アイリス・トランジション
あの真っ直ぐな瞳が、いつまでもいつまでも忘れられない。
誰かが傷つくのが怖いのは、きっと、心の根底にあの眼を忘れられない事があるからだ、と、思う。
今よりずっと幼い頃の話。
その日、桃花は母親に言われて着たくもないピンク色のワンピースを着ていた。
その服を着たまま学校に行くのが嫌で、通学路で会う一人一人に笑われているような気がして嫌で、起きてもいない事を考えて落ち込んでしまう自分自身が、何よりも嫌だった。
唇を噛み締めて、通い慣れている筈なのにやけに長く感じてしまう通学路を俯きながら歩き、誰も自分に気づきませんように、とランドセルの取っ手を強く握り締めていたけれど、そうした時ばかり、嫌な事は続いてしまう。
通学路の向こうにいた、三、四人の男の子達は、げらげらと桃花を指差して笑っていた。
その男の子達の奥に、ランドセルを掴まれている一人の男の子の姿が見えて、一気に血の気が引き、身体中の体温が全て抜け落ちていきそうになったのを、桃花は今でも鮮明に憶えている。
彼は、桃花とよく一緒に遊んでいた男の子だった。
〝グラーティア・ストーリア〟をプレイするきっかけを作った子で、口下手で大人しいのに、好きなものの話をする時は、誰よりも嬉しそうに笑っている子。
三、四人の男の子達に囲まれているので、気弱な彼はすっかり青い顔をしている。
男のくせに女と遊んでるのか、だとか、あんまりかわいくない奴なのに、だとか、あいつもお前も生意気なんだよ、だとか……、まあ、よくもそんな幼稚な言葉ばかりを思いつくものだ、と考える程に彼らはきっと子供で、ただ何となくそう思い、口に出してしまっただけの、事だったのだろう。
でも、と考えて、桃花は次第に目の奥がじわじわと熱くなって、こめかみが締め付けられる程に痛んで仕方がなくって、彼の顔が、情けなさと申し訳なさで歪んで泣き出しそうだった事が、ただ、許せなかった。
気が付いた時には、自分のランドセルを掴み、彼等に向かって振り上げていた。
その頃には一番後ろの席に追いやられる程に伸びていた身長は、彼らよりもずっと高く、それなりの迫力があっただろうし、振り上げたランドセルの勢いはより恐怖心を与えられたのだろう。
蜘蛛の子を散らすように逃げる彼らを、片っ端からランドセルで殴り飛ばそうとしたけれど、結果的に彼らの方が足が早く、すぐにその場からいなくなってしまっていた。
そうして、取り残されたひとりとひとり。
肩で息をしながら、桃花は一言も発する事が出来ずに、ただ、手からぶら下げていたランドセルが地面に落ちていた。
手足が震え、地面を見つめたまま動けずにいると、彼の小さな手のひらが、地面に転がったランドセルを拾い上げて、砂や土がつき、汚れてしまった所を丁寧に払ってくれる。
彼は、消え入りそうな声で、ごめんなさい、と小さく呟くと、ランドセルをそっと差し出してくれていて。
透き通る茶色の瞳が、今にも零れ落ちてしまいそうな程に水分を含み、それでも、真っ直ぐに見つめてくる。
まるで心の奥底まで見つめられる程のその視線は、一体、どういう気持ちから向けられたものなのだろう。
ぼんやりと考えかけた、その時になって、何故あんなにもあの男の子達に怒り狂って殴りかかったのか、桃花は漸く理解したのだ。
自分が、彼を傷つけてしまったのだ、と。
その原因になってしまったのだ、と。
そう理解した瞬間、桃花はランドセルを掴むと、驚く程の速さでその場から逃げ出してしまった。
あの、真っ直ぐな瞳が、いつまでもいつまでも忘れられない。
ディアヴルアルサーとの戦いの最中、たくさんの瞳が向けられた瞬間に、嫌悪感と拒否感を感じたのは、彼等に対して、ではない。
自分自身に、感じていたのだ。
あの瞬間の、幼く、拙く、何も出来ずに逃げ出してしまった、自分自身に。
きっと、異常な程に皆が傷付いて欲しくないのは、あの時のせいだ、と、思った。
あんな風に、真っ直ぐに向けられる視線が怖くて、そうさせてしまったのが自分なのだと、思い知らされたくはなくて。
ミーティアは優しさだと言ってくれたけれど、それは絶対に違う、と桃花は思う。
自分が傷つきたくないから。ただそれだけ。
何て浅はかで安っぽくて薄っぺらい、気持ちなのだろう。
水の中にいるような、曖昧でぼんやりとした毎日を、疎ましく思っていたのは、それまでの事を忘れたくても忘れられなかった、から。
それでも、何処までも逃げたくて仕方がなかったのは、あの日の事を全て消し去ってしまいたかった、から。
全部受け止めて前に進める程、軽薄ではないし、寛容でもないから、いつまでも前に進めなかった、のだろう。
あの時からずっと、動けずにいる。
他人からしてみれば、ただそれだけの事と、笑い飛ばされるに違いない。
それでも、自分にとっては、大切なものを失った、と確かに感じた瞬間だったのだ。
ただ一緒にいるのが楽しくて、好きなものを共有出来るのが嬉しくて。
それだけで、良かったのに。




