一話 唯一の感情
目を覚ましても、なお闇だった。
詠唱なしで発動するはずの下級炎魔法は、種火すらも灯さない。
刺すような頭痛と、手足に巻き付いた鎖の発する音が、知覚の全てだ。
ゆっくりと開いた扉から、光が差し込む。
魔封じの石でつくられた壁には、無数の魔法陣が刻まれていた。
伝説を残した偉大な魔法使いも、世界を破壊し尽くした古の魔王も、この場所ではきっと無力だろう。
光を背にした男は、不敵に笑う。
「お目覚めのようですね。ブルクハルト・ヘルメスベルガー少将閣下」
「やはり貴様が反逆の首謀者か。准将」
准将という地位に見合わぬ三流魔法使いだが、底知れぬ野心を持つ。
それがこの男、エゴール・ヴァレーエフに対する評価だった。
今後はそこに『毒を盛ってだまし討つ姑息さ』も加えるべきだろう。
「反逆者は、あなたの方です」
「馬鹿な」
幼い頃に亡くなった父は、国王の弟だ。
王家の血は、この体にも色濃く流れている。
武力と血統をもって王位を奪えと言う、奸臣もいた。
だが、父代わりの国王はもちろん、兄弟同然の王子にも、背こうと思ったことは一度もない。
それどころか、この命を懸けて、王国に尽くした自負がある。
「戦費の横領、撤退命令を無視した戦線の拡大、多数の越権行為、証拠は揃っておりますよ」
「横領などありえん。さらに、撤退命令など受けていない。すべて、身に覚えが……」
そう言いかけて、事実にたどり着く。
副司令官たるこの准将になら、それらの罪を捏造することが可能だ。
戦費を流出させ、受けた撤退命令を私に報告せずに、隠蔽したのだろう。
正式な軍法会議が開かれれば、捏造を一つ一つ覆すことが出来るかもしれない。
もしそれが叶わなくとも、全権を握る国王は、きっと信じてくれる。
だが、それでは遅すぎる。
「この命と、地位が欲しいというのなら、くれてやる」
「ほう?」
「貴様が捏造した罪を自白する文を書いても良い。時限式の致死魔法も受けよう」
「なかなか良い条件ではありますね」
「それらと引き換えに、三日くれ。この戦線さえ突破出来れば、有利な条件で講和が出来る」
もとより失う覚悟の命だ。
終戦と引き換えなら、惜しくはない。
「実に自己犠牲に富んだ申し出ではありますが、お断りします」
「何故だ? これ以上、一体何を望むというのだ」
「我々は『あなたの活躍による戦勝』より『我々の主導による敗戦』を望む」
「……貴様……民を、国を、なんだと思っている?」
「単なる踏み台ですよ。そこに誰かが乗っているのなら、一度ひっくり返してから、自分が乗れば良い」
弾けるような音をたてながら、閃光が壁を伝う。
「これほどの魔封じの許容量を超えて、魔法を発動させるとは。さすが『雷公』どの」
渾身の魔力を込めた雷は、エゴール・ヴァレーエフに至る直前で消えていった。
「その力は、敗戦国に不要なものです」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
目を覚ました部屋には、光が満ちている。
また、この夢だ。
そう確認して、無意識に握りしめていた拳から力を抜く。
この夢は、いつもここで終わる。
その先にあった拷問の苦痛より、さらに先にあった死の感覚より、魂に刻み込まれているものがある。
怒りだ。
野心のために、国を裏切った者への怒り。
それ以上に、そんな小物から、祖国を守れなかった己の不甲斐なさへの怒り。
その怒りが、この魂を現世に呼び戻したのだろう。
起き上がって鏡を覗き込むと、小柄な少女がいた。
白銀の髪は、癖なく胸のあたりまで伸びて、光沢を帯びている。
幼さを残した顔つきに反して、紫色の瞳が深く沈んで見えた。
人々は、この容姿への賞賛を惜しまない。
だが、それらの賛辞にも、その裏にある嫉妬や欲望にも、心を動かされたことはない。
怒り以外の感情の全てを、死んだ前世の身体に、置いてきたのかもしれなかった。
女の肉体にも、女としての立ち振舞いにも、すでに慣れた。
十六年という年月は、性別の変化を受け入れるのに、十分な時間だったからだ。
自室を出て、宮殿のように長い廊下を抜け、大広間に至った。
長机の先に、中年の男が座っている。
ただ、その男の首だけは、老人のように、しなびていた。
それは、老化遅延魔法の使用と、その魔法技術の低さを物語っている。
月日も富も権力も、三流魔法使いを一流にすることは、叶わなかったらしい。
エゴール・ヴァレーエフは、こちらに向けて微笑む。
「おはよう。ルジェナ」
純真さを強調するように、微笑みを返す。
「おはようございます。お父様」
自分を殺した宿敵の娘として生まれたことには、いまだ慣れない。