四十九話 数多(あまた)の夜を越えて
「まずは、初当選おめでとうございます!」
そう言ったのは、中堅政党の幹部である上院議員だ。
差し出された右手を握ると、左手が添えられる。
その薬指には、銀の指輪が光っていた。
「ありがとうございます。しかし、少々お気が早いのではないかと。告示日もまだ先でございますし」
「いやいや、当選はほぼ間違いないでしょう。我が党の公認候補となっていただければ、それが『確実』に変わりますがね」
当選が濃厚である無所属の新人候補は珍しい。
この幹部は、労せず党勢を拡大するために、私のもとを訪れたわけだ。
だが、この誘いに乗る気はない。
「大変恐縮ながら、当面は無所属での活動を考えておりまして」
「市長という立場なら、無所属でも結果を残せたでしょうが、国政では無所属議員が出来ることは少ない」
これは確かだ。
だが、わずか一票しか持たぬ単独の議員が政治を動かすこともある。
そうした局面まで、近く得る下院議員としての議席を、安売りするつもりはない。
「身に余るお申し出をいただきましたのに、とても心苦しいのですが、この決意が変わることはないかと」
「それは残念。なら、政党と候補者としてではなく、一人の政治家同士として、親交を深めるというのはいかがでしょうか?」
「そういったことでしたら、ぜひ」
「では、今夜一緒にお食事でも、どうでしょうか?」
「はい、よろこんで」
「ありがとうございます。後ほど、秘書に連絡させます」
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「すごい! 高い!」
イルマが仰け反るようにして見上げているのは、高層の建築物だ。
「イルマさん、気をつけないと、また倒れて頭をぶつけますよ」
「えへへ、フリーデさん、ごめんなさいっ! でも、何階くらいあるんですかね?」
「さあ。……数十あるのは確実かと」
最上階は、四十二階だ。
「それでは、私はこれで」
「はい。我々はこの付近でお待ちしております。ルジェナ様」
「いいえ。遅くなるかもしれないので、二人は先にお帰りください」
「では、一度戻って、お迎えに来ます」
「必要ありません。普段無理をしてもらっているので、今日くらいは、ゆっくり休んで下さい」
「しかし……!」
「本当に、大丈夫です」
二人をその場に残して、建物へと歩み入る。
受付で上院議員の名を出すと、白い魔石を手渡された。
昇降機に乗り込み、魔石をはめ込む。
階数を指定する必要はない。
この魔石で行くことが出来るのは、二十二階のレストランだけだ。
完全会員制であるこの宿泊施設最大の特長は、強固なセキュリティと、プライバシーの保護。
スクープを狙う記者が入場出来るのは、一階のエントランスまでだ。
昇降機の扉が開くと、給仕が待ち構えていた。
その案内で上院議員のテーブルにたどり着く。
軽く会釈して、給仕が引いた椅子に座った。
食事の間、上院議員は多言だった。
内容は、これまで成し遂げてきた政治的成果や、これから成立させる予定の政策についてだ。
中でも最も熱が入ったのは、子育て支援や、教育施策。
そして、自身の妻や、三人の子供への愛を語った。
だが、それらの言葉が、上辺だけの空虚であることを、私は知っている。
これ見よがしに置かれた金色の魔石は、最上階の部屋を確保していることを示している。
我々のグラスに注がれたワインは、この店のメニューにある中で、最高のアルコール度数だ。
そして何より、議員の左手の薬指にあったはずの指輪が、今はもうない。
この男が語った妻への愛にも、子供への想いにも、裏側には邪な思考が隠れている。
『家庭的な印象』で警戒心を解いたあと『その大切な家族よりも愛されている』のだと錯覚させる。
不誠実な男が取る汚いやり口だ。
この男の目的は、近く議席を得る小娘を籠絡し党勢を拡大することか、己の欲望を満たすこと。
あるいはその両方だろう。
だが私は、この男を批判する気はない。
そしてその資格もない。
利用するのは、私の方だからだ。
泥酔状態は、法的に『抗拒不能』とみなされ、準暴行罪が成立する。
それは、良き夫であり良き父親であること強みに票を集めてきた議員にとって、政治的な致命傷になるだろう。
決定的な証拠があれば、この中堅政党の幹部は、私の忠実な操り人形に変わる。
現状では、政党に属する気はないが、動かせる票は、多いほど良い。
席を立つと同時に、よろめいてみせた。
私の肩を支えた指輪をつけていない手から、不快な体温が伝わってくる。
抱えられるようにして、昇降機に乗り込んだ。
それは当然、下降せず上昇していく。
議員が手慣れた様子で、その部屋のドアを開ける。
薄暗い室内の先で、大窓から見える夜景が小さな光を放っていた。
沈み込むようにベッドへと倒れ込む。
宿敵と共にした数多の夜を思えば、この程度大したことはない。
この魂もこの身体も、既に穢れきっている。
これ以上、汚れようもないほどだ。
不快な手が、頬に触れる。
自分は単なる死体だと思えばいい。
実際に一度、死んでいるのだから。
議員の顔が近づいてきて、目を閉じた。
その時――
爆音のあとに、妙に通る声が響く。
「ベッドメイキングに来ましたっ!」
現れたのは、二人の少女。
イルマもフリーデも、以前変装した時のように、髪の色を変えている。
「な、なんだ君たちは!?」
「お客様、タオルは足りてますかー?」
イルマが押し付けた大量の布によって、議員は倒れ込む。
それを横目で見ながら、イルマが歩み寄ってきた。
「顔色が悪いような感じがしますね! 医務室にお連れしますっ!」
イルマに手を引かれて、昇降機に乗り込んだ。
それが下降を始めても、握ったままのその手を、私が不快に感じなくなったのは、いつからだろうか。
昇降機の扉が開いて、イルマが黒い魔石を抜き取る。
歩み出た彼女は、こちらへと振り返った。
「魔石がなくても、一階には行けるみたいなので、ちょっとこれ返してきますねっ!」
そう言ったあと遠ざかっていくイルマの足音が、聞こえなくなるのを待つ。
そして、残されたフリーデに向け、口を開いた。
「あの魔石は、従業員から?」
「そうです」
「怪我人や目撃者は?」
「おりません」
「それでも、あなたらしくありませんね。彼女を止められませんでしたか?」
「……『止められなかった』のではなく、止めませんでした」
「止めなかった? 何故?」
「私も、嫌だったんです」
フリーデは、真っ直ぐ私を見た。
その視線と、言葉から伝わってくる忠義とは違うもの。
彼女が取り戻した感情という名の非合理性を、私はもう非難することが出来ない。
「……なるほど」
「どんな処分でも、受ける覚悟です」
「その必要はありません」
「しかし……!」
「あなたを罰するなら、私自身も罰しなければ」
「これは私の独断です。責任を感じていただく必要は……」
目を伏せたフリーデに対し、小さく首を振る。
次の瞬間、私は、この身体に生まれて初めて、表情を定めずに他者と対面した。
「私も本当は、そんなことしたく無かったのだから」
フリーデは穏やかに笑った。
彼女のその笑顔が、私の表情に合わせたものであるのだとしたら――
あるいは私は、六十数年ぶりに、心からの笑みを浮かべられたのかもしれない。




