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夜明け

 部屋の中がうっすらと明るくなったのを感じて、桃花は深呼吸をして、腰掛けていたベッドから立ち上がった。

 身体は軋んであちこち痛く、頭は膨張したようにぼんやりとするけれど、気持ちは随分とすっきりしている。

 窓の外は白い木々が広がっていて、紺色の空に黄金色が少しずつ広がっていくのが見えた。

 どんな事があったとしても、明日が始まってしまうのは理不尽だ、と思うのは変わらないけれど、と考えて、桃花は膝の上に乗せていた赤いノートを広げ、表紙の裏に貼り付けてあった付箋を眺めると、指先でもう一度だけ触れる。

 たったこれだけで安心してしまうし、まだ動ける気がしてしまえるのだから、不思議なものだ、と桃花は思う。

 ノートを閉じ、大きく深呼吸をして扉へと足を踏み出してドアノブに触れると、皮膚からひんやりとした温度が伝わってくる。

 恐る恐る扉を開けると足音が聞こえたので、慌てて部屋の奥へ戻ろうとすると、優しく名前を呼ぶ声が聞こえ、桃花は安堵の息を吐き出した。


「クトリア?」

「うん」


 廊下の向こうから歩いてきたクトリアは、顔を見ると小さく頷いて、食事が出来るかどうか問いかけてくるので、桃花はしっかりと頷いた。

 部屋で待っているようにと言われたので、桃花は大人しく部屋に戻り、ベッドに腰掛けて待っていたが、クトリアはきっと、皆と顔を合わせて気まずい思いをしないように、気を遣っているのだろう。

 申し訳なくも有り難くも思いながら、暫くすると、彼はスープや飲み物を乗せたトレイを持ってきてくれていた。

 部屋に漂うスープの香りに、漸く空腹を感じてきて頬を緩めると、ひんやりとした濡れたタオルを手渡される。

 意図を掴みかねて首を傾げると、目元を指差されるので、桃花は慌ててタオルを受け取った。

 よく考えてみたら、泣き腫らしていて随分酷い顔をしているのだろう。

 申し訳なく思いながらタオルで目元を冷やした桃花は、頭を下げた。


「あの、さっきはすみませんでした」


 今まで溜め込んでいたものを一斉にぶちまけてしまった所を見られて、今更ながら恥ずかしさが込み上げてくるけれど、彼は緩やかに首を振っている。


「気にしなくていい。家族が辛い思いをして帰ってきたら、安心して休める事が出来るのが、家と言うものだろう」


 その言葉に桃花は小さく頷いて、目元にタオルを押し付けた。

 気を抜いたら、また、視界が滲んでしまいそうで。

 彼やホエイルがこうして安心して過ごせる場所を作ってくれたから、此処でもきちんと眠れて、目が覚める事が出来たのだろう、と緩く唇を噛むと、桃花は深く息を吐き出して、顔を上げた。


「うん、ありがとう」


 ぎこちなくて情けない笑顔だったのかもしれないけれど、クトリアは笑ってあたたかいスープの入った皿と、スプーンを差し出してくれる。

 スープは野菜が沢山入っているもので、口に入れると野菜が溶けてしまう程によく煮込まれていて、素朴で優しい味がした。

 きっとホエイルが作ってくれたのだろう。

 彼女の作る料理は、いつも優しい味がするから、と考えて、桃花は小さく笑った。


「ホエイルも心配してますよね」


 そう言うと、クトリアは少し考えて、少しだけ首を傾けている。


「トーカを泣かせたヴァレンをぼこぼこにする、と言って、庭で叩き潰していた」

「え?」


 思いもよらない言葉に思わずスプーンを置いて、桃花は彼の表情をまじまじと見たが、彼は小さく笑っているだけで何も言わない。

 あれだけ強いホエイルなら、ヴァレン一人を倒してしまう程度、簡単にやってしまいそうだけれど、まさか自分の為にそこまでさせてしまったなんて事は、ないとも言い切れないし……、等と慌てふためきながら考えていると、彼はほんの少し眉を下げて、困ったように笑っている。


「冗談だ」

「クトリアの冗談、初めて聞きましたよ」


 可笑しさでくすくすと声を溢して笑うと、ふとクトリアは視線を入り口へと向けていた。

 不思議に思ってその視線の先を辿ると、彼はそちらに足を向け、扉を細く開けて確認している。

 誰か来たのだろうか、と僅かに身構えていると、扉の隙間から長い三つ編みが見えて、桃花はほっと息を吐き出した。

 不安そうな顔をしたホエイルが入ってきて、目が合うと、彼女は直ぐに近寄ってきてくれた。


「トーカ、ご飯食べれた? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」


 隣に座ったホエイルは、そっと指先で目元に触れると、まるで自分の方が痛いと言うかのように顔を歪めている。


「目がすっごく腫れてる。もしかして、ヴァレンに何か言われたの? 平気?」

「ホエイル、まさか本当にヴァレンの事、ぼこぼこにしてないよね?」

「ええ? 何の話?」


 不思議そうな顔をして首を傾げているホエイルに、クトリアは顔を背けていたが、肩が微かに震えているので、きっと笑っているのだろう。

 先程の冗談を思い出して笑い出しそうになって、桃花は咳払いをしてホエイルの頭を撫でた。


「ううん、何でもない。ちょっと喧嘩しちゃったんだ。これから謝らないと」


 その言葉に、ホエイルは「大丈夫?」と聞きかけようとして、口を噤んでいた。

 聡い子だから、きっとそれが気持ちを押し付けてしまう事になりかねない、と理解しているのだろう。

 漫画やゲームの中の世界なら、こんな事が起きても当たり前に謝って、何のわだかまりもなかったかのように振る舞えるに違いない。

 けれど、自分は違うのだ、と桃花は思う。

 傷ついた痛みはいつまでも膿を孕んでいて、かさぶたになっても内側でじくじくと痛みを残している。

 それを、痛くない、とは、自分には言えない。

 どんなに目を背けたって、傷ついて情けなくてどうしようもなくても、これが自分なのだと認めて、受け入れていくしかない。

 それは、後ろ向きな考えではなくて、もっときちんと、これ以上大切にしたいものを取り零さない為に。


「食事をして少しだけ休んだら、ヴァレンや皆と話をします」

「もう、平気なのか」


 クトリアの問いかけに、桃花は眉を下げて笑うと、しっかりと頷いた。

 シージェスがいつか言っていた事を思い出す。

 がんばれ、と言ってくれた人がいたから、それだけで、折れてしまいそうな時にでもそれだけで頑張れるのだ、と。

 彼はそう言って、懐かしむように眼を細めていた。

 今ならその気持ちがよくわかる。


「平気ではないですけど……、頑張りたい、です」


 大好きな世界の、大好きな人達に、ちゃんとしていたいし、向き合っていたい。

 だから、と桃花が前を向くと、二人は笑って頷いてくれていた。

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