ただいま
「ご機嫌よう、クトリア」
にこりと音が鳴る程の笑みを浮かべてお辞儀をするアイトの後ろで、桃花は子供のように身体を竦め、その先にいる人を見た。
見慣れてきた青い屋根の家の前、扉に背を預けて立ったクトリアは、組んでいた腕を解放すると、小さく頷いている。
「やあ、アイト。トーカを送ってくれてありがとう」
一緒に暮らすようになってから大分理解できるようになったけれども、感情表現の幅が狭い彼の、今の表情はいつも以上に変化がなく、理解し難いものだった。
レムルの宿屋から出た時にはすっかり辺りが暗くなっていたので、アイトが家まで送ってくれたのだが、逃げるように出て行ってしまった手前、居心地が悪い。
それは桃花自身、悪い事をした、と理解しているからで、家事手伝いをしている程度で衣食住を保証して貰っている状態で、勝手な事をしていると理解しているから、でもあった。
「お、遅くなって、ごめんなさい……」
そう言うと、彼は瞬きを繰り返したまま、動かずにじっと桃花を見ている。
初めて会った時のように、全く以て表情が動かない彼の感情が読み取れずに狼狽えていると、隣のアイトがそっと耳打ちをしてくれる。
「トーカ、彼は心配していたのよ」
え、と、思わず声を零しかけたのを、両手で口を押さえる事で隠しながら、桃花は慌てて頭を下げた。
「あ、あの、心配かけてごめんなさい」
そう言うと、彼はそっと息を吐き出して、少し眉を下げている。
「おかえり、トーカ」
微かに持ち上がった口端と柔らかくなった目元を見てようやく、彼が心配していて、安堵している事を知れて、桃花は申し訳なさと同時に嬉しさが込み上がってくる。
目の奥が熱い。それどころか、だんだんと頰や耳まで熱くなっていく気がして照れ臭く、思わず両手で頬を押さえた。やっぱり、熱い。
「た、ただいま……」
「うん。ホエイルも心配している」
「あ、謝ってきます!」
以前、ヴァレンがリジェットを弟のように接しているのを羨ましく思ったものだが、クトリアやホエイルにとっての自分も同じように思っていてくれていたなら、これ以上に嬉しい事はない。
けれど、にやけて赤面しただらしない顔を見せるのは憚れたので、桃花はそそくさと家の中に入ってリビングへと足を向けた。
扉を開ける前から、甘くて香ばしい菓子を焼いた用な匂いや、まろやかなシチューの香りや肉を焼く前のハーブやニンニクを油で炒めた、食欲を刺激する匂いがごった返している。
「ホエイル、ただいま」
扉を開けて声をかけると、リビングテーブルの上を沢山の料理が埋め尽くしていて、まるでお誕生日会みたいだ、と桃花は呆然としてしまった。
カウンターの向こうで声に気付いて顔を上げたホエイルは、どうやらクッキーが焼き上がったらしく、鉄板を抱えて右往左往すると一度それをオーブンに戻し、勢い良く抱き着いてくる。
「トーカ! 心配したんだよ!」
落ち込んでたから沢山ご飯作って待ってたのに、ちっとも帰って来ないから、どんどん料理増えちゃったんだよ!
そう言ってぎゅうぎゅう抱き締めてくるホエイルの、子供特有のあたたかでしっとりとした体温が伝わってくる。
「ごめんね、心配かけて」
そう言って小さくて丸い頭に頰を押し付けると、ほんのりと甘いお菓子の香りがした。
誰かが心配してくれて、あたたかく迎えてくれる家があって、こうして抱き締めてくれる事が、どれだけ大切な事か。
今ならそれが、とてもよくわかる。
くたびれた鞄から取り出した鍵の冷たさも、ドアを開けて真っ暗な部屋に帰る時の心細さも、誰かに聞いて欲しい言葉を飲み込みながら食べる食事の味気なさも、いつの間にか何も感じなくなっていた筈なのに。
身じろぎしたホエイルを腕から解放すると、大きな金色の瞳は水分をたっぷり含んで揺れている。
もう一度、ごめんね、と謝ると、後で片付け手伝ってね、と泣き笑いで返されたので、桃花は何度も頷いた。
「ホエイル、アイトにも食事を持たせてくれ」
そう言って部屋に入ってきたクトリアの後ろで、リビングの中を見たアイトが目を丸くさせている。
まるでパーティみたいね、と彼女が言うので、皆は苦笑いを浮かべていた。
***
皆で料理や菓子を取り分け、大きな籠に詰め込みながら大体の事情を説明すると、クトリアとホエイルはきちんと話を聞いてくれた。
ディアヴルアルサーの居場所を突き止めて戦う時には、彼等の守らなければならない聖域の森は、大量のモンスターで溢れる事になる。
それがクトリア達がNPCとしてパーティに入れない理由であり、最強の強さを持つ理由でもあるのだろう。
「聖域が一番過酷な状況になる可能性が高いんだ。だから、二人には特に負担がかかる、と、思う」
ごめん、とは、どうしても言えなくて、桃花は唇を噛み締めて俯いた。
クトリアとホエイルは、最前線で一番きつい戦いを強いられる。
それが自分のせいならば、そんな安っぽくて陳腐で独りよがりな言葉一つでは片付けられない、と思ったのだ。
こんなに良くしてくれた二人に、恩返しどころか、酷い目に遭わせるような真似になるなんて、と。
はくはくと、言葉には出来ない感情が、空気となって唇から零れ落ちていく。
「それが俺達の役目なのだから、気にしなくていい」
クトリアは作業していた手を止めて、平然とそう言った。
オーブンから出して粗熱が取れたクッキーを確認していたホエイルも、それに同調するように頷いている。
「ホエイルも別に平気だよ。その為にずっとホエイル達は準備をして来たんだもん。それがトーカの助けになるならもっと嬉しいよ!」
淡い緑と桃色に染められたクッキーは、先日プレゼントした型を使用しているようで、可愛らしい花の形をしていた。
その健やかさにいつも救われているな、と思いながら、桃花は「ありがとう」と呟いた。
「戦うなら準備しないとだよね。いつから始めるの?」
「それなんだけど」
ホエイルに問いかけられて、桃花は暫し天井に視線をやって悩んだ。
「クトリア、聖域の奥に扉のようなものってないですか?」
問い掛けると、クトリアが腕を組み、首を少し傾けている。
「あるにはあるが、入る事は出来ない。見えない壁のようなものに阻まれて、入れなくなっている」
「やっぱり……」
ゲームではシナリオの進行上、フラグを立てないと入れない場所があるが、此処でもそれは変わらないのだろう。
手がかりを捜索する、というのも煩わしいが、いきなり裏ボスであるディアヴルアルサーと戦えるとも思えない。
手がかりを手にした時にディアヴルアルサーと戦う上で必要な情報も、ほんの僅かなものだが手に入れられた筈だ。
その時、忘れかけている攻略法も思い出せるかもしれない。
パーティメンバーの戦力や装備、戦いの指示をどうするのか。
確かめなければならない事も多いが、決まった時間に決まった仕事を割り振って行動する事は、仕事でも経験して来た事だ。
慣れるまで大変だろうが、一つ一つ確実にこなしていけばいい、と桃花は思考を巡らせて、これからの予定を組み立てる。
「だとしたら、まず最初にトリエンシア社長に会いに行かないといけないんだけど」
手がかりを得る為のフラグを立てるには、必要なアイテムを手に入れなければならないが、それを所持している相手はアイトの父親だ。
リーヴァの街にある一番大きなビルを所有し、この世界に浸透している大企業である、トリエンシア社。
その社長であり、アイトの父親でもあるスティルクス・トリエンシアは、ゲームの序盤から中盤までディアヴルアルサーに操られていたのだが、此処ではどうなっているのだろうか。
アイトの姓が違うのは、父親との訣別の意味で母方のものを名乗っている、という設定だったからで、彼女がそう名乗っているというのなら、その関係性が悪化している、とも考えられる。
家庭の事情に首を突っ込む用な真似はしたくないのだけれど、と戸惑いながらクッキーを袋に詰める作業をしているアイトを見るが、彼女はぱっと表情を明るくさせている。
「お父様に? 良いわよ。けど今日は遅いから、明日行きましょうか」
「え、いいの?」
「ええ。お父様もきっと喜んでくれるわ」
嬉しそうに笑ってそう言うので、特別仲が悪いというような事はないらしい。
そもそも操られる前は仲が良い親子だった、とゲーム内でも言及されていたので、其処は変わらないのだろう。
そっと息を吐いて安堵すると、桃花は予定を確かめながら、口にする。
「そうすると……、まず明日はトリエンシア社に行って、それから世界中のあちこちにディアヴルアルサーの手がかりを探しに行くから、聖域にモンスターが大量に湧くのはもう少し先かな。その間にモンスターが増える可能性もあるけど」
言いながらクトリアとホエイルを見れば、二人は顔を見合わせて頷いた。
「増え方にもよるが、その内に交代で森に行くようだろうな」
「じゃあ槍とか弓とかしっかり手入れしとかないとね! お兄がこないだ手に入れた新しい弓、使っても良い?」
「あれは駄目だ。ホエイルには大き過ぎる」
「えー! お願い!」
じゃれるように笑いながらそう話す二人を見て、アイトがくすくすと笑みを零している。
何も出来ないけれど、せめて彼らがこうして健やかに過ごせるように、と、祈るように思いながら、桃花は小さく笑みを浮かべて手のひらを握り締めていた。