何が出来るのか
ジリジリと照り付けてくる太陽と、雲一つない青空の、その眩さに桃花はぐったりと項垂れた。
息を吸い込むだけで暑さが増し、深く呼吸する事すら嫌になり、口の中でこもった熱い息を吐き出してしまう。
真夏の一番暑い日にだって、ここまで暑くはならないだろう、と感じる程なので、三十度はゆうに超えているに違いない。
リーヴァの街では涼やかに感じる潮風も、此処では暑い空気を掻き回すだけで、全身をじっとりと不快な水分が覆っていくのがわかる。
盗み見た隣の人物は、気温の変化を感じないのか、その端正な顔立ちを崩す事なく平然としていて、更にその先にいる女性は柔らかい笑顔を浮かべて汗ひとつかいていないので、一体どうなっているのだ、と桃花は恨めしげに思った。
リーヴァの街から船で二時間程かけて訪れたのは、砂漠の街・マティリアだ。
砂色の日干し煉瓦を積み上げて出来た家屋が立ち並ぶ街は、打ち捨てられた城壁のようで、統一された色合いからか、そびえ立つ巨大な山のようにも見える。
ゲームの中ではそれ程広いマップではなかった筈だが、ここでもマップ以上の広がりがあり、街を歩く人々の多さも比べものにならない。
一体何処から何処までが家なのか、外側から見ただけでは到底わからないが、立体的に組み上げられた壁のそこかしこに大きくくり抜かれたように作られたアーチ型の扉が取り付けてあり、それぞれ色合いや装飾が違うので、住民達にはきっと理解出来ているのだろう。
煉瓦の組み上げ方で不思議な文様を描いている壁には、赤や緑といった派手な色合いの織物が飾られ、道路にも大小様々な大きさの敷物を並べている住民達が賑やかに声をかけている。
あまりの暑さに怠さを感じて次第に重くなる足を懸命に進めていると、頭の上から何かが被せられた。
照り付けてくる日の光に眼を眇めながらそれを確認してみると、どうやらフード付きの白い外套のようで、視線を動かせば、シージェスが面倒そうな顔を向けている。
「あ、ありがとう」
「アイトに持っていくよう言われただけだ」
アイトの細やかな気遣いに心中で拝みながら感謝をし、外套をきちんと着直すと、外套の内側にひんやりとした空気が満ちているので、魔法のアイテムだとか防具だとか、そういった類のものなのかもしれない。
今までの暑さが嘘のように消えると身体も軽くなった気がして、桃花は大袈裟にも思える程、深く長く息を吐き出した。
「ミーティアやシジェ様はこの暑さ、平気なの?」
一番好きなキャラクターという贔屓目を無くしても、シージェスはとても整った容姿をしている。
白皙の肌に透き通る黄金の髪、モデルのように細身で手足は長く、ゲーム内では下ろしている髪も今はサイドに纏めているので、ただでさえ小さな顔が余計に小さく感じる程だ。
今日はシンプルな白いシャツにグレーのスラックスというラフな格好ではあるが、その清廉した雰囲気からか、隣を歩くミーティアと並ぶと、より一層近寄り難い印象を受けた。
ミーティアの着ているマキシ丈の白いオフショルダーワンピースはストラップがリボンになっていて、つばの広い帽子も相まって、いかにも清楚なお嬢様の様。
普段は編み込んでいる前髪も今は下ろしてハーフアップにしているので、いつもより少し幼く見える。
ゲームの中では考えの違いからやむなく対立し、最終的に戦う事になる二人だが、本来はとても仲の良い姉弟で、互いに行方が分からずずっと探していたのだ。
ここでも仲が良さは変わらないようで、髪を結んだリボンがお揃いなのを知った時、桃花は思わず頰が緩んだものである。
「イズナグルではこの程度の暑さ、どうということはない」
彼やミーティアがこの暑さを僅かにも感じていないように見えるのは、そういった事情があるらしい。
ゲーム内ではどの程度の気温なのか迄は事細かには描かれていなかったが、想像以上に彼らの世界は酷い状況なのだろう。
もう少しイズナグルの状況を聞いてはみたいけれど、興味本位で傷付けたくはないので、口を噤む他はない。
「でも、此処の景色は少しイズナグルに似てるよ。水の海はこっちでしか見れないけど」
ミーティアはそう言って、帽子が飛ばされないように被り直している。
果てしなく続く荒野と砂の海が広がる景色はゲームの中でも見てはいたが、実際見る景色とは矢張り全く違うものだろう。
それが故郷ならば、尚更だ。
隣で頷くシージェスは、ゆっくりと瞬きを繰り返して、視線を俯かせている。
「シーくん、ミーティアはイズナグルの砂の海も好きだよ?」
「……、はい」
困ったように笑うシージェスの表情は、姉の言葉をもってしても晴れる事はない。
ゲームの中で二人が一緒にいられる姿が見れるのは、裏ボスを倒した後だけであり、その後のイズナグルがどうなったのかは、ほんの少しだけ緑が戻っていた描写があっただけで、はっきりはわからないのだ。
「イズナグルは今、モンスターが増えているんだよね? 有難いけど、こうしていても平気なの?」
問い掛けに、ミーティアはにこりと音が鳴りそうな程に笑ってみせる。
「昔よりは増えてはいないよ。最近にしては多いっていうだけ」
それに、シーくんの部下の人達は優秀だから、少しくらい留守にしても大丈夫。
そう言って彼女はシージェスに向かって首を傾けた。
シージェスはその言葉に自信を持って頷いている。
ヴァレン達の旅の途中、ボスとして立ちはだかってきたシージェスの部下達は、忠実で堅実で、強い人々だ。
引き際も弁えているのでそう無理はしないだろうが、それでも彼らの言葉からは明らかに今起きている異変を感じてしまう。
その証拠に、シージェスは姉に近づく桃花を警戒し、こうして隣を歩く時でさえ、間に入るのである。
仕方のない事、と、桃花は静かに息を吐き出して考える。
桃花自身、彼の立場であれば、疑うのはまず間違いなく突然現れた異質の存在——桃花だ。
その考えを補強するように、シージェスは冷たい眼差しを向けている。
「此処最近は〝舞台〟どころか〝合図〟さえ無い。それも、お前が来てからだ」
「シーくん、これ美味しそう。食べてみたい」
天然なのか計算してやっているのか、桃花にもいまいち掴めないけれど、言葉を遮るように、ミーティアは店で売っているかき氷のようなものを見て眼を輝かせている。
かき氷の上には色とりどりのフルーツと、餡子に似た煮込んだ豆が溢れんばかりに乗っかっていて美味しそうだ。
「姉様、食事が入らなくなりますよ」
シージェスが申し訳なさそうにそう言うと、ミーティアは頬を膨らませていたが、直ぐに微笑んでスカートを翻して先を進んでしまう。
ゲーム内では天然な姉と厳格な弟、という印象だったけれど、此処では奔放な姉と振り回される弟、といった具合で、桃花はつい口元が緩んでしまった。
***
砂でくすんでしまった赤い大きな庇のついたカフェには、幾つものテーブルや椅子が置かれていて、店員達は丁寧にそれらを拭きあげると、ご機嫌に鼻歌を歌いながら銀色の食器に入った料理を次々に運んでくる。
マティリアは陽気な性格の人が多いようで、道行く人々も互いに楽しげに声をかけ合っている姿をよく見かけた。
此処での食事について桃花は少しも理解していないので、完全に二人に任せると、シージェスがミーティアの要望を聞きながら調整して頼んだようだ。
前回のカップに入った角砂糖の数を鑑みるに、きっと甘いものを沢山頼もうとしたのだろう。
流石に甘いものばかりでテーブルを占拠されては困るので、シージェスの采配に桃花はほっと胸を撫で下ろしたものだ。
花や蔓の模様が彫られた銀色のカップに満たされた透明な液体を恐る恐る飲み込むと、甘みはあるけれど後味がすっきりとした、パイナップルジュースに似た味がする。
クリアラナナスジュース、というらしいが、甘いものが好きなミーティアが、此処に来た時に好んでよく飲むものらしい。
食事よりもデザートを優先して食べているミーティアの隣では、シージェスが甲斐甲斐しく世話を焼いている。
食事に手をつけ始めてから少し経った辺りで、桃花はずっと疑問に思っていた事を口にした。
「イズナグルは災害が頻発しているんでしょう? 以前から多かったの?」
黄色いトマトと平べったいレンズ豆を煮込んだものをマカロニの上にかけたような不思議な料理を、無意味にスプーンで混ぜながらそう聞くと、先程のようにミーティアはにこりと笑って答えてくれる。
「最近は少なかったよ。心配しないで、トーカ」
「でも、」
「イズナグルからこっちに移住をさせるのに、きっかけがないと動けない人達もいるから」
悪い事だけではないよ、と、ミーティアは何でもないような顔で言って、暑さで汗をかいたカップをのんびりと傾けている。
きっと不安にさせないようにそう言っているのだろうが、何の力も持たない桃花にとって、それは拒絶のようにも感じられた。
不満とも不安とも取れない、曖昧でもやもやした気持ちを料理と一緒に口に放り込むと、さっぱりしたミートソーススパゲティのようでとても美味しいが、酸味のある後味が、いつまでも舌にこびりつくようだった。
飲み物で誤魔化そうとカップを取ろうとすると、目の前にフォークに刺さった揚げ物が差し出される。
甘い香りが鼻先を擽って驚いていると、ミーティアは少し大人びた笑みを浮かべていて。
「ミーティアも、同じだったもの」
そう言ってミーティアが差し出した揚げ物は、ナッツ類をペーストにした餡を包んだ揚げ餃子のようなもので、一つ貰って食べると、脳が溶け出しそうな程に甘く、甘かった飲み物さえ水のように感じられる程だ。
姉に弱いシージェスさえ首を振って拒否している有様で、苦笑いを浮かべると、ミーティアは手にしていたフォークを皿に置いて頬杖をついていた。
何処か遠くを見つめるような瞳は、ゆっくりと伏せられている。
「〝観客〟の人達が、ミーティアとシーくんを一緒に居られるようにしてくれたの」
その言葉の意味を、問いかける事は桃花には出来なかった。
シージェスが優しく笑っている隣で、ミーティアも柔らかく笑みを返していた、から。
「ミーティアは、そう願ってくれる人がいてくれた事が嬉しかった」
シナリオ上、二人が一緒にいられるエンディングを見れるのは、二周目のプレイで裏ボスを倒した後だけだ。
全ての元凶である裏ボスを倒さない限り、救われるのはヴァレン達の世界だけ。
ヴァレン達に敗れたシージェスが、二つの世界の繋がりを閉じた際、イズナグルと共に犠牲になるからだ。
つまり、彼女が言うように、プレイヤーだけが二人が一緒にいられる選択が出来るのである。
一体何処までシナリオとこの世界がリンクしているのかはわからないいが、桃花が何度も挑戦して何度も投げ出したかった裏ボスとの戦いも、こうして仲良く過ごせる二人をみられるならば、無駄ではなかったのかもしれない。
手にしていた銀色のカップをそっと撫でて、桃花はそっと笑った。
「ねえ、〝観客〟って姿が見えたり声が聞こえたりするの?」
二人が〝観客〟の選択を知っているのならば、此方からの声や姿も見えているのだろうか、と考えて桃花は問い掛ける。
子供の頃とはいえ、お菓子やジュースを飲み食いしながらだらだらしていたり、お風呂上がりで髪が濡れたままプレイしていた姿を見られていたら、流石に恥ずかしくて悶絶してしまいそうだ、と考えたのだ。
「姿は見えないけど、声はするよ」
「どんな声がするの?」
ほっとしてポットを取り、それぞれのカップに飲み物を注ぐと、シージェスは口元に手を当て思案し、首を傾けている。
「様々、としか言い様がない」
「普通の人と変わらないよ。色んな人がいて、色んな事を話してくる。それが良いか悪いかは、受け取る人が決めるものだもの」
飲み物を入れたカップを差し出すと、ありがとう、とミーティアは笑ってそれを受け取った。
今までのやり取りからも、ミーティアはどうも、此方が傷つかないように不安にさせないように、極力言葉を選んでくれるように思う、と桃花は思う。
それは彼女なりの優しさなのだろうが、少し寂しい気がして、桃花は問い掛けた。
「ねえ、どうしてミーティアは私に優しくしてくれるの?」
問い掛けに、アイトと同じかな、と前置きをして、ミーティアは言う。
「聞いた事があるの。トーカに似た声を。その声は、ミーティア達が傷つくのをとても嫌がってた」
もしかしたら、回復ばかりさせていた自分の声だろうか、と桃花は気恥ずかしくなって、ポットをテーブルの上に置いた。
回復に特化したアイトやミーティアには迷惑だったかもしれない、と思っていたが、彼女はそうは感じてはいなかったらしい。
「ミーティア達が上手く〝舞台〟をこなせる事を望んでくれる人はたくさんいたけれど、ミーティア達の痛みを見てくれる人はあまりいなかった」
「でも、上手くこなせれば、傷付かないんじゃない?」
実際、幼い頃に仲良くしていた幼馴染みは、回復や防御より攻撃を優先する事で、傷付かずに敵を倒す戦い方をしていた。
その事に、上手くこなせるようになれば傷付かずに済むのは確かだけど、と彼女は言って、柔らかく、慈しみをもった笑みを浮かべていて。
「ミーティアは、ミーティア達の痛みを自分の痛みのように共有してくれる事が、嬉しかったの。そういう優しさが、ミーティアには必要だったの」
だから、トーカにもそうしてあげたかった。
その言葉に、彼女の生い立ちを思い出して、桃花はすとんと納得がいった。
そう告げるミーティアは、幼い頃にイズナグルからヴァレン達の世界へとたった一人で飛ばされ、途方に暮れてさまよっている時に、ある村の女性に拾われる。
その女性が母親代わりとして育ててくれ、二人で慎ましく暮らしている所に、ヴァレン達が現れ、紆余曲折あり、行動を共にするようになるのだけれど、知らない土地で一人きり、という事がどういう事なのか、きっと彼女は身をもって知っているのだろう。
だからきっと、極力不安にさせないように気遣っていたに違いない。
ミーティアの言葉に、桃花は、は、と息を吐き出して、眼をぎゅうっと瞑った。
先程の不満とも不安ともつかない気持ちが何なのか、わかる気がして。
鼻をすんと鳴らして、顔を俯かせたまま、目蓋を開ける。
だって、自分が願っている事は、昔から変わらない。
「でも、もし、私が此処に居る事で皆が辛い目に合うなら、嫌だよ」
湧き上がってくる気持ちのままに、桃花は言葉を続ける。
「大好きな世界が、大好きな人達が、傷つくのはやっぱり嫌。それが当たり前だとしても、私は、そんな簡単には割り切れない」
でも、一体自分に何が出来るというのだろう。
もし仮にそんな力が手にする事が出来るなら、ちゃんと立ち向かえるのだろうか、とも思うのだ。
こんな風に現実から逃げている自分に、何か出来るのだろうか、と。
「異変は確かにある。今はまだ大きくはないが」
でもそれは、いつか大きな事が起きる可能性があるという事でもある。
それをはっきりと告げるシージェスは、厳しいけれど優しい人なのだろう。
ヴァレンと同じ、正しい事を正しく言える人だ。
そういう人は嫌われてしまいがちだが、信用出来る人である事を、桃花は知っている。
「もしかして、ディアヴルアルサーが世界に影響を及ぼしているって事?」
問い掛けに、ミーティアは申し訳なさそうに俯いて口を噤んでしまった。
暫く沈黙が落ち、桃花が不安になって二人を交互に見ていると、ミーティアが重苦しい口を開いていて。
「トーカ、ミーティア達はね、ディアヴルアルサーについて一部分しか記憶がないの」
その時になって、何故か先のミーティア達の言葉が、頭の中を過る。
〝観客〟の人達が、二人が一緒にいられるようにしてくれた、という言葉。
それは、此方の世界に自分が介入出来る、という事ではないのか。
「……ど、ういう、事?」
微かに震える指先を誤魔化すように握り締めても、声の震えまでは抑えられずに、桃花は思わず唇を強く噛み締めた。
何だか、嫌な予感がする。
嫌な予感だけは、不思議といつも当たるものだ。
悲しそうな顔をするミーティアを慮ってか、静かに息を吐き出したシージェスが問い掛けに答えてくれる。
「ディアヴルアルサーがどういうものであり、真に戦うものである事は理解している。ヴァレン達が戦った事のある敵だという事も。だが、それ以外の記憶は抹消されるんだ」
そして、と言葉を続けるシージェスの、僅かに躊躇うような姿に、桃花は嫌な予感が当たった事を理解した。
「奴の居場所を突き止め、倒す為には、ヴァレン達の行動全てに〝観客〟の指示が必要になる」
この世界に逃げてきたような自分に、一体、何が出来るのだろう。
暑さで汗をかいたグラスから、水滴が涙のように繋がって流れ落ちていた。