おかえりなさい
目が覚めると、此処が何処だかわからなくなる事が多かった。
けれど、聞き慣れない一定の機械音と、じんわりとのしかかってくるような身体の痛み、清潔なのに生温く感じる空気と、肌触りが良いとは言えないシーツの感触に、桃花は酷く安堵を覚えている。
あんなに逃げたがっていたのに、どうしてこんなにほっとしているのだろう。
頭を動かすと酷く痛みが広がっていて、顔を顰めながら眺めた窓からは、呆れる程に青い空が広がっている。
***
「もう、本当に心配したのよ!」
母親の泣きそうなのに眉を吊り上げた表情に、桃花は悲しさよりも、くすぐったくて懐かしい気持ちになって、ごめんなさい、と謝った。
目覚めた後、桃花が眠っていたのは病院の一室だった。
コンサートを終え、会場近くの海を見ようと階段から落ちてしまった後、桃花は意識を失って救急車で運ばれていたらしい。
連絡を貰った両親が慌てて病院へ飛んできたが、そのまま三日程眠り続けていて、漸く目が覚めたのが四日目の朝だった、と聞いて、桃花はことりと頭を傾けた。
あるのはあちらの世界での記憶だけ。
それも、随分と長くいたような感覚だったので、もう半年程は向こうにいたような気さえしているのだが、実際はそれ程経過していなかったらしい。
勿論、三日でも寝たきりでいた為か、身体はあちこち痛くて仕方ないのだけれど。
その間も、母親は文句だか心配だかわからない、恐らく母親自身混乱していて情緒がぐちゃぐちゃになっているのだろう、次から次へと文句を吐き出している。
「あんたは本当にもう、ろくに連絡も寄越さないしずっと帰ってこないし、お父さんに相談しても追い詰めかねないから止めなさいってそればっかりだし、本当にもう……!」
「お母さん、もう止めなさい」
「ほら、またそれ!」
父親が宥めようと声をかけるが、火に油を注ぐだけのようで、母親は益々ヒートアップしてしまっている。
流石に声が大きくなってしまい、病院から叩き出されてしまうのは困る、と桃花が言うと、母親はまだ文句の言い足りない顔をしてはいたが、どうにか堪えていた。
久しぶりに見た両親が何処かくたびれて見えるのは、会わない内に年齢を重ねていたからかもしれないし、この状況に安堵しているから、なのかもしれない。
ここまで心配してくれているとは思ってもいなかった自分が、本当に、自ら周囲を遠ざけていたのだな、と感じて、桃花は眉を下げて笑った。
「ええと、病院から連絡あったんだっけ? それとも警察?」
何せ救急車に運ばれた事など人生で初めての事なのだし、数日間意識がなかったのも初めての事である。
一体どんな風に事態が進んでいたのか、当の本人である桃花が一番知りたいのだ。
母親は小さく息を吐き出すと、椅子に座り直して首を傾けていた。
「透君が桃花の事を助けてくれたのよ。覚えてないの?」
「透が?」
幼い頃に一緒に遊んでいた彼の名前を唐突に出されて、桃花は大きく目を瞬かせた。
なぜあの場所に彼がいたのだろう、と考える間もなく、母は早口で説明をしてくれる。
「たまたま桃花が階段から落ちた所に出くわして、救急車呼んでくれたって。ほら、桃花が昔好きだった、何だったかしら、ナントカっていうゲームのイベントに行ってたんでしょう? あれに透君も行ってたらしくて」
「そうなの?」
「そうよ! それで、透君が急いで実家に電話して、透君のお母さんからうちに連絡してくれてね。慌てて病院に来たら、どこも悪くないのに意識だけ戻らないんです、なんて先生に言われて、本当に大変だったんだから!」
「まあ目が覚めて良かったじゃないか」
父の言葉に、母は目くじらを立てるように眉を吊り上げている。
「またそうやって楽観的なことばっかり言って! お父さんは本当にいい加減なんだから!」
「まあまあ」
桃花は母親を何とか宥めているが、当の父親は慣れているせいか、のんびりと笑ってベッド脇に置かれた荷物を取ってくれる。
「桃花が搬送される時、透君が荷物を持って来てくれたらしい。財布とかあるだろうから、ちゃんと確認しておきなさい」
「うん、ありがとう。今度お礼言っておくね」
財布や携帯などが入った自分の鞄と、会場で買ったグッズの入ったトートバッグを改めて確認すると、中身は最後に見た時と変わらず全部無事のようだった。
悪用されていなくて良かったし、グッズも無事で本当に良かった、と安心していると、ふとトートバックの中に見慣れないものを見つけて、桃花はそれを引き抜いた。
頭を覗かせたのは、透明な袋に入れられた、赤いノートだ。
まさか、と思って袋から引っ張り出し、表紙を捲ると、そこにはあちらの世界で見た付箋が貼られている。
そこに書かれていた文字も、全く同じものだ。
あれは夢ではなかったのだろうか、と困惑していると、病室のドアをノックする音が響いていた。
「長波さん、検温と血圧測りますね」
そう言って看護師が二人、病室に入ってくるので、桃花は慌てて荷物をしまい、父親に頼んでベッド脇へと戻して貰った。
看護師は、一人がパソコンや体温計などたくさんの荷物を乗せたカートを引いていて、もう一人は新人なのだろうか、その後ろをくっつくように歩いている。
「それじゃあ、お母さん達、また明日来るわね」
「うん、ありがとう。二人共気をつけて帰ってね」
「桃花もゆっくり休みなさい」
「はあい」
部屋を出ていく両親に手を振り、看護師に促されるまま体温と血圧を測っていると、ふと視線を感じて桃花は顔を上げた。
看護師の一人が、じっと顔を見つめていたからだ。
何日も眠っていたと言っていたから、突然意識が戻って驚かれているのだろうか、と考えながらへらりと笑うと、彼女は戸惑うように問い掛けてくる。
「あのさ、長波さん、だよね?」
「ええと……?」
何かの確認作業だろうか、と思い、桃花が首を傾げると、彼女は自分の胸元のネームプレートを手で示し、困ったように笑っていて。
「あたし、同じ高校の高橋。覚えてない?」
同じ高校、という言葉に、桃花は慌てて記憶の引き出しを引っ張り出した。
学校が同じで共通点があるとしたなら、クラスか部活が同じ人の筈だろう、と懸命に思い出すと、目の前にいる彼女に幼い表情がうっすらと浮かんで見える。
「もしかして、高橋、千夏ちゃん? 確か合唱部の部長だったよね?」
「そうそう!」
彼女は仲の良い友人グループではなかったけれど、席が近い事もあり、人懐っこい性格で気さくに話しかけてくれていたクラスメイトで、時折休憩時間に話をしたりお菓子の交換をするような仲だった。
懐かしい、と言って歓声をあげれば、もう一人の看護師の女性も嬉しそうに笑って血圧計の腕帯を巻いてくれている。
ぐぐ、と腕に圧力がかかるのを感じながら話を聞いていると、看護師の二人は同僚で仲が良いそうで、たまたま救急で運ばれてきた桃花の話をしていたらしい。
「救急で運ばれてきた人がどこも悪く無いのに目が覚めないんだよ、って聞いててさ。たまたま名前聞いたら長波ちゃんじゃん、って思って。丁度上がりだからこいつと一緒に顔見に行こうと思って」
「高橋、めっちゃ心配してたんだよ」
「だって、同級生が搬送されるなんて吃驚するでしょ。酷い怪我とかだったら嫌じゃない」
血圧の結果を見つつ、カートに乗ったノートパソコンを操作した看護師は、それは当然、と言って笑っている。
明日から細かい検査をして大丈夫だったらすぐ退院出来るみたいだよ、と教えてくれた看護師は、ずっと眠っていたんだからあまり無理をしないでね、と釘を刺しながらも、優しい表情で病室の入口に足を向けた。
「じゃあ私は次に行くね。長波さん、お大事にね」
「うん、ありがと」
「ありがとうございます」
看護師の女性が出ていくと、ベッド脇の椅子に座った千夏は、本当に良かった、と言って連絡先を教えてくれた。
クラスメイトではあったけれど、彼女はそれほど親しいとは呼べる関係ではなかったのに、どうして此処まで心配してくれたのだろう、と不思議に思っていると、彼女はぽつりぽつりと自分の話をしてくれた。
彼女も以前勤めていた病院で大変な思いをして、体調を崩して伏せっていた時期があったらしい。
「ブラック企業っていうの? そういうので悩んで色々あって搬送される人も少なくないし、私も似たような経験したから、もしかして、何かあって命の危険があるような状態なのかな、って心配だったんだ。でも、本当に意識が戻って良かったよ」
友人とはすっかり疎遠になっていたし、何処か皆は平和に楽しく暮らしているのだろう、と思っていた、と考えて、桃花は視線を点滴のルートが入った自分の腕に移した。
周囲に目を向けていなかっただけで、もしかしたら、友人達や家族でさえも、こんな風に辛い事があったのかもしれないし、それを悟られないように懸命に生きていたのかもしれない。
「ありがとう。自分の事を心配してくれる人なんていないと思ってたから、嬉しいよ」
桃花がはにかんでそう言うと、彼女は困ったように笑って片手を振っている。
「なーに言ってんの。彼氏がずっと付きっきりだって聞いたよ? おまけに毎日顔見にきてるって話だし。家から片道一時間くらいかかるらしいじゃん?」
愛だねえ、等と付け足した千夏の思いがけない言葉に、桃花は思わず目を丸くした。
彼氏がいない事はなかったが、それでも何年も前の事で、今は連絡先すら知っていない。
誰かと勘違いしているのではないのだろうか、と桃花は頭を捻ってしまう。
「ええ? 私、彼氏なんていないよ。別の人の話じゃない?」
「そうなの? おっかしいなあ」
二人で不思議そうに顔を突き合わせていると、不意に病室のドアをノックする音がする。
「はーい」
ベッドの上にいる桃花に代わって病室のドアを開けた千夏は、その先にいた人物を見るなり、何故だか目を輝かせている。
一体誰なのだろう、と桃花が思っていると、彼女は急いで部屋の中へとその誰かを促していた。
「もしかして、彼氏さんですよね? どうぞどうぞ!」
「あ、いえ……、その、また後で来ますから」
「良いんですよ、私もう帰りますから! じゃあまた後で連絡するね、長波ちゃん!」
「う、うん、ありがとう」
楽しげに部屋を出ていく千夏に手を振りながら、桃花が首を傾げていると、病室におずおずと一人の男性が入ってきた。
スーツ姿のその男性は、背が高くすらっとしているけれど、お人好しそうな、優しそうな顔をしている、見慣れない人物だった。
けれど、妙な既視感を感じ、目を眇めて暫く見つめていると、彼は困ったように眉を下げて、頭の後ろを掻いている。
その手に握り締めている携帯電話のケースは、赤色だ。
「ええと……、もしかして、透?」
桃花が問いかけると、彼は柔らかく笑って頷いている。
「うん。今、平気かな?」
「どうぞ。こっちに椅子あるよ」
そう言うと、彼は静かに病室の扉を閉めて、ベッド脇にある安っぽい椅子へと窮屈そうに背を丸めて腰掛けた。
子供の頃は少し背が低くて、少しだけ走るのが早くて、口下手で優しくて大人しい、そんな子だったけれど、今はその印象が全然違ってみえる。
何年も経っているのだから、それもそうか、と考えて、桃花は彼を見つめた。
「透が助けてくれた、ってお母さん達から聞いた。さっきの子からも、ずっと面会にきてくれてたって」
その言葉に、透は頷いて、困ったように眉を下げている。
その様子は、少しだけ幼い頃の彼に戻ったように桃花には感じられた。
「あの日、俺もあのコンサートに行ってて。まさか桃花ちゃんがいるとは思わなかったけど」
「私も透がいるとは思わなかった」
あの日から彼を避けて、互いに話をする事なく離れてしまっていたから、もうゲームの事も自分の事もすっかり忘れてしまっただろう、と思っていたけれど、まさか彼もあの場所にいるとは、と考えて、桃花は小さく笑った。
もしかしたらドラマのように会場にいて、再会をしたりするのかもしれない、とも考えていた事が現実に起きてしまって、何だか不思議な気分だ。
彼の携帯ケースが赤である事が、彼が変わらずにあのゲームを好きでいる証拠なのだろう。
そして、あの赤いノートが、桃花の荷物と一緒にあったのも。
「桃花ちゃん、ごめんね」
「え?」
随分と考え込んでしまっていたらしい、彼が突然深く頭を下げて謝るので、桃花は慌てふためいてしまう。
けれど、彼は眉を寄せ、辛そうに手を握り締めると、絞り出すように声を出して、いて。
「昔、桃花ちゃんが助けてくれた時、何も言えなくて、本当にごめん。桃花ちゃんを悪く言われて言い返そうとしたのに、あの時の自分は何も言えなくて、そんな自分が情けなくて、余計に言えなくなってたんだ」
それは、あの周囲の男子達に冷やかされて虐められていた時だろう。
彼にとっても、あの時の事はしこりになって、胸に深く残っていたのかもしれない。
あの時の男子達にしてみたら、たまたま気に食わなくて文句を言っただけで、もう忘れ去られているに違いないけれど。
けれど、彼はそういう事を忘れずにいて、ちゃんと謝ってくれている。
自らの非を認めて謝罪をするというのは、なかなか出来ない事だ、と言ったヴァレンの言葉を思い出して、桃花は柔らかく息を吐き出した。
「でも、助けてくれたよ」
そう言って、側に置いていた、赤いノートを差し出した。
あの世界では中身は桃花の持っていたものと同じだったけれど、このノートは違う。
その内側に貼られた小さな付箋とノートの中身は、同じ小さくて整った丸みを帯びた文字で書かれている。
これは、彼が書いた、彼のノートだ。
「一番辛い時に助けて貰えた。これ、透が持ってきたんでしょう?」
彼はその言葉に大きく目を瞬かせると、困ったように頭の後ろを掻いて、頷いた。
「病院に運ばれた翌日に病室に顔を出したら、ディアヴルアルサーが倒せない、って桃花ちゃんがうわ言を言ってたから。もしかしてこれがあれば目が覚めたりしないかな、って思って」
余計な事だったかもしれないけど、と俯いた彼の淋しそうな表情が、昔の顔と被って見えて、桃花は赤いノートの表面を撫でる。
まさか本当に彼がそう思って、このノートを届けてくれるとは思っていなかった。
彼がこれを届けてくれたから、きっと、あの時の自分は、もう一度立ち上がれたに違いない。
「実は、夢の中でディアヴルアルサーと戦ってたんだよね。昔と挙動が違い過ぎて凄く辛かったけど」
「そうなの?」
驚きながらも、嬉しそうにそう聞いてくる透が、昔と何も変わらなくて、桃花は思わず笑みを浮かべてしまう。
「そう。ヴァレン達と一緒に戦ってたよ。私は指示出してただけだけど」
「ヴァレン、格好良かった?」
「ちょっと怖かった」
「そうなの? でもほら、必殺技とか奥義とか近くで見れたりしなかった?」
「見れたし格好良かったけど、厳しい人だったから」
「ヴァレンはそこが格好良いんだよ」
夢の中での話だとしても、彼はそれを馬鹿にしたりはしない。
そういう彼だからこそ、あの時助けになってくれていたのかもしれない、と考えて、桃花は静かに目蓋を閉じた。
あの世界はきっと、自分にとって都合が良い世界だったけれど、それは、こんな風に、今いる世界を見つめ直す為の世界でもあったのかもしれない。
居心地の良い逃げ場所であって、自分を信じてあげられる為の、優しい世界。
自分は果たして、彼らをエンディングの先へと連れて行ってあげられただろうか。
出来たらそれは、こんな風に、皆で笑い合える事の出来る場所だったら良い、と考えて、桃花はゆっくりと目蓋を開いた。
まるで昔に戻ったみたいだね、と言った彼は、嬉しそうに笑うと、名前を呼んでくれる。
「桃花ちゃん」
「ん?」
首を傾けると、彼は優しい声で、おかえりなさい、と言ってくれていて。
桃花はぱちぱちと眼を瞬かせると、最後に見た皆の姿を思い出した。
行ってらっしゃい、と手を振った彼らが送り出してくれた先で、またきっと嫌な事も辛い事も何も感じなくなってしまう事もたくさんあるだろうけれど、と考えて、桃花は口元を和らげた。
「うん、ただいま」
それでも、きっと彼らはずっと一緒に居てくれて、これからも、背中を押して送り出してくれるのだろう。
こうして、帰る場所がわかったから。
笑顔で頷いた桃花が視線を向けた窓の向こうは、あの世界と同じ、眩い程の青空が広がっている。
END
最後まで読んでくださり、誠に有難うございます。
初めて書いたオリジナルで長編だった事もあり、至らない所も多々あったと思いますが、読んでくださる方々がいらっしゃって、とても嬉しかったです。
評価やブクマもとても励みにさせて頂きました。
少しでも読んで下さった方が楽しんで頂けたなら幸いです。
本当に有難うございました!
七狗




