十六話 戦後の亡霊
私は今、市議会棟の市長控室にいる。
この部屋も、年代物の机も、そして革張りの椅子も、私のものになった。
選挙結果は、圧勝と言って問題ないだろう。
三候補に投じられた有効票の七割を獲得しての初当選だからだ。
たとえ、そのほとんどが、組織票と同情票で構成されているとしても。
椅子から離れて、大きな窓の前に立つ。
右手側には、遠くに薄っすらと見える山の麓まで、びっしりと建物が並んでいる。
反対の左手側は、まるで切り取られたかのように、平野の途中で町並みが終わっていた。
拡張余地のある平地が、全く手付かずの理由は、ただ一つ。
『旧王都跡地保全条例』だ。
荒廃したまま捨て置かれた王都と、その周辺の開発を禁ずる条例が、この街の発展を妨げてきた。
さらに、廃墟と化したかつての首都は、国民に無抵抗主義をすり込んだ。
『罪深き敗戦国の民は、二度と力を行使する側にまわってはならないのだ』と。
この条例が施行されたのは、終戦後間もない時期だった。
エゴール・ヴァレーエフ前市長から数えて四代前、私から数えて五代前の市長時代だ。
十年前、私はその老人のもとへ行った。
条例を制定した理由を問うと、彼は『命令されたのではなく、ただ占領軍のご機嫌を取りたかっただけだ』と答えた。
なんと利己的で、馬鹿げた理由だろう。
その老人は死の直前、私を『戦前の亡霊』と呼んだ。
だが、私に言わせれば、彼の方こそ『戦後の亡霊』だろう。
戦後六十年を経て、自身が死んだ後も、この街と、この市と、そしてこの国に、条例という形でとり憑く悪霊だ。
私は、今度こそ、あの老人を、完全に葬るつもりだ。
それが、市長としての最初の仕事になるだろう。
控室を出て、歴史を感じさせる廊下を歩く。
あの老人も、この場所を通ったはずだ。
あるいは、この瞬間も、私に取り憑いて、すぐ近くをさまよっているのかもしれない。
もしそうであるなら、望むところだ。
どちらの怨念がより強く、そしてこの国を変える力を持つのか、見ているが良い。
フリーデが重厚な木戸を開けると、拍手に迎えられた。
席を立って手を叩いているのは、全体の四割ほどだ。
残りの六割は、こちらを振り返ることもせず、ただ座っている。
中でも、もっとも大げさに音を鳴らしているのは、市長選出馬の見返りに、席と党を変えたベテラン市議だ。
重要な政局で、十近い市議会議員票を動かしていた彼にも、党の移籍にまで付き従う部下は存在しなかったらしい。
その人望の無さに、私は感謝している。
彼は満点に近い働きをした。
実に理想的な敵だ。
議場の中央付近にある机の前に立ち、拡声器に手をあてた。
「この度、市長に就任いたしました、ルジェナ・ヴァレーエフでございます」
向かって左側から、拍手がおこる。
「政治家としてはもちろん、人生の大先輩でもある皆様に、こうしてご挨拶できることは、大変光栄です」
頷いたり、手を叩く仕草をしているのは、左側だけだ。
「私が、市長として最初にお伝えしたいのは、私は、前市長とは違うということです」
右側に座る市議が、乾いた笑いを発した。
『単なる操り人形という点が?』とでも言いたげな表情だ。
「八期三十二年にもわたり、父エゴール・ヴァレーエフが市長を務めていた市政は、大きな変化が必要な時期だと考えます」
右側の市議たちは、ほとんどが『小娘に何ができる』といった顔をしている。
左側の市議たちも、表には出さなくとも、ほとんどが似た感想だろう。
「皆様、『口先だけではないか?』と疑問をお持ちのようですね。当然だと思います。しかし、それが正しい認識ではないことを、今から証明いたします」
左右、陣営に関わりなく、多数の市議が、こちらへの注目の度合いを高めた。
ある者は、的外れな内容であれば、鼻で笑ってやろうというような興味の視線で。
またある者は、自分の政治活動に悪影響を及ばさないかという、自己保身の表情で。
彼ら全員を満足させることは出来ないだろう。
「私は、この任期中に『旧王都跡地保全条例』の廃止を目指すことを、宣言いたします」
ざわついたのは、先ほどまで、少なくとも表面上は好意的だった左側の市議たちだ。
「保全条例は、この街、そして市、さらにはわが国にとっても、有害であると考えております」
半信半疑といった表情だった右側の市議たちの目つきが変わる。
「私を支持してくださいとは申しません。部分的な共闘で構いません。ですからどうか、廃止にご協力いただけないでしょうか」
『前市長が仕掛けた罠ではないか?』というような疑いの目を向けてくる市議もいる。
しかし、少数ながら、共感を示すような市議も出始めた。
「市議会の過半数が、廃止派で埋まった期間をご存知でしょうか? 答えは、六十年間でたった二期です。しかも、どちらも廃止を実現することは出来ませんでした」
右側後方に座る年配の市議が、同意するように頷いている。
「当時の市長が、廃止案の法的な不備をついて、あるいは行政権を盾に、切り崩しを謀ったためです」
先ほどの年配の市議が、隣の市議に何か耳打ちしている。
「しかし私は、廃止に全力を尽くします。そして廃止が成立すれば、すみやかに行政上の手続きを行うことをお約束いたします」
机に向かって、さらに一歩を踏み出す。
「この市と、この国を変える一歩を、共に踏み出してはいただけないでしょうか? よろしくお願い申し上げます」
深く頭を下げる。
やがて、右手側から、拍手が聞こえ始めた。
顔をあげると、本来は市長選で一騎打ちになるはずだった対立候補が、立ち上がって手を打っていた。
それに続くように、年配の市議も腰をあげる。
次々と立ち上がる市議たちは、やがて入場時よりも大きな拍手の音で、議場を包んだ。
裏切り癖のあるベテラン市議や、その周囲の市議たちは、呆気に取られたように、天井を見上げている。
この議会の『ねじれ状態』は解消された。
すべてが、私の思惑通りに進んでいる。
一年前の市議選で、彼らの多くを当選させた価値があったというものだ。




