四十七話 黒い意志
「フリーデさんの身に、何かあったんじゃないでしょうか……?」
イルマはそう不安げに言って、こちらを見つめている。
「ご心配には及ばないかと」
「で、でも、おやつタイムに戻って来ないなんて、絶対おかしいですよっ!」
「市長辞任の手続きに、時間がかかっているものと」
「あ、そうだったんですか。……って! 辞任ってことは、市長さんはもう市長じゃなくなっちゃうんですか?」
「はい」
「でも、議員の選挙はまだ先ですよね?」
「ええ。当選と同時に、市長は自動失職となりますが、あらかじめ辞職しておいた方が、印象が良いかと」
「そ、そんな! 市長さんが議員さんになるまで、なんて呼ぼう……」
この少女の思考は、時に私の理解を越える。
同じ年頃であるフリーデならば、彼女の悩みごとにも、共感を示せるのだろうか。
「こちらとしましては『ルジェナ』とお呼びいただいて、構わないのですが」
「それは、駄目ですよ」
「何故ですか?」
「だって、市長さんは、その名前で呼ばれるの嫌いだと思うので」
この少女の発する言動は、時に私の予想を大きく越える。
まるで内心を見透かしたように、事実を言い当てる。
「どうして、そうお考えに?」
「なんとなくですっ!」
いつも、根拠はない。
順序立てた理論を飛び越えて、正答にたどり着く。
こんな魔法はない。
魔力を使わず、詠唱も魔法陣もなしに、他者の思考を読み取ることなど出来ない。
では、この少女が持つ能力は何だ。
私にとって、彼女の利用価値は、今もリスクを上回っているか?
どれほどの情報を知り得るのか、想像もつかないのに?
私の中に再び芽生えた黒い意志と、湧き上がらんとする魔力は、しかし抑え込まれた。
この部屋の扉が開いたからだ。
「イルマさん!」
そう言って入室してきたフリーデは、肩で息をしている。
「フリーデさん! 良かった! 無事だったんですねっ!」
「お兄さんを、見かけた人がいるそうです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
我々を乗せた馬車が、悪路を進む。
その道のせいか、あるいはフリーデが先を急いでいるためか、ひどく揺れた。
私の手を握ったのは、隣に座るイルマだ。
彼女は期待と不安が入り混じった目で、私を見た。
「一緒に来てくれて、ありがとうございます」
「お約束ですから」
私はイルマに、彼女の兄を探すと言った。
だが、それは、果たされるはずのない言葉だったはずだ。
彼女の兄は死んでいる。
それを私に告げた男は、偽りを述べることなど不可能な状態だった。
ならば、これはおそらく罠だ。
イルマか、あるいは私を、おびき出し、消すための策略だろう。
フリーデが単独で対処可能な類のものならば良い。
だが、もしそうでない場合は――
私が魔法を使い、法を犯すなら、フリーデ以外の目撃者全員を、殺す必要が生じる。
イルマを殺した私を、フリーデは許すだろうか。
もし許さず、目的の障害となるなら、私は愛弟子のただ一人残った孫娘を、殺す必要がある。
殺せるだろうか。
殺すべきだろう。
殺さなければならない。
「このあたりだそうです」
先んじて馬車を降り、森へと入った二人の後を追う。
この少女たちの後ろ姿を見るのは、今日が最後かもしれないと考えながら。
歩みを進めるほどに、黒い意志と魔力が膨らんでいく。
だが同時に、私は別の未来を望んでもいる。
私がこれから犯すかもしれない凶行を、止める力を持った人物の出現を願っている。
この命と、この魂に刻まれた呪いを、絶ってくれるのなら、なお良い。
今日という日が、もっと遠くにあれば良かった。
フリーデが魔法使いとしての実力をつけ、私を脅かすだけの力を持った後であれば良かった。
私はそのために、彼女を鍛えていたのかもしれない。
森が途切れた先、日の光が降り注ぐ場所に、その者は一人立っていた。
幻影ではない。
魔力を、感じないからだ。
だが、生者でもない。
生命力を、感じないからだ。
「お兄ちゃん!」
駆け出そうとしたイルマを、手を握って押し留めた。
あれは、彼女の兄ではない。
少なくとも、もう違う。
禁忌とされた魔法の一つに、死霊魔法がある。
死した者の魂を、肉体に封じ込めるものだ。
その魔法をかけられた者は、記憶を保っている。
魂がそこにまだあるからだ。
だが、彼らは、短時間で正気を失う。
魔法の副作用として高められた痛覚が、精神を破壊するためだ。
数百倍とも、数千倍とも言われる激痛の果てに残るのは、ただ一つの欲求。
その痛みの終焉。
死霊は、生者を見境なく攻撃する。
ただ、自分を殺してくれることを願って。
「……残念ですが、もうお兄さんは」
「でも……!」
男の顔は、腐敗が進んでいる。
あの状態になるまで、正気を保てる者など存在するはずがない。
「イルマ」
そう言ったのは、確かにその死霊だった。
それはまるで、人のように微笑む。




