ダグキス渓谷2
吸っても吸っても、一向に空気が上手く入ってこない。
膝に手をつき、肩で息をしながら、桃花は霞んできた視界を遮るように頭を振った。
ダグキス渓谷は標高が高く、下から上に登っていくので、先に進めば進む程空気が薄くなる。
山登りは子供の頃の遠足や林間学校程度でしか経験がない上に、標高が高い山など足を踏み入れた事すらない桃花にとって、此順応する余裕もなく上に上がらなければならない今の状況下では当然の結果なのだろう。
戦闘をしている三人の方が余程大変なのだから、と自分自身を叱咤してみても、全力疾走をしたかのような息苦しさはどうする事も出来そうにない。
足の痛みならばまだ我慢が出来るけれど、吸い込んでも息が苦しい今の状態は、パニックを引き起こして過呼吸にならないようにするのが精一杯だ。
シーグリーンレモンの雫でも飲んでおいた方が良いのかもしれないが、頭で幾ら解決策を考えていても、身体が全くいう事を聞いてくれない。
浅い呼吸を繰り返しながら顔を上げれば、頭が軋むように痛い。
桃花が息を吐き出してどうにか歩き出そうとすると、いつの間にか側に来てくれていたらしい、リジェットが顔を覗き込んでいる。
「おい、平気か?」
「……、大、丈夫」
もう何が大丈夫なのかもよくわからない状況ではあるけれど、と密やかに思いながら桃花は膝についていた手を離し、へらりと笑顔を浮かべて誤魔化した。
顔が引き攣って上手く笑えている気がしないので、きっと無様に口角を上げているだけに見えるだろう。
大きく息を吸い込んでも空気が入ってこないせいで、余計に呼吸が早くなってしまう。
まずは呼吸を整えなければ、と大きく息を吸うと、リジェットはあまり深く吸い込まない方が良い、と丁寧に教えてくれる。
「短く吸い込んで、ゆっくり時間をかけて吐き出せ。その方が呼吸が楽になる」
水分も摂取するよう言われるが、今は到底何かを飲み込めそうにない。
教えて貰った通りに呼吸を繰り返しながら視線を動かし、他の二人を探せば、シージェスが周囲の様子を見ながら溜息を吐き出している。
「そろそろ限界だろう。一度休ませたらどうだ」
「わあってるよ」
「足、引っ張って、ごめん」
皆が怒っているのか、呆れているのか、今の現状ではよくわからない。
わかりたくない、だけなのかもしれないが。
痛くて、苦しくて、悔しくて、目の前が水分で歪む。
爪で指を抉りながら、どうにかその痛みで他の痛みやぼんやりした頭の働きを誤魔化してみるが、正直、あまり効いている気がしない。
どうして此処までしなければならないんだろう、と考えたくもない事まで考えてしまう。
どうして? 一体、何の為に?
此処で何かを為したとしてもそれは自分の望んでいた結果なのかわからなくって、でも此処で全て投げ出す事は大好きなこの世界さえ否定する事になるわけで、だからって自分が本当にちゃんと必要とされているかなんて言葉に行動にして貰えなきゃ気付く事すら出来ないわけで……、最早思考が支離滅裂になりつつある自分自身に嫌悪感さえ溢れ出してきた事で、桃花の顔は酷く歪んでしまっていたらしい、リジェットが気遣わしげに背中を叩いてくれている。
「此処は俺達でも流石に辛えから。あんまり気にすんなよ」
優しい言葉が、桃花の背中に静かに落ちる。
けれど、今はそれすらも悔しさに拍車をかけるだけだ。
桃花は目の前の揺らいだ水分が落ちないよう、どうにか考える事を止め、呼吸をする事だけに集中していると、先を確認していたらしいヴァレンが片手を振って駆け寄ってくる。
「少し先に休めそうな場所があったぞ」
「わかった」
歩けるか、と、問いかけられて、桃花は力なく頷いた。
歩けるかどうか、考えるまでもなく、足を進めるしかないのだから。
ふらふらと歩みを進めていると、周囲の様子を見ていたらしいシージェスが、空を見上げて眼を眇めている。
「待て、敵が来る」
「トーカ、端に寄っていてくれ」
「うん、わかった」
小さく頷いた桃花は、重い身体を引き摺って彼らの邪魔にならないよう道の端に寄ると、顔を上げた。
黄色の羽を羽ばたかせた鳥型のモンスターと、大きなトカゲのような体のモンスターが四、五匹、上の方から集まってきている。
ダグキス渓谷のモンスターは今まで行った場所より手強いものが多いが、攻撃が単調なので、細かい指示が無くとも体力に注意をしていれば問題なく戦えるだろう。
呼吸が浅くならないように注意をしながら、桃花は少しずつ後退りして彼らから離れた。
吹き付ける風が火照った頰を容赦なく冷やし、腕で顔を庇いながら彼らの動きを視界に入れるが、顔を上げた拍子に深く息を吸い込んでしまい、思わず咳が込み上げてくる。
ただでさえ苦しいのに、と涙を滲ませながら前のめりになって咳き込むと、膝ががくりと崩れた。
途端に重心が傾き、景色がスライドするように流れていく。
「ばか、下がりすぎ!」
リジェットの叫ぶ声がして桃花が顔を上げると、視界いっぱいに白んだ空が広がっていた。
妙な浮遊感を感じた直後、強かに身体を地面に打ち付けて、思わず呻き声が漏れてくる。
細かな砂や石が当たって、痛い。
霞んだ視界に誰かの長い指先が伸びていたのを確認して、どうにか手を伸ばそうとした瞬間、重心が崩れて再びぐるりと視界が反転する。
これは、やばい。
そう思っても、身体は言う事を聞いてくれなくて、後ろへ後ろへと転がって、がくりと振動が起きた時には、一気に身体が谷底に落下していく。
「トーカ!」
誰かの叫び声が聞こえたけれど、呆気なく風の音に掻き消されてしまった。
ぎゃあ、だとか、うわあ、だとか、みっともない声が口から零れて空気にかき消されていく。
こういう時、きゃあ、と可愛らしい悲鳴を上げられない辺りが、正に現実の人間なのだな、と、桃花は落下しながら酷くぼんやりした頭でしみじみと思っていた。




