三十話 不義への忠誠
石造りの床を進む度に、高いヒールのついた踵が音を立てる。
無断で騎士団支局庁舎を進む私を、咎める者は一人としていない。
ただ、魔石の力で浮遊する鞄だけが、私の後ろに付き従った。
この庁舎の正騎士は皆、私を恐れている。
私と争った結果、前署長が辞任に追い込まれたことを知っているからだ。
欲望のために権力を濫用する者ほど、その力を恐れる。
この腐敗した組織は、汚染された川のようなものだ。
清らかな水でしか生きられない魚は、そこに長くとどまることは出来ない。
高潔な人物が騎士団に所属し続ければ、やがて命を落とす。
あるいは腐った水に順応し、その高潔さを失う。
私は、この騎士団という悪臭のする川を、浄化しようとは思わない。
もはや浄化が可能な期間は、遠い昔に過ぎ去っているからだ。
上流から下流に至るまで、腐りきってしまった。
しかし、人には水が、国家には武力が必要だ。
ならば、新たに作ろう。
清らかな川を、統制された軍を。
その障害となるなら、古く汚染された川を、源泉から塞き止めて、枯渇させてしまえば良い。
階段を下ると、魔法陣の刻まれた鉄格子が見えた。
その前に、二人の人物が座っている。
「市長、面会ですか?」
そう言ったのは、以前この庁舎を訪れた際に話した若い団員だ。
「いいえ」
私は一枚のカードを差し出す。
それは、私が持つ市長としての権力の結晶だ。
「これは第二種魔法技師免許証……え? なぜ」
免許の名義は、フリーデの偽名。
そして、発行日は、三年前になっている。
「秘書は、私の屋敷に仕える前、州を転々としていたようですから、どこかの手続きで、手違いが発生したのでしょう」
この免許証が実際に発行されたのは、私が市長に就任した一ヶ月後だ。
だが、その事実を、所有者たるフリーデにさえ、知らせなかった。
何故なら私は、彼女の逮捕を望んでいたからだ。
免許が必要なことを承知で、フリーデに魔法の使用を命じてきた。
この庁舎に入る大義名分を得ることだけを目的として。
「事情は理解しました。すぐに上司と相談して、対応を行います」
「いいえ。今すぐフリーデの釈放を行ってください」
「お気持ちは分かりますが、それは出来ません。正式な手続きを行ってからでないと」
これまで押し黙っていたもう一人の男へと視線を向ける。
その中年の男は、鍵束を手に立ち上がった。
「待ってくださいよ! こんなのおかしいじゃないですか!」
憤るように立ち上がった若い団員は、汚泥の中でもがく若魚のように見えた。
「あなたは、騎士団をお辞めになるべきでしょう」
「そ、それは、圧力ですか?」
「いいえ、警告です。遠からず、その信念か、あるいは別の何かが、失われてしまうから」
諦めたように、椅子へと腰を下ろした若い団員を置き去りにして、牢獄の奥へと進む。
視線が合った瞬間、フリーデは目を見開き、しかし口を固く閉じたまま、歩み寄ってきた。
魔封じの石で出来た枷が、彼女の手首に食い込んでいる。
しかし、それ以外には目立った外傷はない。
「フリーデ、不当な扱いを受けませんでしたか?」
彼女はゆっくりと頷く。
「ここを出たら、美味しいものを食べに行きましょう。何が良いですか?」
フリーデは戸惑うような仕草を見せたあと、押し黙っている。
私は彼女の行動の理由を探して、以前命じた言葉に行き当たった。
『黙秘しろ』という命令は、今も忠実に実行されているのかもしれない。
「釈放が決まったので、もう必要ありません」
「承知しました」
不義の私には、過ぎた部下だ。
中年の男が、無言で枷を外す。
その下から現れた彼女の手首は、白い肌に反して赤みがあった。
フリーデを伴って、階段を上がる。
廊下へと出たところで、フリーデが防音の魔法を発動させた。
騎士団には、聞かせられない話があるのだろう。
「将軍、私は何故、釈放されたのでしょうか?」
第二種魔法技師免許証を手渡す。
「君のものだ。市長としての権力を使って、正式な記録と共に作った」
「それは、不正を行われたということでしょうか? 私などのために、後々の弱点に……」
「案ずるな。私は証拠を残すほど、愚かではない」
「しかし、いざという時は、切り捨てていただくお約束だったはずです」
「ああ。だが私は、我らの復讐が成される時『君を傍らに置く』と誓ったはずだ」
「……はい」
「そして君は『私など』ではない。こんなところで失うわけにはいかない、優秀な部下だ」
「将軍……ありがとうございます」
誇らしげな表情を見せたあとに頭を下げたフリーデから、私は目を背ける。
「礼を言う必要はない」
私は約束通り、フリーデを切り捨て、捨て駒にした。
そして、必要だから、もう一度拾い上げただけだ。
私に、彼女の忠義を受ける資格はない。




