父娘
首が痛くなる程に見上げるビルは、眩い日差しを受けて全面の硝子窓が鏡のように光を弾いて輝いている。
リーヴァの街で一番の高さを誇るそのビルの前には、相変わらず読むことが出来ない文字の羅列が並んでいるが、二枚の羽を交差させた馴染みのあるシンボルマークがその文字の前に取り付けられているので、何と書いてあるか桃花には一目で理解出来たものだ。
記憶が間違っていなければ六十階建ての高層ビルで、張り出した入り口にもシンボルマークが描かれている。
遠くから見てもその建物の大きさは理解していたが、目の当たりにしてみると、よりその重厚さに眩暈が起こりそうだ、と桃花は思う。
此処——トリエンシア社はこの世界にあるエネルギーを偶然発見した創設者が、そのエネルギーを動力に利用した機関を開発し、人々の生活にも普及させた事で、一大国家と対等に渡り合える程の規模にまで急成長した会社だ。
私設の軍隊まで備えていて、ゲーム開始から中盤辺りまで戦う事になるのだけれど、その社長を務めるのが、隣で笑顔を浮かべているアイトの父親なのである。
操られていた父親との訣別の為、アイトは母方の姓を名乗っていたのだが、今でもそのままなのは二人の関係性が悪いからなのか、と桃花は密やかに考えていたりもしたが、彼女の様子を見る限りでは、親子関係が悪いという訳ではないらしい。
「ね、ねえ、アイト? 本当にこんな格好で大丈夫なの?」
高層ビルだなんて、水族館と展望台とプラネタリウム等の商業施設が併設されている所くらいしか入った事がなかったし、勤め先の本社とて此処まで大きなビルではなく、自分には無縁の場所としか思っていなかったのだから、狼狽えてしまっても仕方のない事だ、と桃花は思う。
入り口には黒いスーツと帽子を被った体格の良い男が二人も立っているし、今日の服装だって、胸元にレースがついた白いカットソーとデニムのフレアスカートというカジュアルなものだ。
朝食を終えて片付けをしている辺りでアイトが来たので、着替えをしてから出ようと思ったのだけれど、気にしなくても良い、と満面の笑顔で迎えに来たアイトに連れて来られてしまったのだ。
失礼に当たらないだろうか、と不安になってしまうけれど、アイトは緩やかに首を振って、堂々と入り口に向かって歩いて行ってしまう。
「大丈夫よ、心配しないで。あたしのお父様はそういう事を気にしないし、とっても優しいもの!」
ゲームと同じツインテールに、服装も大きなリボンが付いたピンクのニットに黒いチェックの膝上プリーツスカート、という年相応の可愛らしい格好のせいか、浮かべている笑顔も頰を緩めた子供のようなものになっていて、あまり見た事のなかったその年相応さに、桃花はひっそりと嬉しく思ってしまう。
此処へ来たのはディアヴルアルサーの居所を調べる為、である。
その存在を示唆されるのはシージェスと対峙する前だが、調べる為のきっかけになるのが、ディアヴルアルサーに操られていたアイトの父親が持っていた私物なのだ。
例え操られていないとしても、序盤から中盤にかけて立ちはだかる大きな敵である事は変わりなく、ラスボスであるシージェスとは違って、相手のホームに乗り込む形になるのは初めての事で、桃花はすっかり萎縮し、緊張で身体を強張らせてしまう。
入り口の見張りをしていた黒づくめの男達は、交代の時間なのだろう、別の二人組が中から出てきて声をかけると、手を上げて挨拶を交わし、入り口のドアを開けて中へと入っていった。
再び別の二人が先程の男達のようにドアの側に立つと、近付いてくるアイトの姿を確認したのか、頭を下げてくれている。
お疲れ様、と声をかけるアイトの後ろでおずおずと頭を下げると、桃花はその二人の顔をまじまじと見つめて頭をことりと傾けた。
「もしかして、カマルとソレル?」
名前を呼ぶと、右側にいる男性がサングラスを外して桃花を見て、左側にいる男性は嬉しそうに笑顔で頷いている。
「おお、久しぶり!」
「元気にしてたか?」
二人に会ったのはヴァレンやアイト達と出会った時以来だ。
嬉しくなって何度も頷くと、二人も子供のように顔を綻ばせているので、喜んでくれているのが良くわかった。
「今はクトリアさんのとこで暮らしてるんだろう?」
その言葉に頷いて、桃花は慌てて頭を下げた。
クトリア達の所へ連れて行く事を提案してくれた彼等がいなければ、今のように安心して暮らせていなかったのかもしれないのだ。
「あの時に助けて頂いたのに、お礼を言うのが遅くなってごめんなさい。あの時は本当にお世話になりました」
「気にしなくていいって」
「そうそう。元気そうな顔見れて安心したよ」
人の良い笑顔でそう言ってくれる二人に緊張も少し解けてきて、桃花はそっと息を吐き出した。
「今日はどうしたんだい?」
「社長さんに会いに来たんです。アイトと一緒に」
そう言ってアイトを見ると、いつのまにか入り口の奥でスーツ姿の女性と話をしていて、桃花の視線に気がつくと、胸元の辺りで手を振っている。
気にしなくていい、と言っているのだろう。
桃花の緊張を見越してか、二人と話している間に社長との取り次ぎをしているらしい。
つくづく頭が上がらないな、と、眉を下げて笑みを返していると、カマルが胸に手を当てて晴れやかに笑って見せた。
「社長は優しい人だから心配しなくても大丈夫だよ」
「二人がそう言うなら安心ですね」
クトリアの所へ連れていく事を提案してくれたのは、他ならない二人なのだ。
これ以上ない保証に違いない。
頑張れ、と、笑顔で送り出してくれる二人に手を振って、桃花は入り口のドアへと足を向けた。
***
通された応接室の中は落ち着いていてシンプルな内装で、大きな窓を嵌め込んだ室内は明るく、リーヴァの街並みが良く見えている。
中央には綺麗に磨かれた硝子テーブルと柔らかな雰囲気のブラウンの革張りのソファー、センス良く配置された観葉植物……と、想像よりも圧迫感を感じない作りをしていた。
席に着くと、ビジネススーツを着こなした綺麗な女性が、高そうなティーカップと焼き菓子を目の前のテーブルへにこやかに差し出してくれている。
桃花は平静を装いながら頭を下げるけれど、視線をあちこちに彷徨わせ、震える呼吸を整える事で精一杯である。
手にする事も出来ないティーカップは、小さな青い花と金色の蔓を縁に描いた美しいもので、青い色をした涼やかな香りのする紅茶が中に満たされている。
アイトの好きな、メロウローストティーだ。
きっと、アイトに合わせて彼女の好みのものを出したのだろう。
不安は尽きないけれども、此処はアイトの父親の会社であり、実家のようなものの筈だ。
初めはアイトの父親が操られていないかどうかも心配ではあったものの、アイトの様子からそれも杞憂に終わりそうであるし、シージェスが自由に二つの世界を行き来していて、ディアヴルアルサーの存在が知られている以上、その必要もないのだろう。
考えを巡らせている間に応接室の外から足音が聞こえて、桃花は慌てて立ち上がると、姿勢を正してさっと髪を整えた。
扉を開けて出てきたのは、背の高いスーツ姿の男性——このトリエンシア社の社長である、スティルクス・トリエンシアだった。
グレイヘアの前髪を上げ、眼鏡をかけている彼は、落ち着いたグレーストライプのダブルスーツを着用していて、ウエストを絞っているのかシルエットが美しく、足の長さも相まって海外の俳優のようだ。
品の良さそうなネイビーとピンクのレジメンタルネクタイは勿論、綺麗に磨き上げられたストレートチップの革靴、袖口から覗く時計は値段を聞いたら飛び上がりそうな程に高そうに見える。
「お父様!」
アイトが駆け寄ると、その人は嬉しそうに笑顔を浮かべて彼女を抱き締めていて、外国映画のワンシーンでも見ている気分にさせられる、と桃花は思う。
「アイト、最近顔を出さないから心配していたんだぞ」
「ごめんなさい、お父様」
スカートを翻したアイトは笑顔で桃花の側まで戻り、彼に紹介してくれた。
笑顔ではあるのだけれど、クトリアと変わらない身長とその威圧感から、桃花は思わずたじろいでしまう。
「は、初めまして、トーカです。アイトさんにはいつもお世話になっています」
見つめてくる眼鏡の奥の瞳はアイトと同じ澄んだ青色だが、全くと言っていい程に笑ってはいない。
顔が引き攣ってしまうのをどうにか堪えながら笑みを浮かべてお辞儀をすると、アイトが腰に手を当てて父親を嗜めている。
「お父様、彼女はあたしの友人なのだから、あまり苛めないで頂戴。それに、トーカは〝観客〟なのよ」
「ほう、こんな可憐なお嬢さんが〝観客〟とは」
「と、とんでもないです……」
ソファーを勧められ、アイトと共に彼の向かいの席に座ると、彼は長い足を組んで腰をかけた。
カップを手にし、飲み物で唇を湿らす事で気まずさを誤魔化していると、彼は口元に指を当て眼を眇めてから桃花を見つめた。
その様子からは、何処か楽しんでいるようにも思える。
「それで、私にどういったご用件かな?」
「え?」
ゲームでは彼が洗脳が解けた後、アイトがこの部屋を調べる事でイベントが始まるのだが、どうやら同じ様にはならないらしい。
それはそうだ、と、慌てて桃花は首を振って、イベントで入手する筈のアイテムを思い出す。
手帳という、簡単に他人に渡したくはない私物であるのは十分承知しているが、馬鹿正直に話していいものなのだろうか……。
彼とアイトを交互に見て暫し逡巡したものの、桃花は小さく息を吐き出して、口を開いた。
彼はアイトの父親なのだから、下手に嘘を吐いたり騙すような真似はしたくはないのだ。
「トリエンシアさん。唐突ではあるんですが、貴方がいつも持ち歩いている、革の手帳を貸しては貰えませんか?」
どう説得したものか、と桃花が頭を悩ませながらそう言うと、彼は笑みを消し、静かに腕を組んだ。
「成程。それを知っている、という事は、確かに君は〝観客〟のようだ」
あれの居場所を突き止めたいのだろう、と言われて、桃花は思わず肩を震わせてしまう。
最初に立ちはだかる大きな敵としての威厳を感じられ、怖い、そう純粋に思わずにはいられない。
唇を噛み締めながらも彼の青い瞳からは決して眼を逸らさずにいると、彼は片手で硝子テーブルを三度叩いて、部屋の外で待機していたらしいスーツの女性を呼んでいる。
女性が彼に差し出したのは、革で出来た高級そうなビジネスバッグで、彼はその中から黒い手帳を取り出した。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
シンプルな作りをしているが、独特の艶がある革を使ったその手帳は一目見ただけでも高そうな上に、その中身を知っているだけに、受け取る手のひらが思わず震えてしまう。
文庫本程のサイズの手帳は案外しっかりとした重みがあり、彼が使い込んでいたのが触れた部分から確かに伝わってくる。
その彼は桃花の様子を見つめながら息を吐き出すと、今までとは違う、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「しかし、〝観客〟が直接私達とやり取りをするというのは、想像以上に心身を疲弊する事だろう。何か手伝える事があれば、此方も惜しみなく援助しよう」
これだけの大きな会社を持つ社長なだけあって、労りの言葉も忘れずにいるし、人の心を掴むのも上手だ。
アイトが人に寄り添おうとする気質なのも、父親のこうした所を見ていたからかもしれない。
こくり、と喉を動かした桃花は、彼の顔色を伺いながら、差し出がましいお願いですけど、と切り出した。
「でしたら、これからきっとイズナグルでもこの世界でも、災害やモンスターの被害が増えると思うんです。その時、被害に遭った人達を助けて貰えませんか?」
ゲームでは特にイズナグルと聖域にモンスターや災害の被害が多かったが、それと同じ事が此処でも起きるというのなら、比較的こちら側の世界は安全だ。
アイトがイズナグルからの移民を保護していると言っていたので、被害が大きくなった場合、まだ留まっている人々も一斉にこちらへと避難してくる事になるだろう。
社長は相槌を打ちながら話をしっかりと聞いている。
「特にイズナグルから移動してくる人たちについては、今はアイトやミーティア達が協力して助けていると聞きました。だけど、ディアヴルアルサーを倒すには、アイト達の協力が必要不可欠です。なので、その代わりの業務とかが滞らないように、そちらで助けては貰えないですか?」
アイトとミーティアはパーティメンバーとして戦闘に加わって貰わねばならないし、シージェスに至ってはイズナグルで様々な指示をしなければならない立場だ。
そうなると、他に頼れるのはこの場にいる彼だけ。
手帳を握り締めて頭を下げると、彼は静かに頷いている。
「私自身は構わないよ。元よりその準備は整えている。ただ、アイト本人が此方の協力を拒んでいるんだが……」
「えっ、」
ごめん、と、思わず反射的に謝ると、アイトは緩やかに首を振っていた。
「いいえ、大丈夫よ。お父様の力を借りてしまったら他人事になってしまう気がして、金銭の援助や業務の請け負いだけは断っていたの」
そういった活動を率先して行うという事は、責任を問われる立場にもなる、という事。
彼女はそれを理解した上で、彼女なりに覚悟を持って活動してきたに違いない。
父親の力を借りればもっと楽を出来ただろうに、そうしなかったのは、そういった覚悟が揺らいでしまう、と危惧していたからかもしれない。
「でも、助けを求めている人達が助からない状況になってしまうのが一番あってはならない事だわ。お父様、私からもお願いします」
アイトはそう言うと、きちんと姿勢を正して頭を下げている。
彼女のピンク色の髪がそれに合わせてふわりと揺れていて、彼はそれを見て、困ったような笑みを浮かべていた。
「可愛い娘の願いを断る父親はいないよ、アイト。任せなさい」
無理をしてはいけないよ、と、酷く優しい声音で伝えられた言葉に、アイトは嬉しそうに頰を緩ませて笑っている。
「ありがとう、お父様」
「ありがとうございます」
アイトと一緒にお礼を言いながら、桃花はそっと手にした手帳を指先で撫でた。
ゲームの中で、彼は彼女とその母親が映った写真をその手帳に挟んでいて、常に持ち歩いていた事を、桃花はよく知っていたから。