ダグキス渓谷3
なだらかな水の音と、濡れた土の香りが、する。
冷え切っていた筈の身体がほんのりとあたたかく、心地良い温度だ、と桃花は思う。
ゆっくりと目蓋を開いて瞬きを繰り返すと、白んだ視界に映ったのは、赤い土を削り取ったような岩場と、淀みなく流れていく澄んだ川。
周囲には背の低い植物がまばらに生えていて、川の飛沫でしっとりと濡れている。
酷く頭がぼんやりとしていて、此処が何処なのかも分からなくて、桃花がずるずると肩に頭を乗せるよう首を捻ると、肩にさらりと何かが落ちた。
金色の緩やかで柔らかな、髪。
ぼんやりと隣に視線を向ければ、綺麗なアイスブルーの瞳と目が合って、桃花は思わず呼吸を止めてしまった。
「目が覚めたなら、さっさと退け」
「ご、ごめんなさい!」
何だかとても爽やかな石鹸みたいな香りがしたし、見た目は繊細そうな男の子なのにちゃんとしっかりしていたし、と慌てふためいて飛び退いた。
その瞬間、急激に身体中が悲鳴を上げるように痛みが走る。
桃花が情けない呻き声を上げて蹲ると、大きな溜息が頭上から零れ落ちていた。
恐る恐る視線を上げれば、ジージェスが呆れた顔で二度目の溜息を吐き出している。
「まだ動くな。怪我を治した直後だ。痛みが酷くなる」
そう言って、彼は丸い小さな瓶を放り投げてくる。
琥珀色の液体が満たされた瓶は、ハニードロップの蜜だ。
ゲーム内では体力を回復させるアイテムなのだが、この身体が軋むような痛みにも効果はあるのだろうか……、そう半信半疑でいると、いらないなら返せと怒られたので、桃花は慌てて首を振り、瓶を握り締めた。
痛みが引くのかはともかく、体力が回復するだけでも今は必要だろう、と蓋を開けば、甘ったるい香りが鼻先を擽っている。
意を決して一口飲み込めば、舌が痺れる程に甘い。
蜂蜜をそのまま舐めているみたいだ、と思ってちびちび舐めていると、ヴァレン達がいない事に気がついて、桃花は慌ててシージェスに向き直った。
「あの、ヴァレン達は?」
「上にいるだろう。大したモンスターはいなかったし、その程度でやられるような奴らじゃない」
彼は静かにそう言って、湿った髪を鬱陶しそうに払っている。
見た限りで大きな怪我はしていないようだけれど、その横顔はうっすらと疲れているように見えた。
自らの身体を見回してみても全体的に身体が砂まみれで、髪までごわごわしているし、身体の中でも手や背中の痛みが一際強く、ひりひりとしていている。
此処が谷底だというのは確かなようなので、自分が上の方から落ちてきた事は理解出来るが、彼が助けようとして一緒に落ちてきたのだろうか。
身体の痛みから考えてそれも違うように思えるけれど、もしもあのまま落下して此処へ叩き付けられたとしたなら、落ちた直後にどうなっていたのかは、正直な所、あまり聞きたくはない、と桃花は思う。
幸い、服や手足が血まみれになっていたりしないので、重体ではなかったと思いたいけれども。
「シジェ様が助けてくれた……、んですよね?」
「この状況でそれ以外あるのか?」
「ありません……」
どうやって助けてくれたのかは、彼の性格上、きっと答えてくれないに違いない。
幸いにも彼にも自分にも大きな怪我はなさそうなので、無理に助けたような状況ではないのかもしれないが、随分なタイムロスをしてしまったのは間違い無いだろう、と桃花は考えて、瓶の残りを飲み干した。
「ごめんなさい、足を引っ張ってしまって」
喉が焼けるような感覚に、手のひらから伝わった体温で生温くなった瓶を握り締める。
何も出来ない癖に、足を引っ張るなんて事は一丁前に出来るなんて、と、思えば鼻の奥がつんとする。
彼は緩やかに瞬きを繰り返すと、大きく息を吐き出していて。
「いつまでも過ぎた事を気にしていても無駄なだけだ」
確かにそれはそうだ、と桃花は唇を噛み締めてそう思う。
そんな事をする暇があれば、現状を立て直して良くなるように動いた方が、自分にとっても周囲にとっても良いに決まっている。
わかってはいても、胸の底に石を投げ込まれたみたいに、気持ちは沈んで重くなる。
「それに、お前の事を完全に信じたわけでもない」
棘のある言葉を吐き出して、彼はじっと見つめていた。
その言葉に少なからず傷ついてはいるのだけれど、正直にそう言ってくれる方が、今は安心する。
ふ、と息を吐いて笑うと、桃花は小さく頷いた。
いつも逃げ出したくなる自分には、きちんと突きつけてくれないと、いつだって逃げ場所を探してしまいそうになる。
だから、はっきりと言ってくれた方が安心するのだ。
「シジェ様みたいに警戒するのが普通だよ」
だって、私が皆の立場だったら、心の底では信用しきれないと思うし。
呟くようにそう言って、桃花は膝を抱えてぎゅうと縮こまった。
心臓の音が内耳から響いている。
ざあざあと血液が流れる音は、川が流れていく音によく似ている。
「だから、どうして皆が私を信じてくれるのか、よくわからない」
何か特別な力があるわけでもない。
何もかも上手くやれるわけじゃない。
何者かになれるわけでもない。
逃げる所まで逃げてしまいたくて、やっと安心して過ごせそうだったその場所が壊れてしまわないように、身体を震わせながら何とかしているだけ。
なんて滑稽なのだろう、と、思う。
そんな自分を信じてくれる人たちからも逃げ出してしまいたい自分は、自分でさえ、嫌になる。
彼に答えを期待していたわけではないけれど、結局の所、気持ちを吐露してしまった事に謝罪をしようと桃花が顔を向けると、彼は視線を外して瞬きを繰り返し、口を開いた。
「お前は僕やヴァレン達を信じているのか?」
「うん」
「その理由は?」
「え?」
問い掛けに、桃花は思わず間の抜けた声を上げた。
彼はその様子を見て、更に問い掛けてくる。
「お前の言い分なら、何かしらの理由があるから信じられるのだろう? それなら、その理由を言ってみろ」
突然そう言われて、桃花は視線を彷徨わせる。
まさか自分に返されるとは思ってもみなかったので、思考がまとまらない。
けれど、彼は答えをはぐらかせてはくれないだろう、じっと見つめて、その答えを待っている。
「ええと……、優しくしてくれるし、親切にしてくれるし、前から知っているから?」
ゲームで、だけど。
心の中でそう付け足して答えながら、なんて陳腐な答えなんだろう、と桃花は頭を抱えたくなる。
もっと何かあるはずなのに、言葉にすると単純で単調なものばかりで、思わず唇を噛み締めてしまう。
けれど彼はその言葉を馬鹿にはしなかった。
静かに頷いて、受け止めるべき事は受け止めてから、しっかりと自分の考えを口にしている。
「けれど所詮他人だ。互いに話し合える関係でもない。〝ステージ〟で見知っただけの一方的な存在だろう」
その言葉に、確かに理由としては大分薄い、と桃花も頷いた。
仕事やプライベートでは信頼関係が築けるまでは、それなりに時間がかかる。
此処が夢のような世界だから、といっても、ハードルが低いだけで現実と変わりない筈なのに。
「そう言われると……、よく、わからない、けど」
口籠もりながらそう言うと、途端に子供じみた言い方になった気がして、慌てて桃花は顔を背けた。
優しくしてくれたから? 生活に不便がないようにしてくれているから? 仲間や家族のように扱ってくれていたから?
どれもしっくりこなくて、言葉にしきれないもどかしさが、どうにも歯痒い。
そんなの理屈じゃない、とは言い切れないのは、厳しい現実を知った大人になってしまったから、なのだろうか。
「ならそういう事だ。特に理由もなく、勝手に見て、勝手に知って、その結果、信じれられた。それだけの事だろう」
どちらから見ても同じ事だ、と言われて、桃花は顔を上げた。
もしかして、励ましてくれてくれている、のだろうか。
だとしたならあまりにも不器用すぎるけれど、と思いながらその整った横顔を見つめると、軽く息を吐いて立ち上がった彼は背を向けて歩き出してしまう。
「そろそろ痛みも無くなっただろう。行くぞ」
こういう時に絶対に手を差し出してくれない辺りが、彼らしいなあ、と思い、桃花は慌ててその背中を追いかけた。




