決別の過去
数千年前、この世界は魔物、精霊、妖精たちが今よりも自由に生きていた。空も海も、陸も森も。どこかしこも当たり前に彼らは存在していた。
だがそれは人間にとって平和という言葉からは程遠い世界であった。魔物たちが新たに加わった人間という種族に興味を示すのは必然で、悪戯心に危害を加えては畑の作物を盗んだり、荒らしたり、驚かせたり…弱い人間をからかっては遊んでいた。
しかし段々と魔物たちの行為は過激になっていった。
村の娘や子供を攫い、村を襲い、必死に殺さないでくれと頼めば嬲り殺される。殺しを楽しみ始めたのだ。
人間は己を守るために囲いを作って村が荒らされない様努めた。役割を決め、武力を磨き、外からやって来る人間を受け入れては囲いの範囲を広げ強化していった。
村から小さな国へ、小さな国から大きな国へ成長し、以前よりも安全で快適な生活を送れる日々を手に入れたが、それはまやかしの平和。
空中から火を投げ込まれれば囲いの中は死体で溢れ、囲いを破られればまた死体が積み上がる。どう改善しても絶対に安全な場所はなかった。相手は魔力を持った悪魔や鬼、力の強いゴブリンや血を啜るヴァンパイア。人間が魔族に勝てる筈はない。人間達は怯えながら囲いの中で生きるしかなかった。
ある時、何人かの腕の立つ男達は危険を覚悟で雪が降り積もる冷たい土地へと向かった。
各土地から集った人間は各々情報を持っており、その中で″魔力を扱う人間″が居ると聞いたからだ。それが事実なのか定かではないが、もう選択の余地などない人間にとって縋るような思いだった。この残酷な世界から抜け出す手立てが少しでもあるのなら…。
だが噂は本当だった。
到着するや否や失礼を承知でいきなり村へ上がり込むと、門番の隻眼の男は当然の如く何もない所から剣を持ち出し男達に向けた。これが魔術というものか。
事情を話し何とか村長に話を通してもらえたが、村長も冬の民達も顔をしかめた。
自分を自分で守る術があるのに、何故自身や身内を危険に晒してまで見ず知らずの人間達を守らなければならないのか、と。
予想内の返事に男達は食い下がった。
ここは冬の土地。食糧難で、村を見てもガリガリの若者しか居ない。男達は暖かい寝場所と食料を提供すると提案した。村長は渋りに渋ったが、彼らは遂に頭を縦に振った。
冬の民が移住してから何度彼らに助けられたか分からない。安全性はより高まった。
人間は魔力、武力を備え、"来る日"に備えた。
"来る日"というのは、魔族の王が存在すると言われている山脈へ向かい、交渉する事。
こちらから差し出せるものは、この一つの大陸と、冬の土地で取られる宝石、人間と同じかは分からないが食料。それだけだ。人間は少し小さめだがもう一つの大陸に移住すればいい。
今後一切の干渉をしないと魔力契約をしてしまえば手出しはできないだろう。
だがこれで交渉が進むとは思えない。圧倒的不利。殺されに行く様なものだ。山脈までの道のりだって多くの兵を率いたとしても多くの魔族に出くわす。冬の民が居るからと言えど魔力が空になれば終わりだ。
何人魔族の王の元へ辿り着けるだろうか。辿り着けたとして、話が出来る状況に持っていけるか分からない。
後の希望は一人の少年だけ。強い魔力を持ち、武力を備え、頭脳明晰。端正な顔立ちの、まだ20も行かない少年。
冬の土地の中で少年に歯が立つ者はいなかった。
この国の中の武力を自慢とする男も少年には一度も勝てなかった。
戦いは望まない。勝てないから。でも戦いに行くしかない。
このまま人間が、愛する人達が、死に行く様を見ているのにはもう限界だ。怯えずに、外の世界を自由に生きたい。国民はこの少年に全ての希望を託した。
魔族の王と対面するまでにどれ程の人間が死んだのか分からない。冬の民が居たおかげで山脈まで達する事が出来たが、とうとう彼らの魔力も底をついた。武力を持つ兵も深手を負い、気力だけで目の前の敵を切り倒してきた。
女子供を除いた三十万もの兵を率いて来たのが最後に残ったのは二十人余り。
魔族の王は驚いた。たかが人間が二十人もここまで辿り着くことが出来たのだ。目の前に立つ少年は傷一つ無い。
手や服に付いている血は全て返り血。
美しい顔は凍りつきそうな程無表情だった。碧い目は殺意に満ちている。
魔族の王は鳥肌が立った。王である自分にこれ程までに分かりやすい殺意を向ける者など居なかった。居たとしてもすぐに消し炭になってしまう。だが少年は違った。
少年は剣を魔族の王へと向け、殺しにかかった。
交渉をしに来たはずだった。だが、こんなにも人間を殺された少年は“交渉”は無理だと、殺してやろうと、まだ若い少年には理性は抑えられなかった。
少年の対等に渡り合える魔力、武力。瞬発力と判断力。圧倒的な力。見ていた残りの兵は圧巻された。それは魔族の王も同じだった。人間ごときにこの力…まさか…と魔族の王が悟った時には首が撥ねられていた。
人間が魔族に勝利した瞬間だった。
魔族は王の首を晒され、人間から出された条件を飲むしか無かった。
「即刻この大陸から離れた大陸へ移り、一切人間に手を出さないこと
仮にこちらへ魔族が残り、発見した場合は問答無用で切り捨てる」
魔族は少年に従った。
そして少年は1人の魔族を新たな王とする事にした。戦場で一人怯え、人間を殺すのを躊躇った魔族の王の第二王子と呼ばれた者だ。魔族の中では唯一話が分かる、王の血を受け継いだ者。納得がいかないと反乱が起こったとしても彼の魔力に勝てるような魔族もそうそうに居ない。(その第二王子も少年の魔力量には及ばないが)
この瞬間をどれほど待ち望んだか。
魔力による契約を行い、人間と魔族は決別することとなった。
***
「これにより人間達は今も平和に過ごせているのです」
長すぎる歴史をスワンは簡略化して話してくれた。
戦争で勝ったからこそ今日の平和がある。若き勇敢な少年に感謝だ。
目の前で人が殺される情景を思い浮かべるだけで吐き気がする。それでもやらなきゃ大切な人も守れない状況にあるのなら四の五の言わず戦うだろう。私にそんな状況が訪れる事はないけれど、何かあれば身近な人だけは守れる様に知識は付けておこう。
「お嬢様、何かお考えの様ですが危ない事だけはなさらないで下さいね?」
私が考え込んでいる姿に何を想像したのかスワンは心配そうに言った。
そうか、お転婆娘と聞いているのだから私が騎士見習いになる、とでも言いだすのかと心配いているのね。
「先生。私は公爵令嬢ですよ?でも何千年前のお話よね。今魔族に襲われたらどうなるのかしら」
「お嬢様がご心配されるような事はないですよ。今は昔よりも優れた者が多いですから」
騎士の国、冬の国、中央の国は特に戦闘に置いて優れている。騎士の国はあの戦争で生き残った最強の男を称え土地が与えられて出来た。
冬の国は基ある慣れ親しんだ土地が欲しいと言った冬の民に与えられ、中央の国は今まで村から国まで作り上げた男が治める事となった。七つの国の頂点に君臨する中央の国では最近、精霊騎士という部署が新設されたらしい。
あの少年はどこか旅に出て、皆戦争後の少年の行方は分からなかったそうだ。
この数千年で人間は昔よりも強くなった。…でも圧倒的な力を持つあの少年はもう居ない。
「…もし仮に…魔族で内乱が起きて、王家が破綻してしまったとしても、大丈夫なの?」
「ふふっ。実は怖がりなのですか?そんなことが起こらないと願いたいですね」
「そ、そうね...」
大丈夫、とは言い切れないのね。
この案件、中央の国にも届いていれば良いのだけれど。
冷たくなった指先を暖かいお茶が入ったカップで温め、午前の授業を終えた。