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始まり2

「さて」


 この状況は一体何なのだろう。桃花は腕を組み、ぼんやりと考える。

 沢山の看板を壁の隅々にまで貼り付け、そこかしこから蒸気を吹き出すパイプを張り巡らせたような古びた建物は、まるで海外の雑居ビルにも似ているが、桃花は今現在、その入り口を入って直ぐのロビーの隣に併設する、薄暗く古ぼけたバーの、その更に隅にある埃っぽいソファーに腰掛けている。

 今現在、桃花は先程の場所から十分程歩き到着した、この雑居ビルにも似たレムルの宿屋と言われる場所で、先程の男性達が飲み物や医療品を確保するのを待っている合間に、状況を整理している所である。先程の少女は『グラーティア・ストーリア』のヒロイン、アイト・パーヴィーにとても良く似ていた。

 可愛らしい容姿に、今ではもう珍しくも何ともないが、当時には新鮮だったツンデレな性格で、男性プレイヤー達の心を鷲掴みにしたキャラクターである。

 そう、先程のコスプレイヤーと思しき青年と同じ、ゲームのキャラクターの。

 それにこの宿屋と呼ばれる場所も『グラーティア・ストーリア』で初めて出てくる安い宿屋兼バーであり、主人公のヴァレンとヒロインのアイトが出会い、追手を撒いた後に泊まり、その後行動を共にする、というイベントがある場所だ。

 そのソファーの柄さえ憶えていた自身の記憶には我ながら感心する、と桃花は現実逃避に考えるけれども、それはさておき。

 それ程にやり込んだ大好きなゲームの中そっくりの場所に居て、更にゲームキャラクターそっくりの少年少女や登場人物がいる、という非日常。

 冷静に、努めて冷静になろうと、桃花はすっかり冷たくなった指先を握り締めて考える。

 おまけに何より桃花が信じられないのは、この状況になってから、手にしていた荷物が一切合切手許に無かった事だ。

 携帯や財布、おまけに買い込んだグッズの一つさえ辺りを見回しても見つからず、先の男性二人にも探して貰ったがやっぱり見つからず、一先ず怪我の治療や宿屋で休む事を提案され、泣く泣く此処まで来たのである。

 財布と携帯は一番困る問題だが、財布には大金も入れてはいなかったし、携帯はロックをかけてある。

 それ以上は現段階ではどうしようもないのだから、善良な人に拾われ交番に届けられているのを祈る他はない。

 グッズは本当に、本当の本当に残念だけれども。

 それは、さておき。

 コンサートを終えて会場を出てから、海の側に行こうとした。

 そこまではおかしいと感じる事は起こらなかった。

 ならば、何処からがおかしいのか。

 海の側にある歩道へ降りようとした階段から落ちる前、その地震のようなぐらつき……、それもおかしいとは考えられるが、貧血で倒れかけたという可能性もあるので、一先ず置いておくとして。

 この手のひらの痛みが現実だとしたなら、階段から落ちた後から何かがおかしくなっているのだろう。

 痛みは自身に深刻な状況に陥っているという信号であり、信頼出来る情報でもある。

 以上の事を踏まえて、桃花は情報をまとめ上げにかかるが、そう簡単に出来たならば苦労はしない。

 現実逃避の妄想を拗らせ過ぎた産物、階段から落ちた衝撃で起きた頭部の損傷故のせん妄、はたまた天国地獄……、もしくは、異世界なんちゃらとかいうものが若い子の間で流行っているらしいが、三十路間近の女にそんな夢見るチートなファンタジーを期待する方がどうかしている。

 夢。

 引っかかった単語を口の中で転がして、桃花は足を組み替えて考える。


(階段から落ちて、打ち所が悪くて、そうして昏睡状態になって見てる夢、とか……?)


 それも現実味を感じないが、突然目の前に神様と名乗る不審者が現れたりだとか、一瞬にして異世界だと理解するなどという不可解な現象よりは、余程信憑性を感じられる。

 それに何より、好きなゲームの世界、という事が根拠を鉄壁なものにしていると思うのだ。

 夢を見ている時くらい好きなゲームの世界に浸っていたい! という自身の欲望の方が余程信じられるというものでもある。

 夢ならば自分の思い通りにならないのも可笑しいと思うが、元より夢見が悪く、刃物を持って追いかけてくる何者かに追いかけ回される夢を一週間続けて見る事もあり、現実も夢も思うようにいかないものなのだ、と諦めている程だ。

 仮に夢だとしたなら、この状況を打破しようとも、パニックを起こした所で現状が変わる訳でなし、それなら、環境にいち早く慣れ、馴染んでしまった方が良い。

 現段階でヴァレンに似た青年も、アイトに似た少女も、黒服の二人とて怪しい事極まりないけれど、頼る者がいないのもまた事実、なのだ。

 結局の所、夢だろうが異世界だろうが天国や地獄だろうが、打ち所が悪くてどうかしてようが何だろうが、好きなゲームの世界観に浸り切れるテーマパークに来た夢を見てると思えばいいか、と結論を、桃花は出してしまった。

 今更、現実なんてもうどうでもいい。

 このまま考え続けたとして、考える事に疲れて、何もかもが嫌になるだけだ。

 頭の片隅に、ほんの僅かばかり、いつも見ている景色を思い出すけれど、頭を振って掻き消した。

 悩む事なんて何もない。

 そう、悩む事なんて、何一つないのだから。

 桃花は息を大きく吸って吐き出すと、そうと決めたらこの状況にさっさと慣れてしまおう、と、思い切り腕を伸ばし、強張っていた身体をほぐした。


「大丈夫かい? 少し落ち付けてると良いんだけど」


 そう声をかけてきたのは、バーカウンターで受け取った紙袋と小さな桶のような物を持った先程の男性の一人で、サングラスを外している方だった。

 彼は名前をカマルと言うらしい。

 医薬品を調達して来てくれたらしく、紙袋から手際良く薬や清潔そうな布等を出して並べてから、桶に入った水を差し出して手を洗うよう言うので、桃花は快くそれを受け入れて、汚れて血が滲んでいた手を桶にそっと浸した。

 桶に入っていたのはぬるま湯で、傷んでいた手には傷がしみにくく、且つ、冷たくなった指先がほんのりとあたたまる。

 その心遣いに、桃花がほうと息を吐き出すと、カマルににっこりと笑ってみせた。


「ありがとうございます。少し気持ちが楽になりました」

「そうかい。そりゃあ良かった」


 歯を見せて笑う彼は、ゲームの中の設定通りならば、その服装から考えて、アイトを追っていた組織の人間の筈だ。

 けれど、名前のわかるキャラクターすら性格が違うのだから、彼らもゲーム通りの役割をしているとは限らないのかもしれない。

 よく傷口を洗うと、カマルは用意していた布で優しく水分を拭き取ってくれて、手のひらサイズの小さな入れ物を差し出してくれる。

 陶器で出来ているその入れ物には、塗り薬と思しき白いクリームがたっぷりと入れられ、少し指先で掬い取ると、ハーブに似た独特な香りとひんやりした感触がして、幼い頃家に常備していた薬箱の中身を思い出させてくれる。

 カマルは桃花に、これは傷薬だよ、と安心させるように教えてくれたので、桃花は頷きながらクリームを丁寧に傷口に塗った。

 少しひりついてはいたが、塗り込んでいく内に少しずつ落ち着いてきて、ほっとする。

 几帳面そうに包帯を巻いてくれたカマルに改めてお礼を言うと、一緒にいた橙色の髪をした男性——彼の方はソレルというらしい——が飲み物を調達してきたらしく、桃花の様子に笑みを零しながら、ぽってりした形のカップを三つ、木製のトレイに乗せてソファーの側にある古ぼけた硝子テーブルに置いてくれる。

 ふんわりと鼻を擽る香りはホットミルクにも似ているが、差し出されたアイボリー色のマグカップには、蜂蜜に似た琥珀色をした飲み物が並々と注がれており、白いミルクが渦を巻くように垂らしてある。

 見た目だけなら、レモンティーに間違ってミルクを入れてしまったようにも見えた。


「甘いのは平気?」

「はい、好きです」

「それは良かった。ハニードロップミルクだよ」

「ハニードロップミルク!」


 ハニードロップミルクはゲーム内の回復アイテムとして使用する、ハニードロップの蜜をというアイテムを使った飲み物で、ヒロインが好きなものの一つとしても紹介されている。

 ソレルは桃花が喜んでくれていると思ったようで、嬉しそうに笑いながら向かいに座って自分の飲み物を飲んでいる。


「女の子はこれ好きだよな」

「甘ったるいけど、回復するし、良いじゃないか」

「嬉しいです。いただきますね」


 此処のような場所でも、このような状況でも、普通に味を感じるものなのだろうか。

 ソレルが差し出してくれたカップを恐る恐る受け取りながら桃花は考えるけれど、疲れきっている今、甘い匂いには勝てそうにない。

 それまではホットミルクに似た香りしか感じなかったが、意を決してカップの縁に唇をつけると、ほんのり蜂蜜の香りがする。

 そのまま一口飲み込むと、外国のお菓子のように砂糖を何倍にも濃縮した、脳が溶け出しそうな程の甘ったるい味が、口の中いっぱいに充満する。

 不思議な事に、もう一口飲むと甘いだけの味ではなく、馴染みのあるミルクティーのようなまろやかな味もしてくる。

 不思議な味。

 だけれど、こんな夢だか妄想やもしれないようなあやふやな状態でも、味を感じる事に、少しだけ安心する。

 曖昧である事より、果てが見える方が、人は安心出来るものらしい。


「しかし、〝合図(コール)〟を見逃したのかい? ヴァレンは煩いから、気をつけないと駄目だよ」

「コー……ル? って、何ですか?」


 先程の桶を片付けていたカマルが困ったように笑って言った言葉を、桃花は思わず反芻する。

 見逃した、というのなら、その名の通り、何かの合図のようなものがあったのだろうか……、考えあぐねていると、ソレルは不思議そうに見詰めていて。


「まさか〝合図(コール)〟を知らないのかい?」

「そんな事あるんだなあ」


 しみじみとそう言われても、桃花にはさっぱり理解出来なかった。

 しかし、その口振りからすると、当然の事と言わんばかりに聞こえるので、彼等の中では常識と呼べるものなのかもしれない。

 ヴァレンと呼ばれる彼が怒ったのも、其れを知らなかった、という事ならば、一応は頷ける。一応は。


「あの、それを知らないのは、変な事、なんでしょうか……?」


 彼が怒った時に向けられたあの眼は、正しいものを信じ、疑いもしないものだった。

 外国でしてはいけないマナーがあるように、此処でもタブーと呼ばれるものがあるのかもしれない。

 そう思って聞いたのだが、彼等はあまりそうした事を然程気にしない性格らしく、二人で顔を見合わせて、首を傾げている。


「大抵は知ってると思うけど、そういう人もいるんじゃないか?」

「まあ、俺らが知らないだけかもな!」


 あっけらかんと笑っているので全く以て頼りにはならないが、その明るさは今の状況を考えれば快いものである。

 飲み物を飲みながら、その大らかさに桃花が小さく笑っていると、宿の入り口にある硝子で出来た扉がばたりと開き、先程の少女が軽やかに入ってきた。

 頰に赤みを帯びているので、急いで来てくれたのかもしれない。

 ソファーから立ち上がり、彼女を出迎えようとして、桃花は思わず顔を引き攣らせてしまった。

 何故連れてきたのだ……。

 うんざりとするけれど、接客業で鍛えた表情筋を駆使してにっこりと音が鳴りそうな程に笑って見せたのは、ヴァレンと呼ばれる男性が、彼女に引き摺られるように連れて来られていたからである。


「アイト、お疲れ様」

「ええ。カマルとソレルもお疲れ様」

「飲み物を持って来るよ。座って座って」


 馴染みの仲間なのか、皆は軽く話をすると、ソレルは飲み物を再び頼みに行き、カマルはソファーにアイト達を促していた。

 アイトは桃花に視線を移すと、手に巻かれた包帯を見て心配そうに、「大丈夫?」と問い掛けてくる。


「もう大丈夫です。先程はありがとうございました」

「いいのよ。でも本当に良かった。顔色も良くなったみたいだわ」


 男性の方は桃花を一瞥すると、興味無いと言わんばかりの態度でソファーに座っているが、話かけた所で再び機嫌を損ねては困るので、意識をしないように視線を逸らしておくとして。

 桃花の向かいに彼とアイトが座る、という、まるで圧迫面接にも似た構図はどうかと思ったが、カマルが能天気そうに桃花の横に座るので、座面が波のように揺れ、思わず笑みが零れてしまう。

 態とやっているのかとも思ったが、ソレルもにこにこと二人の飲み物を持って来ているので、おそらく二人の性格なのだろう。

 子供みたいな明るさが、今の状況では救いだ。

 ソレルが飲み物を持ってきたので、桃花はそれを手伝って二人の前にカップを置いたが、アイトは眉を下げて笑っている。

 彼女の前に置いたのは、先程桃花が飲んだものと同じ、ハニードロップミルクだ。


「ごめんなさい。私、これは苦手なの」

「え?」

「これはヴァレンが好きなのよ。私はこっち」

「それって、メロウローストティー?」

 

 メロウローストティーはヴァレンが好きな飲み物として登場していて、彼のクールな性格に良く似合う、すっとする香りの青い紅茶、だと桃花は記憶している。

 ゲームとの情報に齟齬が有り過ぎて混乱してしまうけれど、彼等がゲームのキャラクターと酷似していようと、性格が全くといっていい程違うのだ、好みが違うという事もあり得るのだろう。

 それにしたって、あのクールそうな外見の男が甘党とは……、複雑な気持ちになりながら二人の前にある飲み物を入れ替えると、桃花は軽く頭を下げた。


「ごめんなさい。女の子はハニードロップミルクが好きと聞いたので」

「いいえ、気遣ってくれてありがとう。優しいのね」


 アイトが終始優しい言葉を掛けてくれるのに対し、ヴァレン——と呼ぶのも癪なのだが——は何一つせず、腕を組み、踏ん反り返っているだけである。 

 昭和の頑固親父か! と吐き捨ててしまいたいが、甲斐甲斐しく世話を焼いているアイトの手前、そう言うわけにもいかない。

 眉間に皺を寄せながらカップを手に取り、ハニードロップミルクを飲み込んだヴァレンは、短く息を吐き出すと、桃花を真っ直ぐに見つめてくる。

 透き通るのに鮮やかな赤い眼は、何も阻む事も出来ないと言わんばかりで、思わず桃花は肩を震わせてしまった。


「で、お前は?」

「ヴァレン!」


 誰なんだ、と言い掛けたヴァレンの隣からアイトが圧力をかけながらそれを阻止している。

 女性をお前呼ばわりとは何事か、という事を怒っているらしく、けれどヴァレンは謝る素振りもない。

 そういえば、自己紹介もまだだった、と思い至り、桃花は慌ててアイトを止めて、姿勢を正し深呼吸を、ひとつ。


「私は桃花です。ええと、トウカ・ナガナミ。……で、通じる?」

「トーカ・ナガナミ、ね。とても可愛い名前だわ。貴方にぴったり」

「あ、ありがとう」


 アイトは無邪気に笑ってくれているが、可愛らしく二つに結った桃色の髪も、ふんわりした黒いミニドレスも、レースの付いたデニムジャケットも似合う、正しく美少女の呼ぶべき少女に褒められる、という経験も無く、嬉しいというよりは恐縮した気持ちになるものだ、とは初めて知れた。


「あたしはアイト・パーヴィ。彼はヴァレン。ヴァレン・トーニアよ」


 アイトが愛想良く自己紹介をするが、ヴァレンは話の腰を折られた事が不満らしい、アイトの前に掌を出して彼女を制止すると、再び此方を見つめて問い掛けてくる。


「トーカは何故あそこに? 〝舞台(ステージ)〟があるとわかっていただろう?」

「ステー、ジ……? 何?」


 また知らない何かだ。

 先程のコールというものと関連があるのだろうか……、困り果てて視線をあちこちに巡らせていると、慌ててカマルが口を挟んでくれた。


「あー、その、彼女、〝合図(コール)〟を知らないみたいなんだ」

「ええ?」


 そんな人、聞いた事もない! と言わんばかりの表情を浮かべるアイトに対し、ヴァレンはただ少し首を傾けて見つめるだけで、驚く様子はない。

 馬鹿にするな、と罵倒でもされるかと思ったが、彼は彼なりの行動理念があるのかもしれない。

 そう少しばかり彼の印象に修正を加えていると、少し戸惑いながら、「質問をしても?」そうアイトが言うので、桃花は小さく頷いた。


「トーカは何処から来たの?」

「東京、です」

「トウ、キョウ? 聞いた事がないわ。遠い場所なのかしら?」

「……多分、そう、かな?」

「では何故あの場所に? いつからいたの? トウキョウからはどうやって来たの?」

「あ、ええと、その……」


 次から次へと出てくる問い掛けに、思考と共に目の前すらぐるぐると回って目眩を引き起こしそうに、なる。

 そもそもこの状況に問い掛けたいのも問い詰めたいのも自らの方であり、間違ってもされる方ではない筈だが、誰に何を言われても悪いのは自分だと言われそうで、言い訳すら考えられず、かといって素直に言った所で信じられもしないのだろう、と桃花が落胆して言葉に詰まると、大人しくしていたヴァレンが突然ガラステーブルに手を当て、大きな音を響かせた。


「もういい‼︎」


 続けて吐き出された、びりりと響く声に、辺りがしんと静まり返る。

 彼の声は本当にでかい。

 大きい、のではなく、でかい、と表現する事でその大きさを察して欲しい程の音量で怒鳴るので、バーカウンターに居た店員も、宿屋のロビーにいた従業員も、まばらにいた客達も、皆驚いて彼を見つめている。

 けれど、周囲の事など僅かも気にする素振りも見せない、彼は、ゆっくりと瞬きをし、大きく息を吸って軽く吐き出すと、桃花を真直ぐに見つめた。


「お前はトーカ! トーカは〝合図(コール)〟も〝舞台(ステージ)〟も知らない! トウキョウという所から来た! それで良いな?」

「は、はい」


 全てを吹き払うように、晴れやかに、そして鮮やかに笑って、ヴァレンは胸に手を当てている。


「ならば、それ以上も以下もない! 問題もない! トーカはトーカだ。そうだろう?」


 突然大きな声で怒るし、一々声は大きいし、態度は無尊だけれど、けれど。

 彼が主人公たる所以が分かる気がして、思わず泣きそうになったのは、気のせいでは、ない。筈だ。

 真直ぐで何物をも阻む事が出来ない眼差しは、彼が彼である事を証明しているかのようだったから。

 唇を軽く噛み、鼻をすんと鳴らして、桃花は大きく頷いた。

 そんな風に、いつだって認めて欲しかった。

 此処に居る事、この存在を。誰でも良いから、たったひとこと、そう、言って欲しかったのだ。


「……ごめんなさい、まるで責めるように質問をして」


 肩を下ろし、落ち込んだ顔のアイトが席を立ち、頭を下げて謝るので、桃花は慌てて手を振り、アイトに向かってにっこりと笑いかけた。


「こちらこそ、こんなに良くしてくれて本当ありがとう。何もわからない中で優しくしてくれて、とても助かりました」


 この状況に置かれて直ぐに不安を拭ってくれようとしてくれた、その優しさは、確かに自身を救ってくれたのだから。

 アイトは大きく瞬きをして、「優しいのね」と困った顔で笑うと、両手をそっと握り締めてくれる。

 そのあたたかさは、桃花を安心させた彼女の優しさだ。

 カマルやソレルがその様子を見てにこにこと笑う中、ヴァレンはもうすんと澄ました顔に戻ってはいたが、満足そうにハニードロップミルクを飲み込んで、問い掛けてくる。


「で、目的や行く宛はあるのか?」

「どうして此処にいるのか、どうやって此処に来たのかもわからないし……、正直、途方に暮れてて」


 おまけに財布も携帯も無いので一文無しの迷子だ。

 その上、この状況がいつどうやって解決されるかもわからない。

 そもそも今は彼らが居てくれたから大丈夫だけれど、この先は、どうして良いのかもわからない。

 この街の事はゲームの知識として知っているけれど、先程のように、知らない事があまりに多過ぎる。

 常に最悪を考えて行動するのは悪い癖だ、と桃花は自負しているが、それでも、これ以上騒ぎは起こしたくはないのだ。

 出来れば同じ女性……、特に優しくしてくれたアイト辺りに世話を頼みたいが、彼女には彼女の事情があるだろうし、このまま宿屋暮らしでも構わないが、お金が無いので日雇いアルバイトのような働き口があるかどうか探すべきだろう。

 それから、就職ビザや住民票など必要なのだろうか。

 どうせ夢や妄想の類なのだから、常ならば出来ない事を好き勝手にしてしまおう! 等と考えず、現実的且つ建設的に思考を働かせてしまう自身に、桃花は心底うんざりするが、致し方無い。

 思わず溜め息を零していると、ヴァレンが少し首を傾けて、とんでもない事を口走っていて。


「なら、俺の所に来るか?」

「は、あ?」

「何を言っているの!」


 呆れた顔で肩を竦める桃花に対し、大きな声で叫んだのはアイトだ。

 今まで大人びた言動をしていた、彼女らしくない態度に驚いていると、アイトは慌てて口を押さえて、真っ赤な顔で大きく深呼吸を、ひとつ。

 そうして咳払いをすると、ヴァレンに向かって頰を膨らませて怒っている。


「駄目よ。それならあたしの家に来れば良いわ」

「お前の所は手狭だろう」

「トーカは女性なの! 男性と二人きりで暮らすなんて駄目! 道徳的に! 不健全だわ!」

「何がどう不健全なんだ?」

「犬猫を拾うのとは違うのよ!」


 二人の噛み合わないやりとりは、カマルとソレルにとっては日常茶飯事らしく、肩を竦めて苦笑いを浮かべている。

 成程、ゲーム上ではアイトはヴァレンに恋心を抱いていたが、そうした所は矛盾していないらしい。

 アイトは明かにヴァレンを好意的に思っている。が、主人公補正なのか何なのか、ヴァレンのほうは鈍すぎて気が付かないようで、不思議そうな顔で頭を捻っているだけ。

 何だか、こうしているとゲームの中の二人そのものだ、と桃花は思う。

 アイトはヴァレンに好意を寄せてはいるが素直に言えず、ヴァレンが他の女性に優しくすると途端に怒ったりする。

 そんな場面を良く見ていたが、それが目の前でリアルな映像となって見ているかのよう。

 最近のゲームは映像もリアリティが高く、映画に近く感じるけれど、本当に目の前でそれが見れるというのは、今の状況でも嬉しいものである。

 昨今、過去のゲームソフトを最新のゲーム機に移植するだけでなく、リメイクする事も少なくはないが、このクオリティなら劇場版でも良いし、折角の三次元なのだからいっそ舞台化しても良いのでは無いだろうか。

 若い世代からもきっと注目されるだろう。

 考えている内にどんどん思考が加速していき、楽しくなっていくけれど、隣に座ったカマルが心配そうに大丈夫、と問い掛けてくるので、桃花は慌ててにやにやと笑ってしまう顔を引き締めて、何度も頷いた。

 そう、今は、自分の置かれた状況をどうにかしなければならないのだから。

 よく考えればこの街の治安等もわからないのだから、このまま一人放り出されても非常に困る。

 かといって、ヴァレンについて行くのはどうかと思う上に、恐らくアイトに刺されかねない。

 説教をされている筈のヴァレンは、意図を汲めていないのだろう、不思議そうにアイトを見つめている。


「何を怒ってるんだ?」

「怒ってない!」


 じろりとヴァレンを見つめ返すアイトの眼を見た桃花は、胸の中で合掌した。女性の「怒っていない」という発言の九割は、ほぼ確定的に、絶対的に、怒っているものである。

 そして、なぜ怒っているか、を決して問い質してはいけない。また、怒っている理由を解っていたとしても、言い当ててもいけない。

 世の中の男性諸君には理解不能且つ予測不可能な難題だろうけれど、結局の所、その女性の感情に触れても触れなくても純粋なる怒りに満ちているのだから、余計な事は言わずにさっさと謝罪し、素直に怒られた方が良い。

 それが一番早く済む方法だからだ。

 けれど、きっと彼はその心理を一生理解する事は無いに違いない。

 そんなやり取りを見ながら今後の事を考え途方に暮れていると、ソレルが口を開いていた。


「なあアイト、それならクトリアさんの所はどうかな?」

「そうだよ。クトリアさんの所なら、ホエイルちゃんもいて安心だろうし」


 ちょっと聞いてみよう、とカマルも同意しながら此方に目配せをしているので、どうやら其処が一番安心して過ごせる所らしい。

 ありがとう、の意を込めてソレルに小さく頷きながらアイトを見ると、「そうね、確かに名案だわ」と彼女はすんなりと了承し、大きく溜息を吐き出してから、メロウローストティーを飲み込んでいた。

 クトリア、ホエイル、という見知った名前に興味が唆られるが、唇を緩く噛みながら、桃花は指先をぎゅうと握り締める。

あたたかくなっていた筈の指先は、冷たい。


(そうか、私って今、ひとりぼっち、なんだ……)


 実感してしまうのが怖くて、桃花は緩く頭を振る。

 息苦しくて軽やかなこの感覚は、実家から出た時に感じたものに、とてもよく似ていた。

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