〟の時にはアイトお姉ちゃんと呼ぶ筈なのだが、恥ずかしくはないのだろうか、と呆れながら、桃花は肩を竦めてみせた。
「アイトと私じゃ比べ物にならないのは当然だし、まず、リジェットの考えているような事はないから。私はシジェ様が一番のお気に入りだし」
二次元が三次元になったからといって、それが恋愛に直結する、などというお花畑の思考はしていない。
そもそも自らの夢の中かもしれない世界で、現実は虚しくて辛くて甘くないと知っているくせに、こうして周囲から優しくして貰える、そんな穏やかさに浸れるだけで、此処を逃げ場所をしていられるだけで、桃花にとっては十分過ぎるのだ。
リジェットはその言葉を聞くと、納得したようにしっかりと頷いて、興味なさげに食事に戻っている。
「あっそ。シージェスなら良いわ。許す」
良いのか、と心中で呟くが、口にはしない。
桃花自身も、クリア後にくっついたのかくっついていないのか、微妙な距離感のヴァレンとアイトの二人がどうなったのか、気にはなっていたものだ。
ゲームと同じようにリジェットがヴァレンとアイトを兄や姉のように慕っているのなら、二人の仲を応援したくなるのは当然の事だろう。
もしも今ゲームがプレイ出来たなら、そういった事も含めてもっと細かく隅々までキャラクターや世界観等を深く掘り下げるのに、としみじみ思いながら、桃花は再び味噌汁に口をつけて飲み込んだ。
***
先のお詫びに奢らせてくれ、と言うので、言葉に甘えて二人に会計を任せて店の前で待つと、桃花は大きく伸びをして大きく息を吐き出した。
久しぶりに食べた馴染みある食事は、それはそれは美味しかった。
また現実の食事が恋しくなったら此処に来よう、と思い、桃花は、はた、と動きを止めてしまう。
恋しい、だなんて。
桃花は眉を顰め、まるで責められているような、叱られているような気持ちになって、唇を噛み締めた。
此方の世界はとても居心地が良いけれど、いつか目覚めてしまうのならば、此方の方が恋しくなる筈だ。
だのに、今は現実を恋しくなるなんて。
無いものねだり程、虚しいものはないというのに。
大きく息を吸い込み、吐き出すと、慣れない潮風の匂いが纏わりつくようで、少し不快に感じる。
そもそも此処にいつまでも居られるのかもわからないのだから、悩むだけ無駄だ、と桃花は店を出てきた二人を見やった。
二人は何かを話していたが、リジェットが大きな歩幅で近づいてくると、目の前に屋台や移動販売の弁当等で使われるような、紙の容器が一つ、差し出される。
「くれるの? 中身見て良い?」
問い掛けると、リジェットが頭の後ろを掻きながら頷くので、桃花は早速容器を開けた。
香ばしい匂いから何となく予想はついていたが、丸い形をした焼きおにぎりが二つ並んでいる。
「ヴァレンがお詫びに渡せ、って言うから」
面倒そうにそう言ったリジェットの後ろに、ヴァレンの姿を見つけた桃花が礼を言うと、彼は赤い瞳を大きく瞬かせ、不思議そうに首を傾げていた。
不思議に思って首を傾けると、リジェットが不満そうに、自分には礼ははないのか、と口を尖らせて子供のように言うので、桃花は呆れて彼にも礼を言い、焼きおにぎりの入った容器を慎重に閉じて大事に抱える。
食事だけでなくお土産まで用意して貰えるなら有り難いが、先のヴァレンの様子がどうにも引っかかる。
「じゃあ俺、行くから」
そう言って背を向けたリジェットに、気をつけて帰れよ、とヴァレンが声をかけると、気怠そうに手を振っていた。
手を振り返した桃花の隣で、ヴァレンは困ったように、言う。
「トーカ、俺は何も言っていない」
「え?」
聞き返すと、長い指先が抱えた紙容器を指し示しているので、桃花は慌てて遠ざかる背中を見た。
きっと先程彼が言った通り、お詫びのつもりなのだろう。
ひねくれて口は悪いけれど、やはり悪い子ではないらしい。
「リジェット! これ、ありがとう!」
大きな声でそう叫ぶと、潮風で彼の青い髪が揺れて、リジェットが振り返る。
子供みたいにくしゃりと笑う彼は、大きく手を振ってくれていた。




