表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/49

始まり



視界の隅に映り込む赤と白の電灯が、不規則に光をばら撒いている。

レンガ造りの建物がひしめくように建つその場所で、桃花は足元を見つめた。

転んだ足からじわりと染み込む水分が、異物のように感じられる。

そもそも、異物なのはどちらなのだろう。

考えて、ゆっくりと視線を上げた。

冷たい空気が、辺りに落ちた暗闇が、此処を今までの世界ではないと知らしめているようで。


「誰だ、お前は!!」


激昂するように叫ぶ目の前の少年に、既視感を覚えながらも、桃花は怯えた。

確かに彼は、自分の好きなゲームの主人公に、そっくりだった、から。


一体、どうしてこんな事になってしまったのだろう。

意識が飛びかねない緊迫した状況で、桃花はぼんやりと、それまでを思い出していた。



***



 自宅から徒歩五分の駅で電車に乗って、約一時間。乗り継ぎは一度だけ。

 駅から直通の長いエスカレーターに乗り、ひたすらに高い建物の中をぐんぐんと登りながら、携帯電話を片手に辺りを見回した桃花(とうか)は、途方も無い気持ちになりながら、そっと息を吐き出した。

 やっとの事で辿り着いたのは、駅に直結している大型の複合施設で、中は沢山のテナントが入り、何処からか現れてきた多勢の人々が、各々楽しげに店先で談笑したり買い物を楽しんでいる。 

 電車の移動はぼんやりと景色を眺めているのが好きなので苦痛を感じる事はないのだが、どうしてもこの、一体何処から溢れ出てきたのだろう、と思える程の人混みだけは、一生涯好きになれそうもない、と、桃花は思う。

 折角の休日はいつも通りに、殻の中で息を潜めた亀の様に自宅で閉じこもっていたいと思っていたが、色取り取りの雑貨や洋服等を並べている店を見ているのは嫌いではないから、ささくれた気持ちも、少しは救われているだろうか。


 長波桃花(ながなみとうか)という、可愛らしさにフリルとリボンをつけたような名前は、もうじき二十代も後半に差し掛かるという今現在の年齢的にも、似つかわしくないにも程がある、と彼女は思う。

 名前に反して168cmという、平均より少しばかり高めの身長と、昔から悩まされている癖の強い髪のお陰で、学生時代はまるで外国の女の子みたいとからかわれていたものだ。

 今ではすっかり割り切ってしまい、髪も短く切って赤毛風に染め、細身のジーンズやサロペット等を着るようになったので、すっかりボーイッシュな格好ばかりになってしまったけれど、今日ばかりは、と、以前買ったまま暫く仕舞い込んでいた紺色のドット柄ワンピースにデニムジャケットを合わせ、バランスを取った服装でまとめている。

 スニーカーやバッグをもう少し可愛らしくしても良かっただろうか。

 そう店先に並ぶマネキンや綺麗に畳まれ並べられている服や鞄等を眺めながら考えるけれど、生活雑貨を中心に扱っている店で十年近く働いている為か、考えはすぐさま商品の陳列や品揃え、原価等を計算してしまう辺り、すっかり仕事に明け暮れた生活を送ってしまっているな、と桃花はしみじみ思う。

 裕福では無いが貧乏という程でもない、極々一般的な家庭で育ち、平均的な学校に通い、就職と同時に一人暮らしを始めたのだが、これまで慣れない家事と仕事にパンク寸前になる程に慌ただしい生活をしていたものだ。

 雑貨が好きで入社し、勤めてきた今の仕事は好きだけれど、長時間の立ち仕事で足は浮腫んで痛み、職場の人間関係は派閥が出来ていて皆が疑心暗鬼、接客業故の理不尽な客からのクレームや人の罪悪感につけ込んだサービス残業は、少しずつ体力と神経を蝕んでいる。


 昔から大好きで寝る間も惜しんでやっていたゲームも、子供の頃のようにわくわくする事も無く、購入したまま、酷い時にはレジ袋に入れられたまま積み上げていて、空いた時間にはアプリゲームのログインボーナスを貰うだけの有様だ。

 辛い事や悲しい事があってもゲームさえしていれば別世界の住人になれたような気がしていたし、ゲームのキャラクター達は友達の様に親しみを感じれていて、いつも彼等の言葉に励まされ、何があっても乗り越えられた。

 なのに、一体いつからそんな気持ちを失くしてしまったのだろう。

 何処にも出口の無い生き方に、上手く息が出来ない、と感じる事も多くなってきた、と桃花は思う。

 そうして薄い空気を吸うように少しずつ苦しくなりながら、何となく年を取って、何となく誰かと結婚して、子供を産んで、そのまま、このまま、居場所が無いかのように感じる心細さを抱えながら、何処にも行けないと嘆くような矛盾を抱えたまま、生涯を終えるのだろう、と思っていた矢先の事。

 その時、偶然インターネットでふと見かけた記事に、桃花は眼を離せなくなっていたのだ。


 『グラーティア・ストーリア』


 それは、もう十数年前になる、桃花がまだ小学生だった頃に販売され、人気を博した、ロールプレイングゲームだ。

 ファンタジー要素の強かった当時のゲームの中で、近未来的な機械や街並みを混ぜ込みながらも多数の文化を融合させた世界観や、独特な民族系の音楽、他のゲームとは群を抜く程の素晴らしいグラフィックを見た瞬間の、あの肌が騒めく感覚は、今でも忘れられない。

 人気作故に当然続編の期待も高まったのだが、前作の素晴らしさからか、世間からの期待値はとても高く、スタッフの重圧も凄まじかった事だろう。

 二作目の制作中に社内で内部分裂を起こし、製作スタッフは様々な他社に散ってしまったと噂が流れ、続編の話はそれ以降有耶無耶になってしまったのだ。

 リメイクを望む声は多い筈なのだが、今現在その素振りさえ見せないという有様。

 ともかく、今日はそのゲームの曲を、有名な交響楽団の生演奏で聴けるコンサートが行われるのである。

 きっと今までが変わる事は無いけれど、ずっともやもやしたこの気持ちのまま過ごすのだろうけれど、それでも、このコンサートが開催される事を知った時、桃花はそれまでの色褪せた景色がワントーン明るくなったと感じたのだ。


 駅前のビルを抜け、突き抜ける程に眩しい青空と、白いタイルが特徴の広場から続く通路を歩いて見えるのは、くすみがかっているけれど光が反射し輝く海と、本日の会場であるコンサートホールがある、白い壁とガラスが特徴のコンベンションセンターである。

 会場前のガラス扉の前には既にぎゅうぎゅうに押し込まれたような人の列が出来ていて、最後尾の札を持つスタッフを見つけた人々は急いた様子でその後ろに早足で並ぼうとしていた。

 熱狂的なファンによるグッズの争奪戦にはどうあっても勝てる気がしないので、物販はとうに諦めていたのだが、矢張り昼の部の先行販売は完売のようで、昼前という時間帯だというのに、夕方の部に販売する物販の張り紙の側には数人の列が出来ている。

 開場してからも物販はあるのだし、そう焦る事は無い、と、桃花は浮つく足が走り出す事が無いように気をつけながら、最後尾の列に並んだ。

 駅や電車での人混みは不快でしかないのに対し、こうして並ぶ人々の列に並んでると、不思議とほっとしてしまう。

 話す事は無くとも、同じ趣味で繋がるという関係性に、親近感を感じてしまうのかもしれない。

 あまり不快に見えないように視線を巡らせて周りを見ると、桃花と近い年齢の者が多いが、男女の差はあまりないようで、服装もスーツであったり、ジーパンとパーカーの様なカジュアルなものであったり、パニエでボリュームを出したロリータワンピースを着ていたりと、様々だ。

 少し地味だっただろうか、と自身の無難な格好を見下ろしたが、あまりに気合を入れても元々の骨格がしっかりしているので、この程度が丁度良いのかもしれない、と桃花は思う。

 中には仲良く手を繋いでいるカップルもいるが、幼い頃に良くある男子からの苛めですっかり男性に不信感を抱いてしまっていたし、学生時代に何となく流れで付き合う事になった彼氏にも、部活に現を抜かしている間に振られてしまったので、恋愛経験は殆ど無い、と言っても良い。

 他人が羨ましい、という考えもなくはない。

 が、そう言った所で、何か行動に移す気にもなれない。

 今はそのエネルギーさえ仕事や家事に回さなければいけない程に疲弊しきっているから、価値観や生活習慣の違いで誰かと仲良くする事も喧嘩するような事も無くなってしまった。

 それが良いのか悪いのかは、今はもう、わからない。


(そういえば、あいつはどうしてるかな……)


 『グラーティア・ストーリア』を始めるきっかけだったのは、子供の頃に仲良くしていた、ある男の子がやっていたからだった。

 二人で仲良くしている、と周りの男子から冷やかされ苛められてから、すっかり疎遠になってしまったけれど、彼がいなければこの作品には出会えなかった。

 だからと言って、その相手に連絡を取ろうとしない辺りが愚鈍な自分らしいな、と考えて、桃花は携帯電話を取り出すと、電話帳を開いて眺め見る。

 彼もきっと昔の苦い思い出として、頭の片隅に追いやっているに違いない。

 もしかしたら、この会場にいるのかもしれないけれど。

 そんなドラマみたいな事、どんなに願っていたって起きる筈がない。

 いつだって誰だって、行動しなければ、何も変わらないんだから。

 そう考えながら、桃花は小さく苦笑いを浮かべて、深く長く息を吐き出した。

 三十分程待ってから開場すると、騒がしかった人々の声はより一層大きくなり、桃花は会場に入って早々に物販の列に並んだ。

 パンフレットと会場限定販売のオルゴールだけはどうしても手に入れたかったのだが、スタッフが手渡してくれたグッズの一覧を見ている内に、トートバッグやキーホルダー等にも心が揺られ、会計をする時にはグッズで両手が一杯だったのは、幼い頃からの情熱が爆発しているこの状態では致し方無い事だと思いたい、所存。

 トイレなどを済まし、席に着いた時には開演の五分前で、パンフレットを熟読出来なかったのは悔やまれたが、買い込んだグッズをつい先程買ったばかりのトートバッグに仕舞い込んでいる間、周囲の人々が話している『グラーティア・ストーリア』の話をこっそり聞いているのも楽しかった。

 どのキャラクターが好きだっただとか、どの程度やり込んだだとか、あのイベントで流れる曲が好きだっただとか、思い思いに話しているのが何だかとても不思議で、とても嬉しいのだ。

 例え見知らぬ人達だとしても、誰かと好きなものを共有できるというのはとても嬉しい事だ、と流れるようにステージに入ってくる演奏者達に拍手を送りながら、桃花は考える。

 そういうものを家族や友人等と共有出来たなら良かったけれど、結局は、人間は生まれ落ちた時点で個々で分かたれた生き物なのだろう、と。

 暗い会場の中、ステージだけは眩く、綺麗な扇型に並んだ楽器達は宝石の様にきらきらと輝いていて。

 燕尾服を着た細身の若い指揮者がステージに入ってくると、拍手の音は最高潮になり、丁寧にお辞儀をしている指揮者は、はにかんで笑いながら背を向けて、指揮棒を掲げた。

 一気に会場の中は拍手の余韻を残す事無く静まり返り、指揮棒が下された瞬間に溢れてきた、そのたった一音で、肌がぶわりと震えているのが判った。

 ステージの上には大きなスクリーンがあり、ゲームのオープニング映像とオーケストラの生演奏が懐かしさと新鮮さを混ぜ合わせながら、過去と現在を見事に繋げている。

 このゲームをしていたあの頃。

 桃花は考えて、ファンファーレを高らかに響かせるトランペットに耳を傾ける。

 このゲームをしていたあの頃は、ずっとこのゲームの事ばかり飽きれる程に考えていて、学校から帰ったら次は何処に行こう、シナリオの続きをやろうかレベル上げをしようか、それとも気になっていた装備を手に入れようか、等と考えては、朝からそわそわしていたものだ。

 胸の底が騒めいて、鼻の奥がつんとする。

 感情を無くしていたように生きていた自分に、あたたかな血が流れていて、鼓動を鳴らす器官があるのだ、と身体全体で理解して、桃花は口元を両手で押さえた。

 無くしてしまったと思っていたものは、確かに胸の奥に大切にしまわれていたのだと、感じながら。



 ***



「終わっちゃったあ……」


 割れんばかりの拍手と、二度のアンコールに答えてくれたオーケストラの団員がステージを去っていくと同時に、どっと出口に流れていく人々の波に辟易して、暫し席に腰かけたまま流れを眺めて、桃花は思わず呟いた。

 ストーリーに沿って劇中曲を演奏し、当時のプロデューサーや作曲者達が曲の合間に制作当時の苦労等を話してくれ、盛り上がりが超点に達した所で、特に人気がある、主人公が絶望しながらも立ち上がる場面に流れる挿入歌……、演奏やムービーは勿論、演出やセットリスト、照明すらも文句のつけようがないもので、ここまで素晴らしいものだとは正直思っていなかった。

 燃え尽きたように呆けた顔で出口に向かう人の列を見ても、皆楽しそうに感想を言い合ったり、浮かべた涙をハンカチで拭っていたり、反応は様々だけれど、誰もがとても満足そうに見える。

 かく言う桃花も開始直後のメインテーマが流れた時点で既に視界が揺らいでいたのだが、涙で折角の映像や演奏に集中出来ずにいるのは嫌なので、ずっと耐え続けていたのだ。

 次第に疎らになっていく人々に合わせてホールを出ると、外はもう黄金色が混ざり始めていて、携帯で時間を確認すると、もう午後四時近く。

 早く帰って夕飯の準備をしなければならないし、洗濯物も取り込まないと冷たくなってしまう。

 お風呂の洗剤も足りないから駅前のドラッグストアに行かなければならないし、夕食と明日の朝食用に食材を買い足す必要もあるので、スーパーにも行かなければならない。

 そうして急激に現実に引き戻されて、思わず零れたのは、溜息。

 硝子で覆われたホールの廊下を歩きながら淡い青からに暮れていく橙の空を眺め、会場を去るのを名残惜しみつつ出来る限りのんびりと歩いた。

 廊下を抜けた先にあるロビーには、アンコールの曲目が貼り出されていたり、開場時には物販に並んでいたのできちんと見ていられなかった、色取り取りのフラワースタンドが沢山並んでいて、まだ沢山の人達が携帯電話で写真を撮っている。

 もう数十年前の作品なのに、此処まで人を熱狂させ、感動させるなんて、本当に不思議で。

 帰りたくないな、と、思う。

 帰りたく、ない。

 だからといって、帰る場所だなんて、今住んでいる部屋以外にないのだし、忙しさにかまけてずっと連絡を取らずにいた実家にも帰り辛い。

 学生時代の友人は仕事を始めてから疎遠になり、女の友情だなんてそんなものなのだろう、と、鳴らない携帯電話はすっかりネットサーフィンとアプリゲームの機械と化している。

 居場所と呼べる居場所が本当に自分にはあるのだろうか……、幸せではないけれど、決して不幸というわけではない、ただぼんやりとして微睡むような、そんな毎日。

 生温くて不確かなものばかりで出来た世界で、自分はこのまま過ごしていくのだろうか、と再び桃花は思い、浮つく足でロビーを抜けて、外に出る。

 少し肌寒いが、電車に乗ってしまえばきっとあたたかいだろう。

 短い髪は海風に吹かれても絡まらないから良かった、となびいたロングヘアの女性達がきゃあきゃあ騒いでいるのを少しばかり不憫に感じながら、橙の夕陽に照らされて輝いている海を眺めた。

 『グラーティア・ストーリア』の主人公は、寡黙で冷静沈着な、ヴァレン・トーニアという少年である。

 彼の存在は当時流行っていた熱血漢な主人公像に一石を投じる存在であり、常に冷静沈着で人当たりも良いとは言えないが、その癖、困っている人に手を差し出す事を厭わないという性格で、アシンメトリーな黒髪に、カジュアルな服装と日本刀、というビジュアルも当時は奇抜ではあったけれど、誰もが彼に憧れていただろう、と思う。

 そんな彼が、海辺の街でヒロインの少女に出会う、というのが物語の始まりであるせいか、それとも自身が海の近くに住んでいない為か、海を見ると少しだけ、胸が弾むような心地になるもので、常ならば考えもしない事を思いついて、足を白いタイル張りの広場から、海の側にある、手摺の付いた歩道へ続く階段へと足を向けた。

 駅前のビル群をバックに海を撮れば、大好きなゲームの事も今回のコンサートの事も思い出して、日々の鬱蒼とした気持ちも少しは晴れるかもしれないし、今感じている名残惜しさも収まるだろう、と考えたのだ。

 ポケットにしまっていた携帯電話を取り出して、階段へと足を踏み出した瞬間、がくん、と地震にも似た振動を感じて視界がぐるりと回り、桃花は思わず声を上げて尻餅をついてしまう。

 ……なんて、ついてない。

 元から運が良い方では無いけれど、本当に今日はついてない、と考えて、階段の下まで転がり落ちてしまった携帯電話を取ろうとして立ち上がろうとすると、足元が覚束なかった為か、ソリのように階段の下まで尻餅をついたまま滑り落ちてしまった。

 臀部は段差を跳ねる度に打ち付けていてずきずきと痛むし、立ち上がる時と滑り落ちた時に地面に手をついていたせいで、手のひらが擦り切れていて、痛い。

 皮膚に小さな砂利のような砂が食い込んでじわりと血が滲んでいるが、それよりも、いい年をしてはしゃいで足を踏み外し転んでしまった、という事を周囲に知られたくなくて、慌てて再び立ち上がろうとすると、目の前に手が伸びてきて、いて。


「大丈夫か?」


 差しのべられたその手は黒い革製の手袋に包まれていて、それは使い込まれてはいるが、質が良さそうな革を使っているようで、味わいのある感じがした。

 ああ、そういえば。

 考えて、桃花はぼんやりとその手を取った。

 そう、主人公とヒロインの出会いもこんな風だった、と、ぼんやりと脳内でゲームの画面が再生されていく。

 ヒロインはある組織に狙われていて、追手を撒く為に街中を走り回り、息も絶え絶え、という所で、街外れの階段で足を踏み外してしまい、絶望感で一杯になり、溢れる涙をなんとか拭い、立ち上がろうとしたその時に、主人公がこうして手を差し出して言うのだ。


「追われているのか? 手を貸そう」


 なんて。こんな高揚感、久しぶり過ぎて、胸から心臓が飛び出してきそう。

 そう桃花が考えて笑っていると、目の前の赤い瞳が怪訝そうに見つめている。

 いきなりゲームの台詞を言う人物なんて、不審そうに見つめてきても可笑しくはないだろう。

 けれど、赤い目、というものに違和感を覚えて、桃花は目の前の人をじっと観察してしまった。

 年齢は二十歳くらいだろうか。

 整った顔立ちにアシンメトリーな黒髪、ワインレッドのライダースジャケットに黒のスラックスという服装、それから、切長の赤い瞳。

 その姿はまるで、『グラーティア・ストーリア』の主人公のよう。

 許可が下りていないイベントでコスプレをして来るのはマナー違反だ、と聞くけれど、この主人公に至っては衣装にはあまり見えないのもあって、コスプレ姿で来てしまった者もいるのかもしれない。

 最近のコスプレイヤーはクオリティが高いのだな、等と感心して、桃花は差し出されたままの手を取り立ち上がった。


「ごめんね、君がヴァレンにあまりに似てたものだから、つい、ゲームの台詞を……」


 照れ臭くて苦笑いを浮かべながら言い訳をしていると、掴んでいた掌が突然振り払われて、また、尻餅をついてしまう。

 何なの、と顔を上げれば、彼は眉を歪め、肩を震わせながら、大きく空気を吸い込んだ。


「誰だ、お前は!」


 舞台(ステージ)を滅茶苦茶にしたな!

 そう叫ぶ彼は、激昂した、という言葉を体現しているかのようで、張り上げた声は周囲の空気を震わせる程の音量だ。

 びくりと肩が跳ね上がり、次に来るだろう第二波から身を守る為に、ぎゅうと眼や耳を塞いでしまいたくなるけれど、逸らせば益々怒りを買ってしまう気がして、怖い。

 突然造形の整った青年に怒鳴られる、という、現実的にありそうで無かった体験に思わず桃花はたじろいでしまったが、いやしかし、自分自身、そのように怒られる程の事をしただろうか、と頭を振って縮こまっていた気持ちを奮い立たせる。

 腐っても接客業勤め。数々の理不尽なクレーム対応を行なってきた身だ。年下に怒鳴られた程度で、怯んではいられまい。

 まずは冷静になる事。息を吸って、長めに吐く。胸は張らず、けれど猫背にならないように。大丈夫。いつもと同じ。ただ冷静に。まず謝罪。そして相手の怒りを鎮静化させるように話を聞いて、同調すればいい。

 そう言い聞かせて意を決し、情けなく震える指を抑えて青年を見上げると、横から腕が伸びてきて、いて。


「ヴァレン、たまたま入り込んだ子だろう? あまり怒ったら可哀想じゃないか」

「そうさ。それに、まだアイトの出番じゃないだろう」


 黒いスーツを着た、それも、背が高く体格も良い男性二人が、すらりとしたコスプレイヤー然の青年を囲み、困ったように宥めている。

 突然の出来事に唖然として、それから、掌がずきりと痛み出したので、思わず手を持ち上げて見つめてみると、ゆっくりと違和感がもたげてくる。

 視界が、暗い。

 ぱちり、瞬きをして。皮膚がぶわりと波立つような感覚が訪れると、喉がこくり、と動いた。

 騒いでいた青年は、二人の男性に押さえられながら、此方を見て指差している。


「何を言っている! アイトはそこに……」

「まあまあ! とりあえず冷静になろう!」


 視界が暗いのではなく、景色が暗いのだ、と気がついたのは、背後から伸びる影が桃花に近付いたからで、細く長い指先が肩を掴んできた、と気が付いた瞬間、声にならない悲鳴が喉から飛び出ていて。

 次から次へと起きる出来事に、冷静になろう、等という考えはとうに吹き飛んでいる、有様である。

 あまりの事にその場に蹲ってしまうと、後ろからゆっくりと肩を引いて起き上がらせてくれた、明るい色の髪を揺らした少女が心配そうに見つめていた。


「あなた、どうしたの? 大丈夫?」


 長い睫毛に縁取られた青い大きな瞳を見つめ返して、照らされた電灯の明かりに気付くなんて、どうかしている、と、思う。

 だって、さっきまで、夕方になりかけていたのに。

 桃花は震える口元を押さえて辺りを見回して、思考にならない言葉の羅列が脳内をかけ巡っているのを感じている。

 白いタイル張りの広場が足元に広がっている筈なのに。

 目の前には夕焼けに輝く水面が美しい海が広がっている筈なのに。

 振り返って見えるのはガラス張りのコンベンションセンターの筈なのに。

 震える肩を宥めるかのように撫でてくれる少女を桃花が見上げると、彼女は優しそうに微笑んで、大丈夫よ、と言う。

 大丈夫、って、誰が考えた言い訳なの。

 日常に於いてそう吐き捨ててしまいかねないその言葉は、けれど、こうして困り果てて混乱している状況下では、少しずつ冷静さを取り戻す為の呪文のようで。


「あ、ありがとう……」

「良いのよ、心配しないで」


 目眩かしら。青ざめているし、急に動かない方が良いわ、と高校生くらいの少女という見た目に反して冷静で穏やかな口調は、二十代後半に突入してしまった桃花からしてみるととてもちぐはぐな印象ではあったけれど、年上の女性に感じるような安心感がある。

 裾や袖にレースのついたデニムのジャケットや黒いシフォンのワンピース……というより、ボリュームのあるスカートでミニドレスのように見える服装は、彼女が年若い証拠なのだろう、緩く巻いた髪を二つに結んでいるのもそうだが、彼女の言動と見た目は齟齬を感じずにはいられない。

 少しずつ観察していると、次第に景色にも気を配れるようになり、辺りは薄暗く、赤と白の電灯が不規則にあちこちから光をばら撒いていて、レンガ造りの建物がひしめくように建っている。

 足元はアスファルトだが、大雨の後のようにたっぷりとした水気を帯びていて、人が歩く度にじゃりと音が響き、過敏になっている神経を逆撫でしてくる。

 先程まで騒いでいた青年は、と、視線を動かすと、赤い瞳がじっと見つめているので、思わず桃花は肩を震わせながら眼を瞑ってしまっていた。

 まるでか弱い少女かのような仕草をしている事が滑稽だけれど、致し方無い。

 後ろで肩を撫でてくれていた少女は、その様子に困ったように溜息を吐き出している。


「ヴァレンが怒ったのでしょう? ごめんなさいね、悪気はないのよ」


 彼女がそう言うと、青年は反論しようと口を開きかけていたが、止めに入っていた男性達が、てきぱきと青年を引き剥がす様にレンガ造りの建物の影に押しやり、桃花の側に駆け寄って、少女から抱き留める役を変わっていた。


「具合が悪いかもしれないから、何処かで休ませてあげて頂戴」

「了解しました。さあ、立ち上がれますか?」


 黒服の男性の一人が腕を持って引き上げるのに合わせて、少女がそっと腰を持ち上げてくれるので、すんなりと立ち上がれた。

 少し眩暈がする頭を軽く振りながら、桃花は足の爪先で恐る恐る地面を叩いてみる。

 スニーカーから伝わる硬さ。

 ざりり、と辺りに響いている音。

 現実味を帯びない状況が、すんなりと身体の中に溶けていくようだった。

 一通りの様子を見守っていてくれていたらしい少女は、桃花ににっこり笑いかけると、ドレスの裾を翻し、先程青年が行ってしまった建物の方へと向かおうとしてしまう。

 思わず桃花が後追いの子供のように手を伸ばしてしまうと、彼女は柔らかく笑い、そっと手を握ってくれた。

 その湿度、その温度に、ひとのぬくもりだ、と、桃花は思った。

 暫く忘れていたあたたかさは、けれど直ぐに手を離されて、消えてしまって。


「大丈夫よ。ステージが終わったら直ぐに行くわ。そうね……、レムルの宿屋なら休む事が出来るだろうから、そこで待っていて?」


 まるで子供に言い聞かせるようにそう言うと、彼女は今度こそ建物の方へと走ってしまい、その場に留まったのは、桃花と黒服の男性二人。

 先程の少女と違い、真っ黒のスーツに真っ黒のハット。

 視線が判りにくいサングラスまで着けているという胡散臭さに加え、自分よりも頭一つ分背が高く、それも、体格の良い男性である。

 威圧感を感じるな、という方が土台無理な話であり、桃花ひとり立ち上がらせるにも、腕を引いた片手でひょいと持ち上げてしまう程だ。

 先の少女と話していたとはいえ、どうにも腰が引けてしまうけれど、男性の一人は戯けたピエロのようにハットを持ち上げて、にかりと歯を見せて笑いかけてくれた。

 短く切った髪は明るい橙で、もう一人も桃花が怖がっているのを感じ取ってくれたのか、サングラスを外し、困ったように笑って頭の後ろを掻いている。


「あの、ごめんなさい。ええと、急に、驚いてしまって」

「はは、仕方ないさ。ヴァレンが怒鳴ると大の男でも吃驚するもんだ」

「あいつは声が人一倍でかいからなあ」


 彼等の気さくさに警戒心も解かれていき、桃花はそっと息を吐き出した。

 そう、先程の彼は驚く程大きな声をしていたのだ。

 はっきりとしていてよく通る声、真直ぐに見つめてくる、怒りに満ちた瞳(そう、私の苦手な、あの、正しさを疑わない眼……)、どうにも好きそうにはなれそうにない、と考えて、目の前の二人に向き直ると、ほっとしたせいか、先程まで痛まなかった傷がずきりずきりと痛んでくる。

 思わず手のひらを見ると、砂利が食い込んでいた部分が赤黒く、内出血を起こしている。

 それを見たオレンジ色の髪をした男性は、まるで自分が痛いかのように顔をしかめている。


「酷い怪我だ。皮膚が抉れてるんじゃあないか?」

「そりゃあよくない。宿屋に着いたらすぐ手当てしないとだな」

「あ、ありがとうございます。助かります」


 サングラスを外している方の男性は、体付きはしっかりしているが笑うと幼い印象を受けるので、少なくとも年下ではないだろうと考えてはいたが、それでも人の痛みに心を痛めてくれるのだから、と、桃花は最低限の礼儀で返したけれども、二人はこそばゆいから気さくに話してくれ、と実に軽やかに話してくれた。

 まるで港町のように濡れたアスファルトの地面は、辺りのおどろどろしい光に照らされていて、まるで今にも暗闇から何かが這い出てきそうだ。

 サスペンスドラマの犯人が追い詰められている場面にも似ていて少し背筋が寒くなるが、腕を支えながら二人が一緒に歩いてくれているので、それも少し薄まりつつある。


「あの、さっきの……、彼女達は、何かしているんですか?」

「ああ、中断しちゃったから、またやり直しするんだよ」


 ヴァレンは完璧主義だから、こんな事珍しいんだけどね、ああでも気にしないで、とフォローを欠かず困ったように笑って言ってくれる彼等に、桃花は同じようで全く違う苦笑いを浮かべていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ