十一話 野心と高揚
高く積まれた紙の山々に、その間を走り抜ける人々。
市長選挙を二ヶ月後に控えた現職の選挙事務所は、慌ただしさの中にある。
「散らかっていて申し訳ないです。ルジェナさん」
そう言ったのは、後援会長の息子で、事務局長のアルノルドという若い男だ。
金髪に青い目の整った顔立ちと、高身長。
容姿に関しては、選挙の裏方より政治家の方が向いているだろう。
「お気になさらないでください。大変な時期にお邪魔しているのは、こちらですので」
「いえいえ。むしろ、市長のご令嬢がお見えになって、士気も上がるというものです」
「そう言っていただけると、気持ちも楽になります」
目前の紙の山が、こちらに向けて傾き始めた。
魔法を使わずとも、避けきれるだろう。
だが、いささか『ご令嬢』離れした動きにはなる。
ここは呆然と立ち尽くすことにしよう。
魔力のこもっていない紙ごときで、死ぬことはない。
迫り来る紙と私との間に、アルノルドが割り込んだ。
現市長エゴール・ヴァレーエフの顔が、いくつも宙を舞う。
これらが街に貼り出される日は、二度と来ない。
アルノルドは大量の紙を背中で支えながら、微笑んでいる。
「お怪我はありませんか?」
「はい。おかげさまで」
女の扱いに慣れた男だ。
こういう輩は、操りづらい。
野心を利用するのが良いだろう。
通された事務局長室は、完璧といえるほど整えられていた。
「どうぞ、お座りください」
「失礼いたします」
本は分類分けの上に音順に並べられ、中央に置かれた机は壁に対して一切の傾きもない。
大窓の前で結ばれたカーテンに至っては、魔法を使ったように左右対称だ。
これほど几帳面な男が、あれほど混乱した空間にいるのは、さぞ苦痛だろう。
にも関わらず、自らが管理する空間を改善していないのは、選挙直前の選挙事務所が、いかに多忙を極めるかを示している。
「それで、今日お越しいただいたのは、どういうご用件ですか?」
「市長選挙の情勢は、いかがかなと、思いまして」
アルノルドは深く頷いて、笑顔を見せた。
「順調ですね。ルジェナさんが、市長の主要な支援者を引き剥がした以外は」
一瞬にして、場の空気が張り詰める。
背後に立つフリーデが、両手に魔力を集め始めた。
私の指示で殺す考えだろう。
心構えは大切だが、少々気が早すぎる。
のちほど言って聞かせなければ。
「ご存知なのですね」
「はい。支援者の動向管理は、私の仕事ですから」
「仕事ということでしたら、父に伝えるまでが、あなたのお仕事では?」
今朝のエゴール・ヴァレーエフの様子に、変わったところはなかった。
十六年に渡って監視してきた男だ。
感情の機微など、たやすく読み取れる。
「これは一本取られました。確かに私は、あなたのお父上にも、そして私自身の父にも、この件を伝えていません」
「お互いに、父に対して思うところがあるようですね。理由をお聞かせくださいますか?」
「市長に対して不満はありません。ただ、あなたの政治家としての才覚に、魅了されたのです」
「ずいぶんと大げさな表現をなさいますね」
「これは本心です。盤石に固めたはずの支援者が、次々と突き崩されていった。それに対しての焦りより、心地よさが勝った」
「心地よさ、ですか?」
「はい。幼いころから、父について選挙を見てきました。ですが、お父上を脅かす対立候補はいなかった」
「ええ。私の目から見ても、そうだったように思います」
「協力させてください、ルジェナさん。私は今、生まれて初めて、選挙が楽しいと思えているんです」
「市長選に二位はありません。負ければ無です。そして、権力を再び手にした父は、あなたを決して許さないでしょう」
「分かっています。ですが、あなたは勝つ」
「断言されるのですね」
「はい。そのためには『地盤の完全な継承』が必要です。だからあなたは、今日ここに、いらっしゃったのでしょう?」
「おっしゃる通りです」
「私は、何をすればよろしいですか?」
「今日から二日間、父から後援会長にあてた連絡を、全て無かったことにしていただけますか?」
全てを察したように、アルノルドは頷く。
親の威光で、若くして事務局長になったのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
父親よりも、この息子の方が優秀かもしれない。
「承知しました」
予定とは違う形ではあるが、目的は達成した。
あとは、この男と利害が一致していることを、願うだけだ。
双方のためにも。
選挙事務所を出て、馬車に乗り込む。
「フリーデ、相手が上級の魔法使いなら、手に魔力を集めたことを悟られるぞ」
「申し訳ございません。以後、改めます。将軍」
「一つずつ覚えていけば構わん。それと、アルノルドの監視を頼む」
「お話の最中に、魔石を仕掛けておきました」
「君は優秀だ。然るべき地位を与えてやれないのが、惜しいほどに」
「もったいないお言葉です。あの男が妙な動きを見せたら、どう対処いたしますか?」
「報告しろ。私がこの手で殺す」




