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休息


 眼を覚ますと、自分が何処にいるのかわからなくなる、時がある。

 此処最近は特に酷く、ぼんやりと天井を眺めて息を吸い込み、肌に触れるシーツの感触や鼻先を擽る洗剤の香りにゆっくりと覚醒を促されて、それで漸く、全てを認識するのだ。

 仕事で疲れている時もよくこうしてわからなくなっていたっけ、と桃花は深呼吸をしてから身体を起こすけれど、重力が倍になってしまったのではないか、と思う程に重く感じる。

 身体中が、とてつもなく、痛い。

 筋肉が痛い、と言うより、高熱を出した時のように、骨が軋んで全身の神経が引き攣れるようにように痛いのだ。

 小さく唸り声を上げ、自分を抱き締めるように両腕で押さえながら蹲ると、額をベッドに押し付けて、桃花は深く長く息を吐き出した。

 パドリエスパ遺跡で手がかりを手に入れてから、流石にずっと休まずに動き回るのは辛いだろう、という事で、今日は一日ゆっくりと休む事になっている。

 恐らくこの痛みも疲労が蓄積しての痛みに違いない。

 休むという提案を飲んでいて本当に良かった、と思いながら結局、桃花は立ち上がる事が出来ずにベッドへ身体を押し付けた。

 自宅で使っていた寝具は花の香りがする柔軟剤を使っていたので甘い香りがしていたけれど、此処ではハーブのようなすっきりした爽やかな香りだ。

 全く違う香りなので初めこそ落ち着かなかったが、今ではすっかり安心してしまうのだから、我ながら現金な人間だな、と桃花は深く長く息を吐き出した。

 出来るならばこのままベッドに同化してしまいたい、ずっと惰眠を貪り、いっそ丸一日眠っていたい程だが、今は居候の身だ。

 現実ならば一日八時間どころか残業で夜遅く帰る事もしばしばあったのだから、ほぼ無職と言って差し支えない今の状況で、少し身体が痛いくらいで弱音を吐いている場合ではない。

 クトリアとホエイルは、手がかりを探している間の家事や手伝いは、気にしなくても良い、と言ってくれている。

 そればかりか、桃花が帰って来て顔を見るまでは、絶対に先に休んでいないのだ。

 今はまだ夜遅くになるまで動き回っていないだけ、というのもあるが、いつだって絶対にリビングで二人揃って待っていてくれる。

 帰ってきた時、家に灯りがついていた時の安堵感は、本当に堪らない、と桃花は思う。

 帰って家に灯りが点いているだけでも有難いのに、あたたかな食事にお風呂、おまけにふかふかの布団まで用意してくれて、本当に二人には頭が上がらない。

 クリスマス前の最盛期とインフルエンザでスタッフ達が倒れて深刻な人員不足の中、過酷な十二日連続勤務と言いがかりに近いクレームで精神的にも肉体的にも追い詰められていた時、真っ暗で汚れたままの家に帰宅した時には、とてつもない絶望感に襲われたものだった。

 今のように二人がいてこの家に帰れていたなら、きっとそんな時も頑張れたに違いない。

 流石に昨晩はもう早めに寝ておけばよかったのかもしれない、と考えながら、シーツに押し当てていた頰を離し、桃花はゆっくりとベッドから起き上がった。

 眠る前に手に入れた手がかりの本を解読し、内容をまとめていたせいか、疲れが溜まっているのだろう。立ち上がっていても眠気は大きな波のように押し寄せてくる。

 眠気と痛みに歯を食い縛りながら寝巻きを脱ぎ、のろのろと白いシャツワンピースに着替えて紺色のカーディガンを羽織り、ぼさぼさの髪をぞんざいに梳かして見下ろした自分の姿は、何だかとてもくたびれて見える。

 しっかりしろ、と言い聞かせて溜息を吐き出し扉を開けると、廊下を歩いていたクトリアとぶつかりそうになって、桃花は慌てて後ろに避けた。

 彼はベージュのテーパードパンツと白いシャツを着ていて、爽やかな雰囲気だ。

 ごめんなさい、と桃花謝れば、彼は首を少し傾けて、じっと顔を見つめている。


「あ、あの、クトリア?」


 怒っているのだろうか、とも思うけれど、少しぶつかりそうだったくらいで彼は怒ったりはしないし、もしかして、あまりにもくたびれた様子に引いているのだろうか。桃花がおろたえながら声を掛けると、クトリアは小さく頷いて、口を開いた。


「トーカ、少し部屋にいてくれるか」

「は、はい……?」


 不思議に思いながらも曖昧に頷くと、彼は直ぐに階下に降りてしまう。

 取り残された桃花は、ただただ困惑したまま、言われた通りに部屋に入った。

 居候の身でありながら二人に甘えるだけ甘えてしまったのが良くなかったのだろうか。確かに此処最近は手がかりを手に入れる事に集中していて家事の手伝いも疎かになっていたし、と悪い考えばかりが次々と飛び出しては、頭の中を巡っている。

 そうなるともう落ち着けず、部屋の中を右往左往し、身体の痛みに耐えかねてベッドに腰掛けたり、かと思ったら立ち上がって窓際まで歩いて外を眺めたり、再び痛みに襲われてしゃがみ込んだり、と、結局、クトリアが再び部屋を訪れるまで終始狼狽えていた有様である。

 五分程経ち、ノックの音を聞いて飛び上がった桃花が逸る鼓動を抑えてドアを開けると、目の前にぽってりした形のマグカップを差し出される。

 漂ってくる甘い香りに戸惑いながらクトリアを見上げると、小さく笑って頷いているので、先程まで慌てふためいていた自分が恥ずかしくなって、桃花はおずおずとマグカップを受け取った。

 あたたかさが冷たい指先からじんわりと伝わってくる。


「これを飲んで、落ち着いたら下に降りてくるといい」

「あ、ありがとうございます」


 お礼を言うとクトリアは直ぐに部屋を出て行ってしまったので、桃花は暫くマグカップを持ったまま立ち尽くしてしまった。

 カップの中に入ったものは、以前飲んだ事のあるハニードロップミルクだ。

 けれど、以前飲んだものよりミントと柑橘類を混ぜたような、爽やかな香りがする。

 静かに扉を閉め、ベッドに腰掛けて香りを嗅いでからゆっくりと口をつけて飲み込むと、それ程甘ったるくはなく、落ち着いた甘さとミルクティーのようなまろやかな味の後、すっきりとした爽やかさが口の中に広がっていて。


「……、美味しい」


 その軽い飲み口と優しい風味に、ごく自然に笑みが零れてくる。

 温度も程良くて、じんわりと身体の中からあたたかさが染み渡ってくるように感じられた。

 疲れている顔をしていたのを、見抜かれていたのかもしれない。

 感謝する事ばかりだとゆっくりと時間をかけて飲み干すと、立ち上がって息を吐き出した、桃花は違和感を感じて首を傾けた。


「ん?」


 身体中を見回し、カップを持っていない方の腕を上げ、その場で足踏みをしたりジャンプをしたりしてみるけれど、先程まであった、全身が軋むような酷い痛みがすっかり消えている。

 嘘、とカップの底を見つめて、桃花はぽつりと呟いた。


 ***


 すっかり痛みの引いた身体に戸惑いながらも軽やかに階下に降りると、キッチンからはパンの焼ける香ばしい匂いがする。

 カップを持ったままの自分が何だか恥ずかしくて、戸惑いながらリビングへと顔を出すと、洗い物をしているホエイルがぱっと顔を上げて笑顔を浮かべてくれた。

 黄色のワンピースとフリルのついたエプロンが、元気な彼女らしくて、桃花もつられて笑顔が零れた。


「トーカ! おはよう!」

「おはよう、ホエイル」


 遅くなってごめんね、と声を掛けると、ホエイルは困ったように笑って、今日はお休みなんだから良いんだよ、と返してくれる。

 早速手伝いをしようと辺りを見回すと、廊下からクトリアが顔を出していて。


「ホエイル」

「ハンガーなら勝手口の所に用意してあるよ」

「わかった」


 声をかけただけなのに何を言いたいのかわかってしまうのは、兄妹ならではなのだろうか。感心して見ていた桃花はけれど、クトリアの手にしている籠に気づくと、慌てて彼に駆け寄った。


「洗濯なら私がやりますよ」


 すみません、と頭を下げて籠へと手を伸ばすと、クトリアは少し首を傾けて、キッチンに目を向けていて。


「ホエイルを手伝ってくれるか」


 そう言って籠を持ったまま庭へと行ってしまうので、桃花は慌ててその背中に声をかけた。


「クトリア、ありがとう。さっきの飲み物もとても美味しかった」


 手を振ってお礼を言うと、クトリアは目元を和らげて笑って頷いている。

 先程の飲み物も、洗濯を代わってくれたのも、きっと疲れているのを理解してくれたのだろう。

 勝手口から出た彼を見送ってから、桃花はキッチンに戻って、鍋の様子を見ていたホエイルの側へと近寄った。

 鍋の中で煮込まれているのは、沢山の野菜や鶏肉やハーブの入った、黄色のスープだ。

 美味しそう、と思わず口から呟きが溢れると、ホエイルは嬉しそうに笑って、味見して、と小さなお皿にスープを入れて差し出してくれる。

 お皿に口をつけて飲み込むと、野菜の甘味と鶏肉の旨味が凝縮されていて、後に残る酸味がすっきりしていて丁度良い。

 酸味があるのはトマトが入っているからで、この世界のトマトが黄色なのだと言う事に、すっかり慣れてしまっている自分が、何だか可笑しい、と桃花は思う。

 美味しい、と素直に言葉が溢れると、ホエイルは嬉しそうに笑っている。


「さっき、お兄がハニードロップミルク持って行ったでしょ?」

「うん。でも前に飲んだものより飲みやすかったし、何だかとても身体が軽くなったっていうか……」


 全身が痛みで動くのが辛かった、と言うのも憚れて口ごもると、ホエイルは首を傾けて問いかけてくる。


「もしかして、身体痛くなくなった?」

「そう!」


 思わず前のめりになって答えると、子供じみた行動に途端に恥ずかしさが込み上げてきて、顔を背けてしまう。

 だって、本当に痛くなくなったんだもの。

 そう言い訳をしても更に子供のようで、桃花は深く息を吐き出して誤魔化しながら、シンクで小皿を丁寧に洗った。

 その様子を見たホエイルは、お兄のはね、ちょっと特別なんだよ、と懐かしそうに眼を細めて教えてくれる。


「病気になった時とか怪我した時にだけ、特別に作ってくれるの。痛みとかあっという間になくなっちゃうんだ」


 効能としては医薬品や栄養剤に近いが、気持ち的にはきっと、眠れない夜に飲むホットミルクのような、風邪をひいてしまった時に飲むレモネードのような、そういったものなのだろう。

 しっかりとしているホエイルでも、病気の時や心細い時にはきちんと甘えられていた事にほっとして、それから、気持ちを共有出来ているような気持ちにもなって、桃花はそっと微笑んだ。

 ホエイルを手伝い、作った朝食をテーブルに運び、グラスやカトラリーを用意していると、洗濯を終えたクトリアが戻ってくる。

 焼き上がったばかりのパンを食卓に運び、グラスに水を入れて席に着くと、三人は一緒に食事をとった。

 朝食はなるべく一緒にとっているけれど、クトリアは数日置きに聖域の森の様子を見ているらしく、時々家に居ない事もあるので、こうしてゆっくりと食事をとるのは何だか久しぶりのように感じられる。

 焼きたての丸いパンはバゲットのように外側がパリッとしていて中身が柔らかく、バターをつけて食べると、小麦の芳醇な香りとバターのまろやかさが口の中いっぱいに広がって、とても美味しい。

 あたたかいトマトのスープとスクランブルエッグにベーコン、それから瑞々しい野菜をたっぷり入れたサラダには、レモンの香りと酸味が丁度いいドレッシングがかかっていて、桃花は久しぶりにのんびりと美味しい食事をとれる事に感激した。

 ホエイルが近況を聞いてくるので、食事をしながら手がかり探しでの事を話していたが、聖域の森の異変が気になって桃花が問い掛けると、クトリアが食事の手を止めて答えてくれる。


「モンスターも少しずつ増えてはいるが、そこまで急激じゃない。思っていたより酷い状況ではないから、心配しなくてもいい」


 その言葉に、ホエイルも笑って同意している。


「本当にやばかったら二人共此処にはいられないもんね」

「そっか……」


 ゲームの中でも世界に急激な変化があるのは一週目のラスボスであるシージェスと戦う前と、二週目に戦える裏ボスのディアヴルアルサーと戦う直前くらいだ。

 まだ三分の一程度しか手がかりは集まっていないので、それまでは多少の猶予がある、という事なのかもしれない。

 手がかりを探すと同時に戦い方も頭に叩き込まなければならないので猶予があるに越した事はないが、いざ変化が起きた時に一番大変なのは此処にいる二人だ。

 優しく、家族のように扱ってくれる二人が危険な目に遭うのは、やっぱり辛い。


「二人になるべく負担かけないように頑張るね」


 飲んでいた水のグラスを両手で包んでそう言うと、ホエイルは眉を下げて首を振っている。


「ホエイル達が手伝える事あれば手伝うし、そんな気負わなくて良いよ!」


 そう言ってはくれるけれど、今でもこんなに良くしてくれている上に、これ以上迷惑はかけられない。


「でも、私が出来る事って、それくらいだから」


 そう言って唇を噛み締めると、手にしているグラスの中の水がゆらゆらと頼りなく揺れている。

 戦い自体はキャラクターである彼らに担っていて貰っているし、此処での生活は二人がいなければままならない。

 現実では決してあり得ないのだ、と思ってはいても、失いたくない、大切な場所なのだ。

 いつも後ろ向きでうじうじと考えては足が止まってしまってばかりで、せめて何かしなければ、と言いながら、結局は、何も考えたくなくて動いているだけなのかもしれない。

 クトリアはじっとその黄金色の瞳で静かに見つめていて、小さく頷くと、言う。


「此処はトーカの家だ。家ではゆっくり休むものだろう」

「そうだよ、トーカ。此処ではちゃんと頼って。一緒にいるのに、そういうのは何だか、寂しいよ……」


 ホエイルが悲しそうな顔をしてそういうので、桃花は慌てて頭を下げた。

 家族のような、特別に内側に入れて貰えたような感覚は、少し前から感じてはいたけれど、だけど、それは何だかくすぐったくて、とても嬉しい。

 誰かに受け入れてもらえて、それがとても居心地が良くて、二人が同じ気持ちでいてくれたなら、それ以上に嬉しい事はない。

 桃花は、ありがとう、と言って視線をテーブルに向け、グラスを置いた。


「あの、少し読めない文字があるの。教えて貰っても良いかな?」


 勿論、時間がある時で構わないから、とはにかんで笑いながら告げれば、二人は顔を見合わせて嬉しそうに笑ってくれていた。


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