十七話 もっとも素晴らしいこと
宮殿のように長い廊下を歩いている。
前方では、木造りの扉にはめ込まれたガラスが、色を変化させながら、きらめいていた。
その扉にフリーデが手をかけた時、背後から声がかかる。
「ルジェナ」
そう言ったのは、わが宿敵にして前市長エゴール・ヴァレーエフだ。
「おはようございます。お父様」
「こんなに早く市議会に行くのか?」
「はい。今日はとても重要な採決がありますから」
「……これまで何度も言ってきたが『旧王都跡地保全条例』を廃止してはならん」
「私は、廃止すべきだと思います。何度もお伝えしてきましたが」
「あれは、この市だけでなく、この国にとっても必要な規制だ」
「この国にとっても? 何故ですか?」
「歴史を、忘れないためだ。無益な戦争で、どれほどの犠牲が出たことか。それを、今の若い世代や、これから生まれる新しい世代も、背負っていかなければならない」
歴史だと?
貴様ら逆賊が歪めた偽りの記録ではないか。
それを、無実の者たちだけでは飽き足らず、民にまで背負わせる気か。
本来、逆賊こそが負うべき罪を、当時生まれてすらいなかった者たちに押し付ける。
吐き気を催すほどの純然たる悪意。
この恥知らずの血が、今も私の身体を巡っていると考えるだけで、寒気がする。
激情にまかせて行動するなら、次の瞬間にも魔力の全てをこめた極大の破壊魔法を発動させ、この身体もろとも宿敵を消し去るところだ。
「私は、そう考えません。戦後六十年、そろそろこの市も、国民も、国も、前に進むべきです」
「ルジェナ、それは危険な発想だ。そんな考えが、戦前のこの国を、軍事国家にしてしまった」
軍事国家だと?
民と国を守るために、皆必死で戦っただけだ。
貴様ら卑劣な裏切り者以外はな。
「お父様、それは考え過ぎですよ。民主主義が根付いたこの国で、そんなことが起こるはずがありません」
「その甘い考えが危険なのだ! 頼むから考え直せ!」
甘さなど、すでに捨てた。
私は、この国のために、すべきことをする。
どんな犠牲をはらってでも。
「申し訳ございません。私は、今日必ず『旧王都跡地保全条例』を廃止します」
「何故だ!? あんなに素直で、聞き分けの良かった私の可愛い娘が、どうして……」
「亡くなった後援会長の、ご遺志です」
「後援会長だと……?」
後援会長が死ねば、私を操れると思っていたか?
そう甘くはないぞ、エゴール・ヴァレーエフ。
「はい。『しがらみの多い現市長では、廃止することはできない。だから、市長の娘である君が、代わりに廃止するべきだ』と」
「……今となっては、奴の思惑は分からんが、悪事を企んでいたに違いない。騙されるな」
「あの方はいつも、お父様とこの国の未来を、考えていらっしゃいましたよ」
私の知る限り、保身しか考えていない男だった。
「違う! 奴はそんな善人ではなかった。私とは、利害が一致していただけだ」
この見解に関しては正しい。
「……亡くなった方を、悪く言うのはお止めください。大好きなお父様が、あんなに優しい方を批判されるのは、悲しくなります」
目を伏せてうつむく。
これで駄目なら、極小の水魔法を使おう。
「……すまない。だが、聞いてくれ」
「……ごめんなさい。もう行きます。議会に遅れてしまいますので」
フリーデが重厚な扉を開く。
その横を通り抜ける時、耳元にささやきが聞こえた。
「お見事です」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
市議会の席は、左から四割ほどが空席になっている。
彼らによれば『民主主義を破壊する廃止案に対する抗議の退出』らしい。
市民から選任を受けておきながら、もっとも重要な代議の職務すら放棄するとは驚きだ。
しかもその動機が『民主主義を守るため』などと言うのだから、乾いた笑いすら出てくる。
「お諮りいたします。このさい、旧王都跡地保全条例を廃止する条例案について、議題とすることに、ご異議ありませんか?」
そう言ったのは、私の横に座る議長だ。
反対する声は、当然上がらない。
「ご異議なしと認めます。よって、旧王都跡地保全条例を廃止する条例案を議題といたします。提出者である市長に、議題について説明を求めます」
議長に促されて立ち上がる。
ゆっくりと歩いて演壇へと向かった。
「市長のルジェナ・ヴァレーエフでございます。これより議題についてご説明いたします」
拍手がおこる。
市長就任時に敵であった彼らは、今や完全に味方と化している。
「保全条例で開発を規制される地域は、市全体の二割を占めます。これを平地に限定すると、実に四割もの有望な土地が、活用されていない計算になります」
この損失を放置してきた歴代の市長と議会の責任は重い。
「反対に、この市は、それだけの成長可能性を有していることになります。開発が完了した際の経済効果は、膨大なものになるでしょう」
同意の声が上がる。
「今こそ、この市の未来のために、新しい一歩を踏み出そうではありませんか」
拍手喝采を背に、席へと戻る。
「これより、旧王都跡地保全条例を廃止する条例について、採決を行います。本件について、賛成する方は、ご起立願います」
席に座る市議達が、一斉に立ち上がる。
「起立多数と認めます。よって旧王都跡地保全条例を廃止する条例案は、可決されました」
わが祖国を縛る数多の鎖が、ようやく一つ外れた。
これはほんの小さな一歩に過ぎないが、この動きは、やがて国全体へと波及するだろう。
今回、もっとも役立った人物を一人あげるなら、死んだ後援会長だ。
私の市長選圧勝を後押ししたばかりか、エゴール・ヴァレーエフの嫌疑から私を守る盾として、現在も機能している。
何よりもっとも素晴らしいのは、すでに死んでいるということだ。




