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目が覚めた瞬間、薄暗い天井が広がっていた。
一瞬何処にいるのか分からなくて、頭が酷くぐらぐらする。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら周囲の様子を確かめていくと、次第に現状が把握出来てくる。
白っぽい木材で出来た天井や壁、ぼんやりとした月明かりが入り込んでいる小さな窓。
おそらく此処は聖域の森にある、クトリア達の家なのだろう。
清潔な香りのする毛布をかけられ、ベッドに横たわっているのがわかるけれど、酷く瞼が重くて上手く持ち上げられず、少し息苦しさを感じながら、無理矢理肺に空気を送り込んで、吐き出した。
その瞬間、肺が軋むように痛み、桃花はその場で音を立てないよう、口元に手を当てて咳き込みながら、身体を丸めてしまう。
遠くの方で、誰かの声が聞こえる。
それが、笑い声なのか、話し声なのかも分からない。
けれど、今はそれが何なのかも知りたくもないし、誰とも会いたくはない。
目が覚めて、どんな顔をしてどう声をかけられるのか、考えただけで恐ろしくて、苦しくて、目の奥が熱くなって、目の前が水分でいっぱいになってしまう。
慌てて毛布を頭から被り、何も聞こえないよう耳を塞ぐと、扉をノックする音がして、桃花はびくりと身体を震わせた。
じっと動かずに黙り込んでいたものの、躊躇うように何か声をかけた誰かが部屋の中へ足を踏み入れたらしい音がするけれど、毛布を被っているのでそれが誰なのかは、わからない。
「目が覚めたか?」
トーカ、と呼ばれて、想像よりもずっと静かで優しい響きの声に、桃花は頭から毛布を被ったまま、小さく呟いた。
「……、クトリア?」
「うん」
桃花が恐る恐る毛布を退けて顔を出すと、彼はいつものように、けれど何処か困ったように、小さく笑みを浮かべて頷いて、窮屈そうにベッド脇に置かれた椅子に腰掛けている。
「身体は、痛くないか?」
問いかけられ、桃花は瞼を閉じて考えるけれど、どう答えていいかわからずに、桃花は頭を少しだけ傾けた。
「よくわからない、です」
「……、そうか」
クトリアは静かに頷くだけで、無遠慮にあれこれと聞いてくるような事はしない。
ただ、少しの間沈黙した後、今まで起きた事だけを、淡々と桃花に教えてくれた。
あの後、ディアヴルアルサーからどうにか逃げようとした瞬間、突然〝門〟が現れた事で、無事に全員脱出できたらしい。
今までどうやったとしても使えなかった筈なのに、気を失っていた桃花も共に〝門〟を使う事が出来たらしく、聖域の森にあるクトリア達の家まで戻ってきたそうだ。
森の奥にあった時空の扉の前で戦っていたクトリア達も、突然扉が閉まり、モンスター達が消え去ってしまったので、仕方なく家まで戻ってきた所で、丁度ヴァレン達と合流し、互いに状況を確認しながら休んでいたらしい。
あれ程たくさんのモンスターが押し寄せてきていたというのに、彼は文句も不満も告げず、軽蔑もしない。
きっと、ホエイルも同じようにしてくれるに違いないだろう。
疲れただろう、と穏やかな声をかけてくれるクトリアを見ながらそう考えた、桃花はみるみるうちに悲しい気持ちでいっぱいになってしまう。
何か言わなくては、謝らなくては、と唇を動かそうとして、上手く動かせずに、焦燥感に駆られていると、不意に扉の方から声がかかった。
「クトリア、トーカは目が覚めたのか?」
真っ直ぐで、迷いのないその声の主は、間違いなくヴァレンだ。
桃花はその声を聞いた途端、びくり、と身体が強張ってしまっていた。
視線を上げる事すら出来ず、桃花はただ、じっと毛布を握り締めた自分の手のひらを見つめている。
「トーカ、皆回復して調子も戻っているから、いつでも戦えるぞ」
彼は扉を開け、部屋の中に入ってくると、それが当たり前の事のように、言う。
ヴァレンはあの瞬間から、否、今までずっと変わらずに、真っ直ぐで折れ曲がる事も知らないように、生きてきたに違いない。
それが、どうしようもなく、目を背けたくなってしまいたくなる。
「ヴァレン。トーカは目が覚めたばかりだ。もう少し休んでからに、」
「もう戦わない」
労るクトリアの言葉を遮るようにそう言うと、桃花は握り締めていた手のひらに、強く力を込めた。
指が真っ白になり、爪が手のひらに食い込む事すら構わずに強く握り締めると、ヴァレンがぽつりと呟いて、いて。
「……今、何と言った?」
ぴり、と空気がひりついていくのを感じながらも、桃花は視線を自身の手のひらに向けたまま、口を開き、息を吸い込んだ。
「私はもう戦わない。私にはあのディアヴルアルサーを倒す方法がわからない。だから、もうあの場所には行けない。ディアヴルアルサーを倒す事は、出来ない」
可笑しい事に、声も手も、震える事はなかった。
ただ、痛いくらいの視線に、突き刺されてしまいそうになってしまいそうで、手のひらに爪が食い込むのも構わずに、手を握り込んでしまう。
その様子に、ヴァレンは苛立ちを抑えるように重苦しく息を吐き出して、呆れたように言った。
「一度失敗した程度で止めるのか? これはそんな戦いじゃあないだろう」
「どうせ、わからないよ」
何の力もない自分に、誰かに期待される事もなく必要もされる事もない自分に、一体何が出来るというのだろう。
物語の中ならば、どんな挫折だって主人公達はいとも簡単に乗り越えてしまうのだろうけれど、目の前に現実を突きつけられた時、視線を逸らさずにいられる者は、きっとそれだけ自分を信じているのだろうし、そう周囲に認められてきたのだ。
そういった人々は、それだけの努力をしているのかもしれないが、努力をするにも才能が必要だという事を、きっと知らないでいるのだろう。
自分には手に負えようのない事に、足が竦んで、指先が震え、呼吸さえままならないその瞬間に、普通はそう簡単に立ち直ったり立ち向かえたりはしないものだ。
「ヴァレンにはわからない。ヴァレンは全部何もかも持ってるから、そんな事が簡単に言えるんだよ」
顔を上げ、真っ直ぐに見た彼の赤い瞳は、怒りと悔しさで歪んでいる。
此処に来たばかりの時に見た光景と似ているのに、桃花の内側だけはもう何もかもぐちゃぐちゃになっていて、わけもわからず口から言葉が吐き出されている。
「ヴァレンには全部揃ってるくせに! 絶対に離れていかない仲間も、立ち上がる為の力も、立ち向かった先に絶対幸せになれる世界があるって決まってるから、簡単に何度も立ち向かえるんだよ!」
現実はそんなに上手くはいかない事を、自分が一番よくわかっている。
どんなに辛く苦しくたって、更に追い討ちをかけるように嫌な事が起きるものだし、傷つかないよう生きていたって、絶対に傷つけられる事が起きてしまう。
この世界はあまりにも優しい世界だけれど、その現実を浮き彫りにさせようとしていて、いつも心の片隅で、不安が拭えなかった。
何処にいたって、自分には、本当の居場所がないような気がして。
「私は最初から必要とされなかった! 現実からも、この世界からも! それなのに、逃げて何が悪いの!」
何か言いかけようとした二人を妨げるように、桃花は声を荒げた。
悔しくて、苦しくて、悲しくて、今すぐに此処から消えてしまいたい。
けれど、彼はそれすらも許しはしないのだ。
「良い加減にしろ!!」
皮膚が震える程の大声に、桃花はびくりと身体を強張らせた。
勢いに任せて今まで抑え込んでいたものを吐き出してしまったせいで、一気に血の気が引いてくる。
ヴァレンの赤い瞳が真っ直ぐに見つめていて、全く違う筈なのに、幼い頃の、あの記憶の中にいるような気持ちが湧き上がってきて、思わず目を逸らしてしまった。
違う、こんな事を言いたかったんじゃない。
こんな風に、傷つけたかったわけじゃない。
乾いた唇を噛み締めると、目の前が水分でぐらぐらと揺れている。
何もかも、夢だったら良かったのに。
「お前はいつまでそうやって目を背けているつもりだ!」
その言葉に、桃花は弾かれるように顔を上げて、ヴァレンを見た。
胸底から何かが湧き上がるようで、熱くて、痛い。
息が上手く出来なくて、吸い込んだ息だけが、やけに冷たい。
ただ、彼の赤い瞳だけが真っ直ぐに向けられていて、内側まで見透かされているようだ、と思えた。
「お前が必要とされていなかったんじゃない! お前が必要としないから、必要とされなかっただけだろう!」
身体中を突き刺していくかのような言葉に、堪えていた涙が瞼の淵から溢れて零れ落ちていく。
幾つも幾つも落ちていく大きな水玉が、毛布にみっともない染みを作って大きくなっている。
「勝手に全部諦めて、捨ててきたのはお前なんじゃないのか!」
「ヴァレン!!」
ヴァレンの言葉を制するように、クトリアが大きな声で彼の名前を呼んだ。
今まで聞いた事のない声に圧倒されたのか、ヴァレンが口を噤むと、クトリアは深く息を吐き出して、静かに言った。
「弱っている人間に怒鳴りつけて追い詰めるのがお前の正義か?」
外で頭を冷やして来い、と告げられて、ヴァレンは僅かに何か言いたげに口を開きかけたが、止めた。
震える息を吐き出して、荒々しい足音を立てて扉を閉めた彼が、いなくなった後の部屋はとても暗くて、静かで、重くて、痛い。
「トーカ、起きたばかりで疲れているだろう。ゆっくり休むといい」
クトリアは静かに息を吐き出すと、椅子から立ち上がり、そう優しく声をかけると、音を立てないよう部屋から出て行ってしまっていた。
優しい言葉は、だけど、今はただ追い詰めていくだけだ。
ごめんなさい、と言えるはずもない。
逃げられる、とわかった瞬間、安心してしまった自分には。
そんな事を、言う資格すらない。
彼の言葉は呪いみたいに、胸の内側を緩やかに確実に削り取っていく。
感傷などには浸る筈もない。そんな資格は更々ない。
それでもいつも許されたくて、逃げ出したい。
助けて、と。
薄暗い部屋の中でひとり取り残された桃花は、掠れた声でそう呟いていた。




