三十二話 ただ一つの楽しみ
騎士団支局庁舎の敷地から出ると、黄色の目と視線が合った。
「市長さんっ!」
水色の髪を大きく揺らしながら、彼女は駆け寄ってくる。
「こんにちは、イルマさん」
あの夜、私はこの少女を殺さなかった。
だがそれは、弱さでも、甘さでも、ましてや優しさからでもない。
「こんにちは! フリーデさん、釈放されたんですね! 良かった」
「……どうも」
「イルマさんも、庁舎に何かご用が?」
「はい! 新しい署長さんになったって聞いたので、クビを取り消してもらえないかなって……」
「なるほど」
「あ、もしかして、新しい署長さんと会いました?」
「はい」
「どんな人でした? 私のクビを取り消してくれそうな感じですか?」
「少し難しいかもしれませんね。とても、厳格な方に見えましたので」
明らかな嘘。
だが、この娘は信じるだろう。
「そうなんですか……。でも一応、ダメ元で聞いてきますっ!」
「イルマさんは、騎士団のお仕事が、とてもお好きなのですね」
「うーん、思い返すと、そんなに好きじゃなかった気がしますけど、お兄ちゃんを探すなら、騎士団にいる方が良いかなって」
彼女の兄は、既に死んでいる。
それは、前署長が死の間際に語った数少ない情報のうちの一つだ。
「それでしたら、私のところに来ませんか?」
「えっ! それって、市長さんが雇ってくれるってことですか?」
「はい。市長の権限があれば、お兄さんを探すのにも、いろいろとご協力出来るかと」
「で、でも良いんですか!? 私、正騎士に昇格出来なかったダメダメ従士なんですが……」
「お忘れですか? あなたは私の命の恩人なのですよ。イルマさんが護衛官になってくだされば、とても心強いです」
「それって、お兄ちゃんを探しながら、市長さんとフリーデさんとお菓子食べられる職場ってことですよね!? 理想のお仕事っ!」
私がイルマを殺さなかった理由。
それは、彼女の価値が上がったからだ。
『騎士団の汚職を知った兄』を殺された元従士。
これほど有力な手駒は、大変貴重だ。
彼女が知る私に対する曖昧な情報も、手元で管理すれば、危険を抑えられる。
少なくとも、生かしておくリスクを、価値が上回る。
「では、最初のお仕事をお願い出来ますか?」
「はいっ!」
「一緒に、お昼を食べに行きましょう」
「やったー! 何食べます?」
「今日は、フリーデの希望で決めることになっています」
「フリーデさんっ! 何が良いですか!?」
「いえ、私は特に希望は……」
「ハンバーグが食べたそうな顔してます!」
「……思ってません。あなたが食べたいだけなのでは?」
「違います! 『留置所の冷めたスープとパンは美味しくなかったな……新しい署長さんと会ったあと、ハンバーグが食べたい』ってずっと思ってましたよね!?」
「……後半は、完全にあなたの願望じゃないですか」
「な、な、なんで分かったんですか!?」
この無邪気で貴重な少女を、私の手元で大切に育てよう。
彼女の利用価値が、最大化するその日まで。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三人の正騎士が、エゴール・ヴァレーエフの書斎の中で、証拠品を根こそぎ集めている。
その姿はまるで、屋敷に忍び込んだ窃盗犯のようにも見えた。
この姿こそが、騎士団の本質だ。
民を守る立場でありながら、彼らから収奪する卑しい存在。
だが、今だけは、微笑ましく感じられる。
奪う対象が、騎士団よりさらに下賤な、祖国を滅ぼした裏切り者なのだから。
ああ、そうだ。
その本を手に取れ。
そして、その裏側にある仕掛けを見つけろ。
私の願いが届いたかのように、本棚が移動し、隠された部屋が現れる。
その中には、エゴール・ヴァレーエフの政治生命を百回は断つことが出来るほどの悪行の証拠が揃っている。
正騎士たちは、隠された部屋のものを根こそぎ奪っていった。
木箱を抱えた正騎士の背中を見つめながら、私は考える。
騎士団がこれほど国に貢献したのは、何十年振りなのだろうか、と。
最後の正騎士が屋敷を出ると同時に、怒声が響く。
「ルジェナ! これは一体どういうことだ!」
エゴール・ヴァレーエフが、娘であるルジェナ・ヴァレーエフに、これほどの怒りを表すのは、初めてのことだ。
「お父様、私は何も……」
「何もしていないと言うつもりか!? あれだけ派手に騎士団と揉めておきながら!」
「まさか、こんなことになるなんて……」
「連中を甘く見るなと言ったはずだ!」
「しかし、何の証拠も出てこなければ、問題はないのではないですか?」
「いや、それは……」
「もし、不正を行ったのであれば、お父様といえど、法の裁きを受けるべきです」
私の顔よりも大きな手が、頬に向かって来る。
避けるわけにはいかない。
この一撃で、宿敵は自身の孤独を決定的なものにするのだから。
殴られた衝撃で、身体が宙に浮く。
そのまま側頭部を壁に打ち付けた。
エゴール・ヴァレーエフの背後に立つ、フリーデと視線が合う。
燃えるような殺意を帯びた目だ。
彼女がその殺意を存分に振るえる日は、目前に迫っている。
「ル、ルジェナ……すまない、つい」
「……自室に下がっても、よろしいでしょうか?」
「ああ……。今日は休みなさい」
自室の扉が閉まると同時に、フリーデが口を開く。
「今すぐ殺しましょう」
「何を言っている。ここで殺しては、これまでの全てが無駄になる」
「しかし……!」
「そう急くな。我らの忍耐が、報われる日は近い」
「……では、せめて傷の手当を」
「それもまだ良い」
「ですが、頭から血が……」
「知っている。だが、このままにしておいてくれ」
「その傷にも、何か深い目的が……?」
「これに目的はない。ただ、好きなんだ」
「す、好きですか……?」
「ああ。この身体に生まれ変わってから、私は血を流すのが好きになった」
「それは何故……」
「この身を流れるあの男の穢れた血が、僅かでも薄まる気がするから」




