四十三話 獣
「怪我人を出すのは、好ましくありませんね」
私がそう言うと、フリーデは振り下ろさんとしていた手を止める。
そして我に返ったように、こちらを見た。
「……申し訳ございません」
ゆっくりと着地したゴブリン族の男は、魔石のついた杖を取り出す。
杖に集められた魔力は、しかし萎むように消えていった。
私は、どんな魔法も使ってはいない。
ただ、ゴブリン族の男と視線を合わせただけだ。
「ここは、引いていただけませんか」
ゴブリン族は、強者に従って生き延びてきた種族だ。
本来は、言葉すら必要ない。
ただ、本能に伝えれば良い。
もし戦えば、細切れになるのはどちらの方か、と。
ゴブリン族の男は、押し黙ったまま逃げるように立ち去った。
脱法賭博場に向けて。
フリーデの前で、イルマが髪を揺らしながら飛び跳ねている。
「もう一回言ってください! 私たちってなんですか!?」
「……あれは、勢いで言っただけです」
「えええええ! じゃあ、友達じゃないんですか……?」
「いえ、そういうわけでは……」
「それなら、もう一回言ってくださいよー!」
「……そう何度も言うことでもないかと」
「そんなことありませんっ! これからは、毎日三回ずつ言い合いましょう!」
「絶対に嫌です」
「じゃあ、あと一回だけ!」
「……友人です」
イルマがフリーデに抱きつく。
二人に芽生えた友情から、私は目を背けた。
いつか、この手で、切り裂くことになるかもしれないのだから。
「お怪我などは、なさいませんでしたか?」
「はい、おかげさまで」
そう言った少女の横で、男が頭を下げる。
「娘を救っていただいて、ありがとうございます」
「いいえ、私は何もしておりませんので。もし差し支えなければ、事情をお聞かせ願えませんか」
「お恥ずかしながら、知人に連れて行かれた脱法賭博場で、わけも分からないまま、大金を失ってしまいまして」
「なるほど」
「賭け金だけなら良かったのですが『賭け金以上に負けた場合は、追加で金が必要だ。払えないなら娘を連れて行く』と奴らが言い出しまして」
イルマがフリーデの手を引いて歩み寄ってくる。
「ひっどーい! 私たちも、すっごく勝ったのに、結局交換してくれなかったんですよ!」
「ご事情は分かりました。お話しを伺うに、彼らが再び現れる可能性は高いように思えます」
「そうですね……あのゴブリンの口ぶりだと、騎士団も頼りにならないでしょうし、どうしたら良いのか……」
「それでしたら、しばらくの間、彼女を護衛としてお預けしましょう。よろしいですよね?」
私は、イルマの肩に手を置く。
「はいっ!」
即答したイルマに対し、フリーデが疑問を浮かべる。
「魔法使い相手なら、私の方が――」
フリーデの言葉を、断ち切るように言を重ねた。
「心配ありません。馬車に積んである防魔の鎧があれば、十分対応出来るでしょう」
彼女の懸念は正しい。
適任者はフリーデだ。
だからこそ、私はイルマを選んだ。
ほんの一時魔が差したが、問題などない。
私は、依然として冷徹な政治家だ。
目的のためなら、どんなものでも犠牲に出来る。
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窓越しに見える景色から、赤みが消えていく。
イルマたちと別れ、この宿に入ってから、かなりの時間が経過した。
にも関わらず、フリーデは一度たりとも座っていない。
髪の色を変えたポーションを落とすこともせず、ただ立ち尽くしていた。
彼女がこの間にしたことは、何かを言い掛けた口を、閉ざすことだけだ。
そして、フリーデは再び口を開く。
「……やはり、私の方が適任だったのでは」
ようやく口火を切ったか。
「そこまで気がかりか」
「いえ、イルマさんの身が心配ということではなく……護衛として適切なのかという不安が拭いきれず」
「護衛として、あれほどの適任者は、騎士団中を探しても、そうはおるまい」
「……はい。しかし、無謀な性格が、重大な失態を引き起こすのではないかと」
「私は、その無謀さも含めた彼女の意外性を、評価している。特に、魔石の状態を言い当てたのは、見事だった」
「……それに関しては、私も同意見です」
「あるいは、魔法の才があるやもしれん。いずれ時が来れば、魔法を習得させてみたいものだ」
だが、そんな日はきっと来ない。
魔法が使えないからこその利用価値というものもある。
まさに今、この瞬間のように。
部屋の扉が勢いよく開く。
そこから飛び込んできたのはイルマだ。
彼女は肩で息をしながら、絞り出すように声を発する。
「市長さん、ごめんなさい! 防壁魔法に閉じ込められて、私、何も出来なかったです……」
「……なるほど。お怪我はありませんか?」
「はい、でも……あの女の子が、攫われちゃいました……!」
獣が、撒き餌に食いついた。




