十五話 呪われた馬車
市議会は現在『ねじれ状態』にある。
現職の市長であるエゴール・ヴァレーエフと敵対する勢力が、議会の過半数を占めているからだ。
一人の候補に票を集中させれば良い市長選挙と違い、複数の議員を選出する市議会議員選挙は、組織票を活かしきれない。
当落ラインの票数を正確に予想することが難しい上に、同じ陣営の議員同士も席を奪い合うライバルになりうる。
自分の議席を危険に晒してまで、仲間に票を分ける候補などいない。
その結果、市長と議会が対立する状況が生まれた。
しかし、現市長は今期、推進した政策の全てを可決させてきた。
その一因たる男が、このドアの向こう側にいる。
「お元気そうで何よりです。市議」
「ようこそと言いたいところだが、今、君に会うのはまずい。早めに切り上げてくれ」
当選回数六回のベテランでありながら、現在無役の市議は、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「やはり、疑われていらっしゃいますか?」
「……今期は、君の父上にのせられて、やり過ぎた。市連の財務局長も先月付けで辞任するはめになった」
この男は、所属する政党を裏切ってきた。
ある時は敵対する市長に情報を漏らし、ある時は党の方針と真逆の票を投じることによって。
そうした裏切りが、仲間に悟られたわけだ。
同情の余地のない見下げ果てた裏切り者だが、利用価値はある。
理想的な敵と言っても良い。
「父が大変ご迷惑をおかけしました」
「形式的な謝罪は不要だ。今日の用件は?」
「では、単刀直入に申し上げます。市長選挙に出馬していただきたいのです」
「市長選挙だと? 君が出るんじゃないのか?」
「はい。私も出馬いたします」
「ふっ。お嬢さん、選挙は女学生のショッピングとは違う。仲良く連れ立って立候補するものじゃない」
「承知しております」
「では、私の出馬が、君にとって何の得になる?」
「対立候補は三期目の中堅市議です。彼は私の経験不足を攻撃するでしょう」
「そこに当選六回の私が加われば、君の経験不足がより際立つのではないかね?」
「それで構いません。私の持つ基礎票は、強固な組織票ですから」
「普段投票に行かない浮動票は、そもそもあてにしていないということか」
「はい。対立候補は逆に、浮動票を総取りするしか、勝機がありません」
「なるほど。奴と私で浮動票を割れば、君が有利になると」
「その通りです」
「君にとってのメリットは分かった。こちらのメリットを聞かせてくれ」
市議が首長など他の選挙に出馬する場合、辞任が必要な国もあるが、この国は必要ない。
当選した場合に限り、自動的に失職する制度になっている。
「選挙費用はこちらで負担いたします」
明確なデメリットは費用だけだ。
厳密には、市長選に落選した市議という評価がついてしまうが、この男がそれを気にするとは思えない。
「それは当然だろう。他には?」
「居場所のなくなった政党から、移籍したいとお考えではありませんか?」
「与えられる役職によるな」
「市議会対策委員長でいかがでしょうか?」
「よかろう」
「ありがとうございます。のちほど、後援会の者がこちらに伺います。詳しい話は彼とお願いします」
「分かった。しかし、さすがはヴァレーエフ市長の娘といったところか。未経験でもすっかり政治家だ」
「当選六回の大先輩にそう言っていただけるとは、大変恐縮です」
七期目は、おそらくないだろうが。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ベテラン市議と密約を結んでから、一ヶ月半が経った。
今日から市長選挙が始まる。
立候補の手続きを済ませ、今は最初の選挙演説地に向かっている。
「例のベテラン市議も、立候補手続きを終えたようです」
そう言ったのは、正面の席に座るアルノルドだ。
「そうですか。幸先の良いスタートですね」
「はい。それと、私の父である後援会長が、先ほど事故死したそうです」
「フリーデ、馬車を止めてください」
「いえ、お気遣いなら不要です」
「お父上のところに向かわれた方が良いのでは?」
「今日の予定を全て終えてから行きます。死体は、たとえ日付が変わっても死体のままですから」
「分かりました。あなたのお考えを尊重しましょう。また、お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます」
この馬車は呪われている。
父親の危険を黙認し、実際に訃報を受けても顔色一つ変えない者。
家族の仇を取るためなら、無関係の他人も躊躇いなく殺そうとする者。
宿敵の娘として生まれ、その命と地位を奪おうとする者。
その三者が、一つの馬車に乗り、同じ場所を目指している。
負の感情とは、これほどまでに残酷で、強力なものだったか。
このことを前世で悟っていたなら、あるいは祖国と愛する者たちを救えただろうか。
少なくとも、私はそうするべきだった。
その責任があったはずだ。
まだ政治家ではなく、野心家の部下であったエゴール・ヴァレーエフに渾身の魔法を打ち込み、消し炭すら残さず粉砕して、後顧の憂いを断つべきだった。
たとえ、そのことで、愛する者たちから見限られ、裁かれることになったとしても。
「ルジェナ様、到着いたしました」
「ありがとう。フリーデ」
大通りの一角に、選挙スタッフが簡素な演説台を用意して待っている。
その台に上がって、魔力式の拡声器を受け取った。
「エゴール・ヴァレーエフの娘、ルジェナ・ヴァレーエフでございます。本日は、市長選挙立候補のご挨拶に参りました」
こちらを見ているのは、フリーデとアルノルド、さらに選挙スタッフが三人に、記者一人だけだ。
「長年停滞を続ける市政は、今こそ変わるべきです。そのためには、全く新しい視点が必要だと考えます」
通りを行く大勢の人々は、こちらに目を向けることもなく歩み続けている。
「長く市長を務めた父も、市議会で活動されてきた方々も、その視点を持つことは難しいでしょう」
やはり足を止める者などいない。
当然だ。
身の程知らずにも市長を目指す十代半ばの小娘の話になど、誰も期待しないだろう。
勝つにせよ、負けるにせよ、茶番でしかない。
「ですから私は立候補を……私は、お詫びしなければなりません」
うわずった声に引き寄せられるように、数人の足が止まる。
「後援会長を引き受けてくださった方が、さきほど事故で亡くなったと連絡がありました」
さらに数人が立ち止まる。
「父だけでなく、私自身も本当にお世話になって……お優しい方で……」
十単位の人々が演説台を囲んでいる。
「私のことを全て分かってくれる、もう一人の父のような存在でした」
百に届きそうな人数が、こちらをじっと見ている。
「きっと『泣いてないで責任を果たせ』と叱られてしまうと思います。でも、どうしても、今すぐお会いしてきたいのです……」
瞳からこぼれ落ちる極小の水魔法は、群衆にしっかりと見えているだろうか。
「今日必ず、この場所に戻ってくるとお約束します。ですから、お時間をいただくことを、どうかお許しください」
いまや大通りのほとんど人々が、私を見ていた。
その視線に向けて深々と一礼したあと、振り返る。
背中を押すような拍手と、声援が上がった。
馬車に乗り込む直前になっても、演説台を囲み続ける人々を見て、確信した。
私は、この選挙に勝つだろう。
それも、対立候補に大差をつけて。
同時に疑問が浮かぶ。
あの演説で私に一票を投じる人々もまた、呪われてしまうのだろうかと。




