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君の言葉

 この世界はとても都合がいい、自分に優しい世界だ、と、桃花は思う。

 だからきっと、頭の片隅、無意識のうちに甘えがあったのだろうし、どうにかなるだろう、と密やかに考える事を放棄して、逃げていたに違いない。

 涙で濡れた世界はぐらぐらと揺れて、上手く解像度を上げてはくれず、薄暗い部屋のベッドの上で、膝を抱えて縮こまりながら、桃花は唇を噛み締めた。

 ヴァレンに言われた言葉が、何度も何度も胸に突き刺さって、いつまでも消えていかない。

 必要としなかったから、必要とされなかった。

 それは、確かに正しい、と桃花は思う。

 必要としていたのに、必要とされなくなるのが怖かったから、逃げていたのだ。

 手を離されるのが怖くて、手を離してしまっただけ。

 改めて考えてみると、どうしようもない人間だな、と自分でも呆れてしまう。

 結局、何をする事も出来ず皆を傷つけるばかりで、その癖、逃れる事に安堵して、ただ泣いているだけの自分はなんてみっともなくて惨めなのだろう、と桃花は思った。 

 このまま消えて、小さくなって、消えていってしまえば良いのに。

 何も出来ず、何も成せない自分なんて、何処にだって居場所がなくて、逃げる事しか出来ないのだから。

 唇を噛み締めると、震える喉から息が零れてくる。

 泣き過ぎて目の周りは熱を持ち腫れぼったく、目の奥と頭の中がひりひりと痛んでいる。

 それでも次々と涙が零れ、流れ落ちてくるので、そのうちに頬まで腫れてしまうのだろう。

 二人が部屋を出て、一人になってから随分と泣き続けていた為か、こんなにも泣いたのは幼い頃以来かもしれない、と頭の片隅で少しずつ冷静な思考が動き出している。

 桃花は鼻をすんと鳴らし、ぼんやりと、よく泣いていた幼い頃の自分を思い出し、乾いた笑いを溢した。

 子供の頃って、どうして人目を憚る事もなく、あんなにも簡単に泣けたのだろう。

 考えてはみるけれど、飽和しきった脳内では上手く記憶を紐解けない。

 毛布の上に広く染みを作った幾つもの水玉を眺めながら、桃花はぼんやりとそれをなぞった。

 その様が、何かに似ている気がしてぼんやりと落ちていく涙も気に留めずに眺めていると、ふと記憶の片隅で、小さな指先が涙に滲んだノートを拾い上げているのを思い出して、桃花は瞬きを繰り返した。

 瞼の淵から流れてくる涙が、腫れぼったくなってきた頰を乾かす事なく濡らしている。


 (そういえば、昔もディアヴルアルサーが倒せなくて、めちゃくちゃ泣いていたっけ……)


 まだ二人で並んで、テレビの前に座り込んで、ゲームをして遊んでいられた幼い頃。

 何度も何度も挑戦して、それでも倒せなくて悔しくて、攻略法を書き込んだ青いノートを、放り出して泣き出してしまった事があった。

 何回挑戦してもどうしても倒せなくて、皆がやられているのを見るのが嫌で、辛くて泣きじゃくっていた時、涙が染み込んでしまったノートを、隣にいた男の子はそっと拾い上げてくれている。


「桃花ちゃん、ちゃんと見てなきゃダメだよ」


 彼はそう言うと、目の前の画面を指差した。

 倒れてしまったキャラクター達を見たくなくて、目を逸らしていた画面には、ゲームオーバーの文字が、軽薄そうにゆらゆらと浮かんでいる。


「どうして? みんなが傷つくのは見たくないよ。嫌だよ」


 次々と落ちてくる涙さえ構わずに泣きじゃくってそう言うと、彼は困ったように笑いながら、ポケットから取り出したハンカチを頰に押し付けて、不器用に涙を拭ってくれた。


「みんなが桃花ちゃんの合図を待ってるんだよ。だから、見逃しちゃダメなんだよ」


 彼はそう言って、コントローラーを握ってもう一度ゲームを再開させている。

 だって、桃花ちゃんは皆が好きなんでしょ?

 だから、桃花ちゃんが皆を助けてあげなきゃ。

 彼はそう言って、コントローラーを手渡してくれた。


「ほら、ちゃんと皆を見てみて。桃花ちゃんの事、皆が待ってるんだよ」


 彼が指さした画面の中で、誰も欠ける事なく、動く時を待っているかのように、キャラクター達が並んでいる。

 瞼の淵で、涙が画面の明かりで光って見えた。

 

(……、待ってる?)


 彼の発言に引っ掛かりを覚えて、桃花は深く潜っていた記憶から浮上した。

 息を吸い、短く吐き出すと、軋むように痛む頭を傾けて、ぽつりと呟く。

 待っている? こんな自分を?

 それなら、あの時、皆が自分を見つめていたのは。

 幼い頃に、傷ついた彼が、ぽつんと一人きり、自分を見つめていたのは。

 ゆっくりと顔を上げ、記憶を一つ一つゆっくりと辿っていくと、ディアヴルアルサーに見た事のない攻撃をされる直前も、彼らは決して、詰るような、蔑むような、そんな視線を送っていなかったように感じられて、桃花は口元に手を当てた。

 寧ろ、そう、彼は、彼らは——。


「もしかして……、待っていた、の?」


 今の自分と同じように、手を差し伸べてくれるのを待っていたのだとしたら。

 桃花は考えて、ぎゅうと胸元を握り締めた。

 逃げてばかりいたから、何も周りが見えていなかったのではないのか。

 伸ばされていたかもしれないその手を、振り払ってまで逃げていたのは、一体、何の為なのだろう。

 その手を握り締めて、大丈夫だって、ただ言うだけで、何か変わっていたのかもしれないのに。

 その気持ちに耳を傾けるだけで、苦しめずに済んでいたのかもしれないのに。

 今更、そんな事に気がつくなんて、あまりにも馬鹿過ぎる。

 眉を寄せ、胸元を握り締めたまま震える息を吐き出すと、瞼の淵から涙が滲み出て、零れ落ちている。

 その瞬間、目の前にふわりと光がひとつ、現れていて。

 綿毛のような、蛍のような、柔らかくて小さくて呆気なく消えてしまいそうな光は、頼りなく目の前で揺れていて、不思議に思いながらもぼんやりとその光に触れようと指先を伸ばすと、呆気なく逃げてしまう。

 待って、と追いかけようとして振り返ると、部屋の中に淡い光が幾つも溢れていて。

 イルミネーションのようなはっきりとした光ではなく、優しくて、今にも消えそうな光に、驚いてベッドから降りて少しずつ近づくと、部屋の中央で光がゆっくりと一つに集まってくる。

 戸惑いながらも導かれるように指先を伸ばすと、光の中にあったのは、一冊のノートだ。

 年月が経ちごわごわとした手触りの、色褪せてしまった青いノートは、桃花が持っていた、ディアヴルアルサーの攻略法を書いてあるものだ。

 荷物を詰め込んだ鞄の中に入れて持ってきてはいたけれど、この部屋には鞄は見当たらないし、何故こんな所にあるのだろう。

 桃花が不思議に思いながらもそっとそれに手を伸ばすと、青かった表紙が、端から少しずつ赤く染まっていく。

 驚いて眼を大きく瞬かせていると、光は次第に弱くなっていってしまい、手のひらに収まってしまっていた。

 何故表紙が赤くなってしまったのだろう、と戸惑ってノートを裏返したり中身を確かめてみるが、中身は何の変哲もない、今まで桃花が持っていたものと変わらないノートだ。

 首を傾げてぱらぱらと捲っていくと、赤くなった表紙の裏側に、小さな付箋が貼ってある。

 端が寄れてしまったノートとは違い、その付箋だけはまだ真新しく、最近のもののように見えた。

 桃花自身、そんな場所に付箋を貼った覚えはなく、不思議に思って水分を含んだ目蓋を擦ってよく眺めてみると、そこに書かれているのは、幼い頃に見た、小さくて整った、丸みを帯びた文字。

 ずっと一緒に遊んでいたから、それが誰の文字なのか、わかる。


 桃花ちゃん、頑張って。


 そう書かれた付箋を、桃花は震える指先でそっとなぞった。

 何度も涙が流れてひりひりと痛む頰は、だけれど、少しずつ乾き始めていて。

 事態は何も解決していないし、解決策さえ見つかっていないけれど。

 此処は実に都合の良い世界だから、これは、自分に都合の良い、ただの妄想なのかもしれないけれど。


「……頑張れ、って、本当に? そう思ってくれてる?」


 呟いて、桃花は何度も付箋をなぞる。

 そんなわけないのに、そんなことを信じたくなる。

 信じて、いたい。


「ねえ、信じても良い?」


 逃げ出してしまったあの日から、一度も呼べなくなってしまった名前を呟くと、桃花はノートをしっかりと抱き締めていた。

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