孫のめがね
同居していたフサの痴呆が、トイレのスリッパのまま庭に出るくらいに症状が進むと、家族の間からは自然と病院へ預けてしまおうという声が、誰からともなく持ち上がっていた。
五年前、フサの夫である二郎が亡くなったのを境に、急速にフサがボケ始めていたのを、息子夫婦も孫娘も気がつかないでいたのが、昼飯を食べたことを忘れ、嫁に何度もしつこくごはんはまだか、と訊ねてくる。
嫁からその話を聞かされ、息子が病院へ連れて行き、もうかかりつけといえるほど長い付き合いになった病院でさえも、フサは毎回初めて訪れたような口ぶりで、診察券を渡したか、あとどれくらい待つのか、と繰り返し訊いてくるのを、最近息子が我慢できなくなっていたことも、フサを老人ホームへ入れる原因の一つでもあった。
金さえ出していれば、精神的な苦痛から家族が救われるし、母にとっても専門的な介護を受けられるのだからそれが最善の方法だと、息子夫婦は適当な施設を探し、方々を回り、できるだけ遠ざけようと考えていたわけではなかったが、二人の選んだ施設は実家から二百キロも離れた、県のはじっこにある、山のふもとの、一番料金の安かったところになった。
フサはもう考えること自体が困難な様子で、息子夫婦の提案にも訳が分かっていないような返答をするだけだった。おばあちゃんっ子だった孫娘は反対したが、子どもではフサの老人ホーム行きをどうすることもできず、ただ泣いているばかりだった。母親に、それがおばあちゃんにとっても幸せなのだから、と優しくささやかれても、娘には夫婦の事情など理解できる年齢ではなかったから、両親を悪者にしか見られないでいた。
別れを惜しみ孫が以前よりもよく傍にいることを嬉しがり、フサも、「奈々(なな)ちゃん、奈々ちゃん」としきりに孫の名を呼ぶようになった。表情もいくらか明るくなったように見られた。
奈々が、小学校から帰ってくると、フサに紙で作った『3Dめがね』をかけさせ、画用紙に引かれた赤色と青色の、二重線で描かれた犬の絵を覗かせる。
「ああ、ほんと。そこにワンちゃんがいるねぇ。かわいいね、こっちにおいで」と手招きするのを奈々が面白がるのを、フサ自身も喜び、さらにおいでおいでと手招きをしてみせる。
それを見ていた母親が、「奈々、おばあちゃんをからかってはダメでしょう」とめがねを取り上げた。フサは怒り出し、嫁の手からめがねを奪い返し、また奈々の描いた、変わった外見の犬をあやすよう、あたまを撫でてやる。嫁は、それが痴呆の症状が悪化したものと考え、一刻も早く施設におくらなければと夫を急がせる。
奈々の与えためがねをかけ、自室の隅にいる、フサにしか見えない犬とたわむれる姿に、嫁は薄気味悪さを感じさえしていた。フサが時々嫁を呼び、めがねをかけさせ、犬を見てやるように言われても、嫁に見えるはずもなく、いい加減に、かわいいですね、と返せば途端に不機嫌になる。嫁にしてみれば、姑のいじめを受けたような気分にさせられ、食事時以外はフサを避け、昼間留守番を任せ、近所の主婦連中と外出することが多くなった。
フサの部屋の隅にいる犬が二匹に増えた。そのことを奈々に話すと、めがねをかけ、フサの指差すところを見ても何もなく、「おばあちゃん、犬なんていないよ」と笑っている姿に、フサも一緒になって笑いだす。奈々が、「どんな色してるの? なに犬?」
「二匹ともまだ子どもかな、足も短くって、雑種だろうね。ほら、白いのが、いま奈々ちゃんの膝元まで来てるよ」
奈々は自分の膝のまわりを手探りで、どこにいるのか、フサに訊く。
あ、とフサが叫ぶ。危ないよ。いま黒と白のぶちを踏みつけそうになったと、立ち上がろうとしていた奈々に、じっとしているよう促す。
「もういい? いまどこにいる?」
奈々は、つま先立ちでいる。フサが二匹の居場所を指で教える。慎重に歩を進め、奈々がフサの膝上にのり、上目づかいで、二匹の様子をうかがい、フサが二匹の元気に駆け回るさまを話してやれば、愉快そうに奈々もめがね越しに、二匹の子犬がじゃれあうのを想像して楽しむ。
ふたりだけにしか見えない、二匹を羨ましそうに、息子もめがねをかけてフサの部屋中を覗き見る。
「ダメだ、おれにはみえん。おふくろと奈々にしか見えんのは、あれだな、妖精が子どもと年寄りにしか見えないっていう話と同じだな」と頭を掻きながら、冗談めかしに言うのを、嫁は嫌い、あなたまで一緒になってどうするの、それよりも早く手続きを済ませてよ、と厄介払いしたい様子なのを、息子が咎めた。
あれでも自分の母親だから、そんなふうに毛嫌いされては、息子として不愉快になる。
「あなたは、昼間居ないからいいでしょうが、わたしの苦労も知らないで」と嫁が返せば、それ以上は不毛な口喧嘩にしかならないことを知っていたから、彼は黙るしかなかった。
嫁は、奈々をフサから引き離そうとしてはいたが、時々強烈な威圧感を漂わすフサには勝てず、しぶしぶ娘を差し出していた。
奈々には二匹が見えてはいなかった。それは彼女自身がつねに言葉にしていたし、フサの手助けがなければ、二匹の居場所さえも分からない。けれど、子どもの好奇心か、豊かな想像力かで、それを補い、なんとか見えるようになったのか、近頃ではめがねなしでも、フサと話を合わせられるようになっていた。
もう3Dめがねは、紙が所々破れ、耳にかけることもできなくなっていた。相変わらず元気そうに、フサの部屋を駆け回る二匹が、部屋の外へは出ることはなく、息子がそれを母に尋ねると、決まって、この子達はお利口だから、そそうはしないのよ、と息子の幼い頃を引き合いに出し、排泄の下手だったことを笑い話にされると、しまりのわるくなった息子は、母と一緒になって笑う娘の手前、怒るわけにもいかず、便器の内側にうまく小便をできなくて叱られている、子どもの自分が目の前に現れてくるようで、恥ずかしさも当時のまま蘇り、彼一人だけに見える光景に、もう一人、母も同じ光景を見ているはずだということに思い当たった。
母の見ている二匹とは、実際そういうことかも知れない、と息子は考えた。確かに手に触れるたぐいのものではないが、それがそこにあると言えば、自分には見えずとも本人にだけは、それが存在していることになっても、誰も反論できはしない。反論しようとするもの、それ自体が見えないのだから、比較検証することすら不可能だ。
奈々は無意識ながらもそれを発見し、母の空想の中にある存在を認めたうえで、彼女の痴呆が生み出した現象に付き合っているのだとしたら、家族の中で、最も母を理解していたのは、娘の奈々だということになる。もちろんそこまで考えて娘がそんな行動をとったとは考えにくい。しかし、母の心理を深く理解している行動をとっていたのは娘だけという事実は確かだった。
ボケの症状のひとつにすぎないと捨てておいた母の行動に、そんな意味があったことを知ることができなかったのは、母のこころを理解しようとせず、厄介払いしようと必死になっていたからで、簡単に考えることを止めてしまい、母の痴呆という表面の部分にしか関心を持たなかった自分の深層を探り当て、フサを老人ホームへ連れていくまでの日々を、娘の奈々と同様に、母の見ている景色を、フサと奈々に想像力の手助けをしてもらいながら、必死に見ようと努力した。でもどうしても見えない時は、素直に見えないと言うことにしたら、フサは機嫌が良くなり、長々と二匹の遊ぶ様子を楽しそうに話して聞かせてくれるようになった。そして息子は、母が自分達に見てほしかったものが、犬ではなく、本当は家族の元を発つ母自身にあることに気がついた。
母の存在は、彼女の奇妙な発言と行動により、周辺を固められ、そして家族がそのことを思い出すたびに、母の自室は思い出を逃がさない箱の役目を果たし、遊びまわる二匹の犬達が母の位置を、反対に教えてくれることになる。犬達が駆け回らないところに母が存在しているのだ。
息子の考えている通りにフサが事を運んでいたのなら、彼女の頭脳はまだまだ健在であるように思われ、ひょっとするとフサは自分が家族の負担になることを嫌い、見えない犬と戯れる演技をして、家族にきっかけを与えてくれたようにもとれ、息子は母の思慮深さに驚き、涙ぐむのが精一杯で、それでも母を施設へ送った自分にやりきれない感情が、嫁への八つ当たりに変わり、夫婦喧嘩が絶えなくなると、娘の奈々から目の輝きが失われてしまい、家族は結果的にフサを手放したことで、家族を築いていた柱の一部まで捨ててしまったことになった。
一本の腐りかけた柱が家全体を傾かせることもある。だからといってその柱になんらかの処置を施さなければ全体が崩れてしまう。息子が母を施設へ預けたのは家族の全体を見てのことだった。それは介護に追われ疲弊していく嫁への配慮から決めたことだが、彼も病院へ連れて行き、何度も同じ質問を繰り返される苦痛から逃れたい気持ちも含まれていた。
母のいなくなった現在、家族を崩壊させようとしているのが、彼自身の内にある、自責の念だということは明らかだった。そこに彼が気づき、それまでの、嫁に対する態度を改めると、家族はゆっくりと穏やかにではあったが、新しい家族のモデルを形作り始め、フサのいない生活に適応してきた奈々の傷心も回復へ向かい、引きこもりがちだったのが、新しい友達と外へ出て遊ぶようになってきた。
そして時々フサの住む場所へ家族三人で訪問できるくらいに、彼らが精神的に成長を果たすと、痴呆の末期にあったフサは、一生懸命に彼らの存在を思い出そうと努め、長い時間をかけて、忘れゆく記憶との格闘の末、ようやく三人の存在を思い出し、それぞれの名を呼び、静かに、彼らの幸福を祝福してやるように、微笑んであげた。