こちら側の世界
クラレンス視点
ぼやけた視界の中で、誰かが俺を呼ぶ声が頭の中で響く。聞こえていると答えていたのだが、俺が何を言っても彼には聞こえないらしい。磯の香りは鮮明に覚えているのに、彼が誰だったのか…考える前に俺はまた暗闇へと落ちていった。
目が覚めると、そこは全く見覚えのない高い天井。
ずっと、何か悪い夢を見ていたのかと思うほどゆっくりとした時間が流れている気分だ。だが、何の夢を見ていたのか覚えていない。
何故か傷だらけの痩せ細った体は何日も食事をきちんと取れていないみたいだった。その細い腕には何やらチューブが繋がった針のようなものが刺さっていた。よく分からないのでブチッと抜いたのだが、一体これは何なのだろうか。
そんな時静かな空間に、コンコンと扉を叩く音が響き、見知らぬ若い男が部屋の中へ入ってきた。
「お目覚めになられたのですね。すぐにお医者様をお呼び致します」
男は持っていた何かを机に置くと、すぐにまた出て行ってしまった。俺に何があったのか色々と話を聞きたかったのだが残念だ。
それから男が呼んだであろう老いぼれた男が、俺の目や舌、腕が上がるかなどを診察していった。チューブが繋がった針を再び俺の腕に刺し、この袋の中の液体が無くなるまで外さないでくれと言われた。俺はゆっくりと頭を縦に振る。
「ではまた明日観に来ます。失礼します」
「ありがとうございました」
若い男が老爺を外まで見送っていると、その間に騒がしい銀髪の男が部屋へ入ってきた。涙を浮かべた男は、俺を見て「良かったぁ」と一言零す。何故そのように思うのか分からないが、胸の奥が温かかくなった。
その後すぐにこの男の付き人らしき男が入ってきて、ゴホンと咳き込むと、軟弱そうにしていた男は表情を引き締めた。
「僕はフェタリナーツェ家当主、アッシュバーン・フェタリナーツェ。海辺で倒れていた君を私の家に運ばせてもらった」
「クラレンスだ…感謝する」
銀髪の男は、ふにゃりと笑った。まだ出会って数分しか経っていないのにコロコロと表情を変える、なんだか弱そうな男だ。
アッシュバーンと名乗った男は俺に何があったのか執拗に聞いてきたが、何も覚えていないと答えると分りやすく肩を落とした。一時的に記憶が欠落しているかあるいはただ頭が混乱しているかのどちらかだろう。
自分が何者なのかは覚えている。だが、何故ここに居るのかは分からない。数日間の記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。
付き人の男はアッシュバーンに何やら耳打ちをした。内容は聞こえなかったが、彼らの表情からして恐らく良い話ではないだろう。アッシュバーンも「分かってる」とだけ返し、深い溜息を付く。
「…記憶が戻るまでここに居ればいい、と気前よく言えたら良かったんだけどな。ちょっと家族会議をしてからでないと僕もこの家から追い出されそうなんでね…」
「構わない。十分だ」
アッシュバーンにも家族がいるらしい。当たり前といえば当たり前か。まだ若く見える。妻や子が居ても不思議では無い。主人であるアッシュバーンが追い出されそうなほどに、俺は迷惑を掛けているみたいだ。如何にもトラブルを持っていそうな男を拾ってくるアッシュバーンもアッシュバーンなのだが。
本来ならば今すぐにでも出て行きたいところなのだが、アッシュバーンも医者も許してはくれなかった。
それから俺はフェタリナーツェ家で療養生活を過ごすこととなった。
最初の三日はベッドから動けず、食事は点滴という液体から口にし易い液状の何か、柔らかい固形物と少しずつ胃に入れて行き、四日目以降は少量であるが普通の食事を用意してもらった。
寝てばかりでは退屈だろうと、アッシュバーンは本を何冊か持ってきてくれた。新聞という毎日の出来事が載った紙の束を読むのは、記憶の良い刺激になるかもしれないと出来る限り読ませてもらった。
分かったことは、ここがフロリエンスという国で、今は花の季節という暖かな気候の時期だということ。
最近の流行はパンに具材を挟んだサンドイッチが人気だということ。
近くの国で精霊騎士という職種が設立されたこと、などだ。
自分の知る世界とはまるで違う煌びやかな世界に俺は圧倒された。
「全く…何故俺はこちら側の大陸に居るんだ…」
気分を変えようと窓を開け、陽の光と気持ち良い風に当たってみる。庭にある花や草木を眺めると妖精がチラリと見えた。美しい環境である証拠だな。庭師や使用人たちの手が行き届いているのだろう。
そのまま窓の外をぼーっと見つめていると、人を箱の中に乗せて馬がそれを引くやつ…馬車と言ったか。それがこの屋敷に入ってきた。
アッシュバーンもよくそれに乗って出かけたりしているらしいが、今日は確かアッシュバーンの娘が旅先から帰ってくる日だったな。
事情は詳しく知らないが、隣国へ足を運んでいたそうだ。「やっと帰ってくる!」だのと、昨日からヤツは煩かった。これでは娘が嫁ぐ時大変だろう。
アッシュバーンが溺愛する娘がどのような娘なのか少し興味が湧いて、窓の影に隠れながら彼女が馬車から降りてくるのを待った。
奥方がどのような容姿なのかは知らないが、娘はアッシュバーンに似ているのだろうか。
そんなことを考えていると、馬車の扉が開いた。
「うっ、ぐ…」
人が降りてきたと思えば、今にも倒れそうなほどフラフラで顔は青ざめていた。
バイオレット色の髪をなびかせた彼女は地面に座り込み、そのままアッシュバーンの付き人に運ばれて行った。あまり見てはいけないものを見てしまったようだが、あの娘が恐らくロレイン・フェタリナーツェだろう。
彼女と話す機会などないと思っていたのだが…それは翌日。突然巡ってきた。
暫く寝たきりで衰えた足の筋力を戻すために、部屋から出て家の中を少し歩いていた時のこと。俺は壁に手を付きながら重く感じる足を前へゆっくりと運び、部屋からやっと曲がり角まで進むことが出来た。
「ほら、リリアンナ急いで!」
「ロレイン様、走ったら奥様にまたお叱りを頂きますよ!」
そんな会話が聞こえてくるとパタパタと走る足音は俺の方に向かって近づいてくる。
そして俺は悟った。…ぶつかると。
前に進むだけでこんなにも大変だった俺が後ろに下がる、ましてや避けるなんてできるわけが無い。
「お母様は今日いらっしゃらないもーん、うっ!」
「くっ、」
案の定出会い頭にぶつかり、俺はロレインに突き飛ばされた。受け身も取れず思いっきり尻を床につく。痛い。
「も、申し訳ございません!大丈夫ですか!?」
「お客様、お怪我はありませんか?」
「あ、あぁ…大丈夫だ」
ロレインとメイドの女に手を借り、床から立ち上がった。女に手助けしてもらわねばならないなど…なんて情けない。
オロオロとしたロレインを他所に、俺は自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。
「一旦お部屋にお連れいたします。男性の使用人を呼びますので少々お待ちください」
「…すまない」
ロレインを残し、メイドは使用人を呼びにこの場を離れた。
…二人になると少し気まずいな。
ロレインもどうしたら良いのか困っている様子だった。顔立ちはあまりアッシュバーンには似ていないな。奥方の血を受け継いたのだろうか。それに…何故だか彼女の近くは落ち着く。
「…あの…アルノー…いえ執事やお父様から貴方のお話は伺っております。私はロレイン・フェタリナーツェと申します」
「クラレンスだ」
「クラレンス様…あの、失礼ですが家名をお伺いしても?」
「…家名はない。ただのクラレンスだ」
「そうでしたか…失礼しました」
「いや、気にするな」
ロレインはホッとした表情を見せた。家名があるのはこの世界でも上級の者を表すらしい。アッシュバーンが拾ったボロボロの不審者が彼らと同じ上級者だと不都合なのだろう。上級下級の差別があるのは皮肉にも唯一俺たちと同じ点だな。
だがこの大陸で身分差がなく、民が家名を持たない国があった。本で読んだが確か…
「…ノヴェイル」
「ノヴェイル王国出身なのですか?」
国名はどうやら合っていたようだ。しかし、国の特徴も文化もあまり知らない。下手なことを言って怪しまれるのも…。そういえば魔力を持つ人間が存在する国だった筈だ。今後都合がいいかもしれない。
「あ、いや…そうだ」
「では、魔法が使えるのですね!?」
「多少は。しかし今この状態では使えない」
ロレインは俺の姿を見て、そりゃそうかと残念そうな顔をした。何とも分かりやすい娘だ。
「そうですよね…。私、ノヴェイルの特徴をあまりお持ちでない方とお会いする機会がありませんでしたので少々驚きました」
「あぁ…よく言われる」
そうか、あの国は魔力を持つ種族。魔族と同じ暗い髪と赤眼を身体的特徴として持っているのだったな。俺は…こちら側の大陸でも除け者だ。
「とても綺麗な髪と瞳の色をしていらっしゃいますね」
「…この外見を褒められるのは初めてだ」
「きっと皆さん思っているだけで口にしないだけですわ」
ロレインは心からそう思っているのだろうか。いや、どうせお世辞だろう。この見た目のせいで父上や親族から煙たがられた。孤独な幼少時代を過ごし、この容姿を受け継がせた母上をどんなに恨んだことか。
彼女から褒められたことへの嬉しさの反面、暖かな家庭で育ったロレインに俺の気持ちが分かるはずがないと腹が立った。
「君が羨ましいな」
「えっ?」
「お客様、お待たせいたしました」
先程のメイドは二人の男の使用人を連れて戻ってきた。俺はその使用人たちに支えられ部屋の方へと歩き出した。後ろを振り返るとロレインはそっとお辞儀をし、その後今度はゆったりとした足取りで歩き始めた。
部屋へ戻ると使用人は医者を呼んだ。
尻は打ったが医者を呼ぶほどでは無いと言ったが彼らは念のためと聞き入れてはくれなかった。
医者に塗布薬を塗られ、少しの間はうつ伏せで寝るようにと言われ大人しく枕に顔を埋めた。屈辱だ。
「ふふっ、失礼。笑ってはいけないね」
「失礼だと思ってないだろ」
使用人か医者からこの話を聞いたのだろう。
俺の惨めな姿を一目見ようとアッシュバーンが部屋へ尋ねて来た。嫌味なやつだ。
「お宅の元気なお嬢様に突き飛ばされたんだ」
「おぉ、それは悪かった。ロリィはとても活発的な子でね」
活発的…お嬢様はお淑やかで在るべきだろ、とアッシュバーンに告げたが、うんうんと首を縦に振るのは付き人の男だけだった。お前があの娘を甘やかしたのだな。
「それより、クラレンス君。ロリィからノヴェイル王国出身だと聞いたが本当かい?」
「あぁ。容姿はこんなだがな」
「そうか…まだ何があったかは思い出せていないんだよね?」
「…思い出せない…」
頭の片隅に記憶があって、思い出さなければならないと思うのに、息が詰まるほどの恐怖がそれを許さない。
「気にしないでくれ。妻にも君の出身地を伝えてもいいかな?」
「構わない。奥方はそれで安心するだろうか…?」
「今よりか遥かにね、ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ」




