帰宅
桃花が街から帰宅すると、夕暮れを迎えた室内にはうっすらと橙色が入り込んでいた。
帰ってきた時、窓から漏れる淡い光や食事を作る過程のまろやかな香りは、桃花にとって、ずっと遠ざけていたくせに欲しがっていたものでも、あって、そうした柔らかな空気に包まれた家に帰る事の喜びを、桃花は此処に来てから心底実感したものだ。
両手に持った荷物を抱え直してリビングを開けると、既に着替えを済まし、いつものようにリビングテーブルでカップを傾けていたクトリアが、お帰り、と声をかけてくれた。
「クトリア、お帰りなさい!」
出迎え出来なくてごめんなさい、と謝れば、彼は小さく首を振っていて、その微かな感情表現は、桃花をすっかり安心させてくれる。
見た限りで大きな怪我をしている様子もなく、出発前にあった緊張感のある空気も微塵も感じない。
休んでいた筈のホエイルも、いつも通り忙しなくキッチンを動き回っていて、桃花が買い出ししたものの中から調味料類を手渡すと、少し困ったような笑顔を返してくれる。
きっとクトリアが帰ってきてくれた嬉しさと、彼の為に沢山用意していた料理を仕上げるので、気持ちが忙しいのだろう。
クトリアがいない間もホエイルはいつもと変わらず家事をこなしていたけれど、いつもより一つ少ないお皿やカップの数、埋まらない席、少ない洗濯物——、そうしたものを見る度に、小さく息を吐き出していたのを、桃花はよく知っている。
「トーカもお茶飲んで休んで! 疲れたでしょう?」
まろやかな黄色のぽってりとした形のカップを手渡してくるホエイルに、桃花は慌てて手伝いを申し出たが、ホエイルも疲れたからちょっと休憩、とピンク色のカップを持ち上げているので、桃花はその言葉に甘えて席に着いた。
クラフトマーガレットティーに角砂糖を一つだけ入れ、スプーンでかき混ぜてから少しずつ飲み込むと、ほう、と吐息が零れる。
「でも、良かったです。大きな怪我とかしてなさそうで」
嬉しくて満面の笑みを浮かべてそう言うと、クトリアは静かに瞬きを繰り返してから頷いた。
何事もなかったのなら、それに越した事はない。
クトリアが幾ら強いとしても、やはりこうしていつものように顔を見て挨拶が出来る事は、嬉しいものだ。
桃花は側に置いていた買い物が入った紙袋を見て、二人に向けて口を開いた。
「あの、二人に渡したいものがあるんですけど、良いですか?」
そう言って紙袋の中から目的のものを取り出して、丁寧に机の上に置いていく。
小さな瓶が二つに、陶器で出来た平べったい入れ物が一つ、それから、可愛らしい小さな紙袋が一つ。
それは、ピティ達と別れてから、道具屋で購入してきたのだ。
瓶と陶器の入れ物をクトリアに、紙袋をホエイルに差し出すと、二人は同じように不思議そうな顔をしている。
クトリアに渡したのは傷薬と回復アイテムで、モンスターと戦う事がある彼のなら、例え使わなくても困るものでもないだろう、と思って買ってきたのだ。
ゲームをしていた時には、回復魔法どころか回復アイテムさえ上限限界まで買う癖があるので、つい大量に買ってしまいそうになったが、此処ではかさばる上に重さもきちんと感じる為に、最低限の数にしておいたのは桃花だけの秘密だ。
「今更ではあるんですけど、何かあった時に使えるだろうし、お守りがわりでも良いかな、って思って」
苦笑いを浮かべてそう言うと、クトリアは柔らかく眼を細めて頷いてくれる。細やかな変化だけれど、彼が喜んでいてくれている証拠だ。
その隣で袋を開けたホエイルは、わっと声を上げて小さな銀色のクッキー型を取り出して、嬉しそうに笑顔を浮かべてくれる。
ホエイルはその時その時で食器類を選んで使用していて、食事の内容や相手によって選ぶものが変わるので、手作りの菓子も合わせられたらバリエーションも増えて楽しいのではないか、と考えたのである。
家事の道具は収納を圧迫する事があるけれど、クッキーの型くらいならば大きくないので無理のない範囲ではないのではないか、と思ったが、彼女の様子を見る限り、それも大丈夫そうだ。
「スタンプみたいに押し付けると模様がつけられるもの見つけたんだ。ポットとかカップの柄とお揃いに出来たら楽しいかなって思って」
「ありがとう! 嬉しい! 大事にするね!」
「こちらこそ、いつもありがとう」
ホエイルとクトリアの喜び方は全く違うものだが、桃花にはどちらもとても嬉しいものだ。
幼い頃に仲良くしていた男の子にも、ゲームの攻略で躓いていた時にアドバイスをくれたお礼として、手作りのお菓子や赤で統一した文房具をプレゼントしていたものだ。
彼は優しいから、いつだって喜んでいてくれたけれど、桃花がこうして二人に贈り物をしたのも、彼の事があったからかもしれない。
「トーカは贈り物が上手だね」
ホエイルはそう言って、カップの中身が少なくなってきたのを見計らって、キッチンに戻ってポットに新しいものを作っている。
「私、雑貨屋で勤めていたから、誰かの為に選んだりするの慣れているのかも?」
誕生日やちょっとしたお返しに何か良いものがないか探している、という要望で接客する事はよくあるもので、時間がある時には雑誌やインターネットでその時々に合う贈り物を調べているのだ。
それが自分の為なのか、仕事の為なのか……、今でもよくわからないけれど、嫌な事ばかりが目について辟易していたが、自分を形作っているものは、そうしたものの積み重ねなのかもしれない。
それなら納得だね、とホエイルは言って、だって整理整頓も掃除もちゃんとしてるもん、と付け足してくれるので、桃花は照れ臭くてつい口元が緩んでしまう。
褒められる事に慣れていないので手持ち無沙汰にカップを揺らしながら、桃花は慌てて他の話題を探した。
「そ、そうだ、聖域は大丈夫だったんですか?」
「一先ずは。ただ、」
クトリアは目を眇めると言葉を切って、カップに口をつけた。彼にしては、少し煮え切らない態度だ。
不思議に思って見つめていると、彼は首を振って、小さく息を吐き出している。
「あまり見ないモンスターがいた」
「もしかして、ベネトフロッシュ?」
そう言って、ホエイルが心底嫌そうな顔をしているのは、それが面倒な状態異常を引き起こすモンスターだからだろう。
ベネトフロッシュは思いつく限りの状態異常を引き起こす攻撃をするので、下手に行動していると一気に全滅してしまう、厄介なモンスターだ。
「ホエイル、あれすっごく嫌い」
ホエイルは今までに見た事も無いしかめ面をしているので、きっと散々嫌な思いをしたのだろう。その様子に、クトリアは目蓋を閉じて頷いている。
「あれは俺が相手をする。無理をしなくていい」
「はあい」
仲の良い兄妹の微笑ましいやり取りに桃花がにこにこしていると、珍しくクトリアが口元に手を当てて咳払いをしていた。
少し恥ずかしかったのかもしれないが、桃花にとって、二人の知らない一面を見れるのは、二人と距離が近づいた気がして嬉しいものだ。
新しく淹れたクラフトマーガレットティーをカップに入れてくれるホエイルにお礼を言うと、クトリアは静かに口を開いていた。
「帰りにシージェス達と会ったが、イズナグルでもモンスターの数が増えてきているらしい」
「あっちでも災害が増えてるんだっけ?」
ホエイルがそう言うとクトリアは頷いて、そのようだ、と返している。
ゲームの冒頭時点で、イズナグルはもうエネルギーが枯渇していて、荒廃した大地が続く世界になっていた。
終盤に差し掛かると地震や竜巻き等の災害も加わり、いつ崩壊してもおかしくない状態だったのだけれど、この世界でも同じ状況なのだろうか。
そう思って問いかけると、ホエイルは首を傾けて難しい顔をしている。
「荒れてはいるけど、今すぐどうにかなるって程じゃないよね?」
「災害も、最近になって増えてきただけだ。心配しなくて良い」
クトリア達はそう安心させるように言ってくれるけれど、と、桃花は手にしていたカップをテーブルに置いて、考える。
もしかして、自分が此処に居る事で何らかの変化があったのだろうか……、考えたくはないけれど、そう考えた方が何もかも辻褄が合う気がして、知らず両手を握り締めた。
白くなる程強く握り締めた手のひらに、伸びてきた爪が食い込んで、痛い。
普段は気にもしないのに、こうした時ばかり煩く響いてくる心臓の音に混じって、クトリアが名前を呼んでいる声がする。
のろのろと顔を上げると、彼は少し躊躇うように口を開いた。
「ミーティア達がマティリアを案内したいと言っていた。明日来るそうだ」
「え?」
マティリアは、ゲームでヴァレン達がリーヴァの街から逃げて次に向かう街だ。
一体どうして急にそんな事を言い出したのだろう、と不思議に思っていると、ホエイルはポットをキッチンに戻して首を傾けている。
「ミーティア、気にしてたんじゃないのかな? トーカを色々案内したいって言ってたけど、最近ちょっと忙しそうだったし」
ホエイルの発言に、同意する様にクトリアは頷く。
だけど、聖域で普段現れないモンスターが出てきたり、イズナグルで災害が増えている、といった、大変な時に他の街の案内などして貰っていて良いのだろうか、と不安になっていると、クトリアは小さく首を振っている。
「トーカは〝観客〟だろう。何か知りたい事があるかもしれない。そう深く考えなくて良い」
「……はい」
きっと不安にさせないようにそう言ってくれているのだろう。
唇を噛み締めて頷くと、背中から小さな腕が伸びていて、大きく瞬きすれば、ホエイルが抱きついて無邪気な笑顔で覗き込んでいる。
「じゃあ、難しい話おしまーい! もうおなかぺこぺこだよ」
「そうだな、食事にしよう。トーカ、手伝ってくれるか?」
抱き着いてくるホエイルのあたたかい体温と、ささやかだけれど優しいクトリアの気遣いに、桃花は大きく深呼吸をしてから、元気良く返事をした。