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いつものように

 少し肌寒い朝は空気が透き通っているけれど、鼻の奥が冷えてつんとする。

 眠気で重い目蓋を擦ってしまうような、そんな日には丁度良い気温なのかもしれない、と考えて、桃花は最後の洗濯物を干し終えた。

 籠を元の場所へと戻し、部屋に戻って紺色のカーディガンを羽織ってからリビングに戻ると、洗い物をしていたホエイルが小さく溜息を零している。

 いつもより部屋の中が広い気がするのは、クトリアがいないからだ。

 聖域の森で出現しているモンスターの数が増えてきたそうで、彼は暫く離れる事が出来なくなってしまったらしい。

 少しずつ変化はあるのだろう、と覚悟はしていたけれど、いざこうして変化が起きてしまうと、不安感でいっぱいになってしまい、桃花は困ったように笑ってホエイルの側へと近づいた。

 せめてホエイルがこの家にいてくれる事だけが、今は救いだ。

 キッチンの調理台の上には、朝食にしては沢山の材料が並べられていて、どうしたの、と聞けば、クトリアに差し入れるもので悩んでいるらしい。

 

「サンドイッチにしようと思ってるんだけど、中身どうしようか迷ってるんだ。トーカはどれがいいと思う?」

 問い掛けに、桃花は暫し材料を眺めて考えると、口を開いた。


「イエローサーモンに味付けして揚げたのを、パンに挟んだらどうかな?」

「それ美味しそう!」


 嬉しそうに笑うホエイルは、早速調味料を取り出して作業を開始している。

 卵黄や酢を油と混ぜてソースを作る彼女の隣で、桃花は丁寧に洗った野菜の水気を切ったり、汚れた器具や使う食器を洗った。

 ホエイルは話しながら作業をするのが好きなようで、いつも二人で食事の準備をして様々な話をしているが、二人の好きな食べ物や普段何をしているのか、聖域の森の事や其処での暮らしの事……、此処へ来てから大分経っているのに、話の種は尽きる事はない。


「トーカは今日どうするの?」


 下味と衣をつけた魚をゆっくりと油に落としながら、ホエイルはそう聞いた。

 手がかりも残りは後一つだけになり、今日一日はゆっくり休息をして、最後の手がかりを手に入れる為に万全の準備をしているつもりだと桃花は答えて、パンが潰れないように丁寧にスライスした。


「午後にはアイテムとか買い足しに行こうと思ってるから、何か欲しいものあったら言ってね」

「わかった! ありがとね!」


 桃花の言葉に、ホエイルは嬉しそうに笑って頷いている。

 スライスしたパンにバターやソースを塗り、野菜や卵を乗せたり揚げた魚を挟んで薄紙で包み、二つに切ると、断面は色鮮やかで美味しそうだ。

 包んだサンドイッチはホエイルが用意してくれたバスケットに詰め、それ以外は朝食として皿に並べようと桃花が棚から食器を取り出すと、日当たりの良い庭先が目に入った。

 ホエイルが此処に居るという事は、まだ然程酷い状況ではないと言ってはいたけれど、それが実際どうなるのかは、桃花にはまだわからない事だった。

 ゲームでは主人公の視線で話は描かれる。

 だから、ホエイルやクトリアが細かくどういった動きをしていたのかは、経験するまではわからないのだ。

 ディアヴルアルサーを倒す方法は、攻略方法を書いたノートが見つかったのでひたすら何度も見て覚えて頭に叩き込めば良いけれど、最前線で戦う二人やヴァレン達の負担は、決して桃花が変われる事ではない。

 せめて負担を増やさないように、一つもミスをしないよう攻略法を見直しておこう、と頷いて皿の上にサンドイッチを並べていると、作業の手を止めているホエイルが、金色の瞳を大きく見開いたまま、動かない。


「ホエイル? どうかした?」


 心配になって近づくと、ゆっくりと瞼を閉じ、何かを確かめるように頷いたホエイルは小さく呟いた。


「……、行かなきゃ」


 そう微かな声で呟いて、ふらふらと何かに導かれているように歩いていくホエイルは、次第に速度を早めて駆け出して行ってしまう。


「ホエイル? 待って! ねえ、一体どうしたの?」


 慌てて追いかけながらホエイルを呼び止めるが、言葉が全く届かないようで、裏口から庭へと飛び出すと、庭の中央に白く光る四角い空間が現れているのが見えた。

 クトリアが聖域の森に行く時に見た、〝(ゲート)〟だ。

 そう思った瞬間、身体がびくりと震えた。

 以前、聖域の森に何かがあった時、二人にはそれがわかるのだと言っていた。

 そして、本当に何かがない限り、ホエイルまで森には行かないのだし、朝食だってのんびり食べていられる、と。

 白い空間へと迷う事なく飛び込んだ彼女を見て、桃花は泣き出しそうになりながら息を吸い込んで叫んだ。


「待って! ホエイル!」


 手を伸ばしても、其処は誰もいない庭が広がっているだけ。

 いつものように洗濯物が干してあるのに。

 いつものように朝食を作る香りがするのに。

 いつものように、一緒にいてくれた人達が、いない。

 視界が水分でいっぱいになって、冷たい空気を取り込んだ肺が震えている。

 こんなのって、ない。

 崩れ落ちるように地面に蹲りながら、桃花は絞り出すような声でそう呟いた。



 ***



 このまま何もかもおかしくなってしまうんじゃないか。

 そんな事を思いついた瞬間には、家を飛び出していた。

 いつもより冷たい空気も、いつもより薄暗い空模様も、全部、今までの世界とは違って見える。

 それは、先程目の前で見た事を信じたくないからなのか、それとも現状を理解したくない自分の我儘なのか、もう一切合切何もかもがわからなくなって、桃花はひたすら腕を振り、前へ前へと進んだ。

 焦りや不安から上手く息が吸い込めず、肺がひしゃげてしまいそうだ。

 今にも外れてしまいそうな古ぼけた看板をくっつけたビルの群れを抜け、飛び出した街の中は何故かいつもより騒がしく、視線を彷徨わせた桃花は、息を切らせて大通りを走り抜けていく。

 建物を這うように取り付けられた配管からは煙が吹き出し、そうした僅かな変化にも、今はただ、怯えてしまう。

 ホエイルがいなくなってしまった、という事は、世界に何らかの変化があった、という事でもある。

 訳もわからず飛び出してきたものの、混乱した頭ではどうして良いのかわからず、桃花はひたすらに街中を走り回っている始末だ。

 見慣れてきたこの街も、ぼろぼろに崩れていってしまうのだろうか。

 そう考えて道を曲がると、奥から数人の男女が転がるような勢いで走ってくる。

 小さな店が並ぶ通りなので、普段ならばそれなりに栄えている筈だが、道の先には彼等のように逃げ出している人々が大勢いて、桃花は思わずその場に立ち尽くしてしまった。

 遠くから爆発音や悲鳴が聞こえ、足元から振動が響く。

 一体、何が起こっているのだろう。

 ゲームの中では世界中に混乱が起きてはいたけれど、街中には此処までの変化はなかった筈だ。

 まるで映画でも見ているかのようで、現実感がまるで感じられない。

 なのに、身体だけがその空気を感じ取って、震えが止まらなくなっている。

 荒い呼吸を繰り返して逃げてくる人達を呆然と見送っていると、突然誰かの身体がぶつかってきた。

 肩を押されて桃花はぐらりと体制を崩し、近くの壁に身体をぶつけてしまう。

 だけど、痛みなどちっとも感じない。

 こんなに苦しいのに、と胸底から込み上げてくる何かを堪えるようにその場で蹲ると、頭の上から声が降っていて。


「トーカお姉ちゃん?」

「おい、どうした? 平気か?」


 聞き覚えのある声に投下が呆然と顔を上げると、水分で歪んだ視界に見慣れた顔が映る。


「ピティ、リジェット……」

「どうしたんだよ、こんなとこで」

「トーカお姉ちゃん、大丈夫? どこか痛いの?」


 二人も現状を把握出来ていないらしく、困惑した顔で見下ろしてくるので、桃花は震える喉で空気を吸い込んで、その冷たさに、我慢していた何かが吹き出してしまいそうだった。


「ど、うしよう……」


 一度でも口に出してしまうと、先程の光景が、今までの不安が、頭の中を駆け巡ってしまい、次から次へと想いが口から吐き出されてしまう。


「ホ、ホエイルが、急に居なくなって、白い、四角い光の中に……、どうしよう、ねえ、大丈夫だよね? 二人は、強いから、きっと……!」


 支離滅裂な言葉に、二人は顔を見合わせてその表情を曇らせた。

 焦るばかりで声すらまともに出せそうになく、整理する前にどんどん言葉が飛び出してきていて、慌てたリジェットが、震える桃花の肩に手を置いて宥めるように撫でている。


「ちょっと待て。落ち着けって。俺達が全員かかって行ったって、あの二人には敵わないんだから、ちょっとやそっとじゃ負けねえよ。だから落ち着け」


 彼はそう言うけれど、逸る気持ちを抑えきれずに、桃花は更に言葉を続けてしまう。


「でも、だって、二人に何かあったら!」

「トーカお姉ちゃん!」


 叫んだ声に驚いて一瞬動きを止めると、頭をぎゅうとピティに抱き締められた。

 子供特有の高い体温が、走っていたのにすっかり冷たくなってしまった身体にゆっくりと伝わってくる。

 よく見ると、その小さな身体は微かに震えていて、こんなにも小さい子を不安にさせてしまった事への後悔で、桃花は彼女の身体をしっかりと抱き締めた。


「ピティ……、ごめん、ごめんね」


 柔らかい金色の巻毛に頰を押し付けると、甘いミルクみたいな優しい香りがする。

 すんと鼻を鳴らして顔を上げれば、顔を顰めたリジェットが頭の後ろを掻き、小さく息を吐き出してしゃがみ込んでいた。


「ホエイルが四角い光の中に入ったんなら、それは〝(ゲート)〟だ。〝舞台(ステージ)〟の為に利用する緊急用の移動装置みたいなもんだから、心配しなくていい」

「でも、聖域に何かあったんじゃないの?」

「モンスターが百匹いたってあの二人ならあっという間に倒しちまうんだよ。初動がちゃんとしとかねえと聖域の森からモンスターが外に出るから、急いで行かなきゃいけないだけだ」


 彼にしては静かに落ち着かせるように、慎重な言葉の選びでゆっくりと話しているので、気を遣わせてしまっているのだろう。

 ごめん、と謝れば、仕方ない事だろ、と返されたので、桃花は漸く、小さく笑みを浮かべて頷く事が出来ていた。

 冷たくなっていた指先もほんのりとあたたかさを取り戻している。

 高い体温を保っているピティのお陰だろう。


「ごめん、ピティ。ありがとう。落ち着いた」


 身体を離してそう言うと、ピティはいつものように柔らかく笑っている。

 どうしていつもこうなんだろう。

 桃花は考えて、地面を見つめて考える。

 いつも予定外の事が起きてしまうと混乱して、上手く動けなくなってしまうのだ。

 穏やかにぼんやり過ごしている事に辟易しいていた癖に、と自虐気味に笑いながら立ち上がると、頭が少しだけぐらりとする。

 しっかりしないと、と大きく息を吐き出して、足についていた汚れを叩いて、桃花は二人を見つめた。

 まずは現状を把握しなければいけない。

 何かが起きているのはわかるけれど、何が起きているのかはわかっていないのだから。


「今どうなってるか、二人は知ってる?」


 問い掛けると、二人は首を振って困った表情を浮かべている。


「ぼく達も、まだよくわかんなくて……」

「とりあえず、ヴァレン達と合流しようと思ったんだけどさ」


 とにかく街中が混乱していて、なかなかパーティメンバーに会う事が出来ないらしい。

 未だに地面からの振動や騒がしい音は途切れ途切れではあるが聞こえているので、騒ぎが沈静化したわけでもなさそうだ。

 桃花は周囲を見回して、先に見える一際高いビルを見つめた。

 現状ではトリエンシア社の本社が一番守りが堅い場所であり、それが健在であるのなら、最悪の事態ではないのだろう。


「これだけの騒ぎだから、トリエンシア社は気付いてると思う。一番目立つビルだし、アイトも其処にいるかもしれないから、先にそっちに行ってみよう」


 駄目なら騒ぎが酷い場所に行くしかないだろうし、と桃花が言えば、二人はしっかりと頷いている。


「クトリア達の事は、まあ、聖域に何かあったならシージェスかミーティアも動いてるだろうし、アイトが何か知ってるかもな」

「アイトお姉ちゃんに会ったら、二人の事も聞いてみよう?」


 慰めるようにそう言ってくれる二人に、桃花は困ったように笑って頷いた。


「うん、ありがとう」


 空気を吸い込むと鼻先が冷たくて、顔が歪んでしまうけれど、もう身体の震えは感じない。

 見上げたビルを見つめて、顔を見合わすと、三人は足を踏み出していた。

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