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クトリアとホエイル2

 その日の朝、目が覚めたら夢だった。

 という事も特になく、見慣れない木目の天井を眺め、嗅ぎ慣れない香りに包まれて、此処は一体何処なのだろう、などと呟きながら桃花が柔らかなベットの心地良さから抜け出せずに記憶を漁れば、未だ不可思議な状況に陥ったままだった。

 きっと寝たらいつも通りのうんざりする現実が待っているのだろう、と考えていなくもなかったけれど、と桃花は少しばかり拍子抜けしてしまう。

 コンサートの後、帰りたくない、と思っていた気持ちがそうさせるのだろうか。

 重くぼんやりとした頭を軽く振りながら開けたカーテンは、深い海のような色合いで、白い糸で小鳥や草花を描いた細かな刺繍が施されている。

 窓の外には見慣れない街が遠く先まで続いていて、大きく息を吸い込むと、肺にすうっと冷たい空気が充満していた。

 ゲームの中の全てを知っている訳ではないけれど、桃花自身が憶えている限り、この世界では幾つかの街が存在しているが、主人公達が最初に訪れるこの街は、文明が比較的現代日本に近い。

 つまり、必要最低限のインフラストラクチャーが整備されているという事。

 事と次第によっては水道、電気類の恩恵に預かれないという、不自由な生活を強いられる事もあるのだ。

 だが、昨晩見たキッチンは、てっきり中世ヨーロッパのようなかまど等で調理してると思いきや、意外にも現代的なもので、そういえば、この世界では電気に相当するエネルギー源があるのだった、と、桃花は思い至る。

 クトリアの家がそうなのか、此処での生活がそうなのかはわからないが、電熱式のオーブンレンジに似たものを始め、冷蔵庫、洗濯機の類似品と思しき物がある上に、照明類も全てそのエネルギーの恩恵を得て動かしているらしい。

 水道も通っていて、冷たい水で食器を洗う事もなく、おまけにお風呂も完備されている、という高待遇だ。

 仕事の後には長風呂をしてゆっくりと疲れを取っていた桃花にとって、これは思わぬ僥倖である。

 クトリアとホエイルの二人は本当に優しく、緊張するばかりの桃花に、混み入った話はまた明日にしてゆっくり過ごすように言い、まるで自分の家族のように扱ってくれたのだ。

 あたたかなシチューを始めとしたしっかりとした食事を用意され、のんびりと湯船に浸かり、ぐっすりと眠るよう言ってくれたので、桃花も安心してぐっすりと眠れたものだ。

 寝起きでまだ熱が篭る目蓋をゆっくりと瞬かせて視線を階下に移すと、大きな籠を持って外に出る少女を見つけて、桃花は慌てて着替えを済ませて部屋を飛び出した。

 二階の階段から近い、普段客間にしているのだという部屋を一つ借りていたので、階下に降りて直ぐにリビングを通り、昨晩通った玄関とは反対側のドアを出ると、芝生を敷き詰めた庭がある。

 塀の側にぐるりと木で囲まれていて、真ん中には傘の骨組みに似た、不思議なオブジェのようなものが立っていて、ホエイルは其処へ向かってよろよろと頼りなく歩いている。


「ホエイル、手伝うよ!」


 小柄な身体に対して大きな籠を持つので、振り返った彼女の顔すら見えず、その籠を小さな手から奪い取ると、黄金色の瞳は人懐っこそうに瞬きを繰り返していた。

 今日は淡い水色のワンピースを着ていて、裾や襟には可愛らしいフリルが付いている為か、どうもその幼さに、庇護欲が湧いてしまう。


「トーカ? おはよう、よく眠れた?」

「おはよう。ありがとね、お陰でぐっすり眠れたよ」


 手伝うよ、と改めて籠を抱え直すと、幼い少女に持たせるには少々重い、と思える洗濯物の量だった。

 階段を降りた時に通ったリビングからは、焼きたてのパンの香りがしていたから、きっと朝食を作る合間に洗濯物を干そうとしていたのだろう。

 働き者なのは良い事だが、中学生くらいに見える少女なので、疲労から倒れてしまわないか心配になってしまう。


「ありがと! トーカは細かい事気が付いてくれるから、助かるよ!」


 そう言われて、長い接客業故に、客の言動を見て必要に応じた対応をするスキルが身に付いているのかもしれない、と桃花は考えた。

 おまけに、見て覚えろ何度も聞くな、が当然のブラック企業に勤めていた為か、口喧しい社員やパート達に文句を言われない程度には、周囲の空気を読んで動くようになってしまっている。

 例えば両手が塞がってしまいそうな人にはカゴやカートを手渡したり、荷物を持ってあげたり、辺りを見回している人に何か手伝う事がないかと声をかけたり……、簡単だけれど褒められる事が多かった事は率先してやっていたが、此処でそれが役に立つとは思わなかった、と桃花は思う。

 他にも必要な物があるから、と一旦家に戻ったホエイルに言われ、庭の真ん中に設置された不思議なオブジェの下に籠を置くと、跳ねるように戻ってきた彼女は、また小さな籠を持ってきている。

 大きな籠と同じように地面に置くと、彼女はその中から木製の洗濯バサミと木製のハンガーを取り出した。

 ただのオブジェだと思っていた傘の骨組みに似たポールには、蜘蛛の巣状にロープを張り巡らせてあり、其処に洗濯物をハンガーにかけたり洗濯バサミで挟み、干していくらしい。

 二、三度手本を見せて貰い、慣れてくると、桃花はホエイルの持っている洗濯物を、その小さな手のひらからそっと抜きとった。


「ホエイル、朝食の準備していたんでしょう? 私、洗濯物やっておくよ」

「良いの?」

「勿論。昨日のシチューも美味しかったし、楽しみにしてるね」

「有難う! とびきりの朝食作るからね!」


 とびきりの眩しい笑顔で家に入っていくホエイルを見送って、桃花は洗濯物の皺を伸ばしながら、洗濯バサミで挟んでいく。

 ホエイルは今までずっとこうして、一人で家事をしているのだろうか。

 仕事や生活費なども、一体どうしているのだろう。

 ゲームではモンスターを倒せばお金が手に入るし、生活も森の中で過ごしているので自給自足のようだったが、此処でもそうなのだろうか。

 慣れていないような生活ぶりではなさそうなので、長年の習慣づいた生活なのだろうが、初めはきっと大変だったに違いない、と桃花はしみじみと思った。

 一人暮らしを始めたばかりの頃は、部屋に開封されていない段ボールが幾つかあった。

 新生活に疲れていようと、実家から出た以上はすべての家事を桃花は一人でこなさなければならなかったし、きっと、無理をしてでも何かに集中していないと、沢山の不安が押し寄せてきそうで怖かったのだ。

 使い勝手の悪いキッチン、狭くて足を伸ばせないバスタブ、眺めは良いけれど日当たりは良くないベランダ……、洗濯物を干しながらぼんやりと現実を思い出していると、後ろから影が出来たので、慌てて顔を上げれば、少し首を傾けているクトリアが、洗濯物と桃花を交互に見比べている。


「トーカ、無理しなくて良い」


 おはよう、と声をかけると、彼は小さく笑って、同じように挨拶を返してくれた。

 今日は黒いシャツを着ているせいか、少し大人びて見えるクトリアは、アイトが言う通り、口数が少ないが優しくて穏やかな性格らしく、矢張り自分の父親のようだ、と桃花は思う。


「二人にはお世話になってるし、それに、何だか落ち着かないんです」


 でも、気遣ってくれてありがとうございます。

 そう告げると、再び頷き、洗濯物を手にしている。

 手伝ってくれる、という事なのだろう。

 静かなその優しさは独特だが、不思議と落ち着くもので、黙々と二人で洗濯を干していくと、あっという間に洗濯物を干し終えてしまった。

 屋内に入り、籠やハンガー等を片付けていると、丁度食事の料理も終わったらしく、リビングテーブルの上には美味しそうな料理が広がっている。


「美味しそう! 朝から幸せだなあ」

「トーカは人を褒めるのが上手だね! お兄は優しいけど口数が少ないから、そう言って貰えると嬉しいよ」


 冷めないうちに、と席に着き、食事に手を付けるが、毎朝ばたばたとしていて食事を疎かにしがちにいた桃花にとって、ホエイルの用意してくれた食事は理想そのものだ。

 ワンプレートにまとめられているけれど彩りも完璧で、フレンチトーストは珍しいピンク色をしているが、オレンジジュースに浸していたらしく、甘酸っぱくて美味しい。

 添えられたベーコンはかりかりに焼いてあり、メープルシロップがたっぷりとかけられているので、甘味と塩気の絶妙な味が堪らない。

 青々としたレタスや鮮やかな黄色のトマトのサラダも新鮮で、ドレッシングもサッパリとしたレモンを主体をしたものなので、野菜本来の甘味を引き立てている。

 休日の朝食にぴったりだが、実際の生活では疲弊しきっていてつい手を抜きがちになるものだ。

 前日に仕込みをしておけば少しはそれらしく出来るだろうか……、そう桃花が考えながらナイフとフォークでフレンチトーストを一口に切り、たっぷりとメープルシロップをつけて頬張ると、ホエイルがグラスに水を注いでくれる。

 水差しにはライムのような柑橘系の果実と何種類かのハーブが入っているが、口にしてみるとレモンとミントの香りがして、すっきりとした飲み口だ。

 よく見ればグラスは昨晩とは形が違うもので、ランチョンマットやカトラリーも色合いや素材が違うものだった。

 実家を出てみれば、その用意がどれだけ面倒かよく解るものだけれど、彼女が嫌な顔一つしないのは、恐らく、この家がそうした事を大事にしていて、生活を豊かにすると知っているのだろうし、習慣付いているのだろう。

 凄いなあ、と瑞々しいトマトを口に運び咀嚼していると、思い付いたようにクトリアがテーブルに小さな巾着袋を置いた。


「トーカ、これを渡しておく。必要なものに使うと良い」


 オレンジ色の生地に白の刺繍が入った可愛らしいそれを、彼は桃花の側に押し出すので、不思議に思いながらも手にしていたフォークとナイフを置いて、それを持ち上げてみる。

 ずっしりとした重みと、ちゃり、と鳴る音に、桃花はそれが一体何か理解出来てしまい、思わず視線をクトリアに向けたが、彼は小さく頷くだけで食事を再開してしまう。

 これは、間違いなくお金だ。

 それも、重さからしてそれなりの金額の。

 絶句して巾着を手にしたまま硬直してしまった桃花に、ホエイルは慌ててフォローに入ってくれる。


「あー、ほら、服はうちの家にあるものじゃトーカに合うものはないし、下着とかこのままじゃ困るでしょ? 買いに行くにもお金が無いって聞いたし、取り敢えず必要最低限のものだけでも揃えないと」


 そう言われて、桃花は思わず項垂れた。

 確かに、服も下着の昨日のままだ。

 風呂に入れたとはいえ、流石にいつまでも同じ服を着続ける事は出来ず、かといって二人から借りるわけにもいかない。

 ホエイルの言う事は確かだが、そこまで迷惑かけるのも忍びなく、どうしたものかと考えあぐねていると、グラスの水を飲んでいたクトリアが少し眼を細めて口を開いた。


「大した金額じゃない。気になるのなら、ここの家事や用事を幾つか頼もう」


 静かにそう告げる彼は、怒っているわけでも哀れんでいるわけでもなく、淡々としている。

 これが夢だとしても、あまりの事に罪悪感が酷い、と桃花は思うが、一文無しであるのは確かな事であり、好意は素直に受け取るべきなのだろう。

 そう無理矢理自身を納得させて巾着を握り締めると、桃花は二人にしっかりと頭を下げた。


「気遣って頂いて、本当に有難うございます」


 世話になる分、少しでも彼等が楽になるよう、手伝いを出来るだけ頑張ろうと堅く決めて、再び食事を再開すると、二人も少し安心したように笑っていた。

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