月まで38万平方キロメートル
自分が今いるのは赤道の真上なのに、赤道直下とはおかしな話だ。
窓を覗いても、眼下の太平洋にに赤い道が見えたりはしない。もっともそんなものがあったとして、上空1万メートルの高みから確認できるかどうかはわからない。例えばこれが幅1kmの赤い帯だったとすれば。赤道の距離は4万kmだから、その面積は当然――
頭を振って、俺は思考を追い出した。なんの意味もない想像だ。
***
「日本の広さってどのくらいだっけ?」
背後からの野尻の声に、俺はプログラミングの課題を進める手を止めずに答えた。
「……38万平方km」
ついでに人口は1億2000万ちょうどぐらいだったはずだから、人口密度は……まあいい。
「だよね。まっすぐ伸ばせば月まで届くじゃん」
「は?」
思わず振り返ると、野尻はテレビ画面の方へ顔を向けた。最近とみに話題のシンアル計画についての特集がやっている。
「ホラ、月まで38万kmって」
「いや、あのな」
距離と面積を混同した馬鹿な発言だ。とても理系を自称する人間の台詞とは思えない。というか中学二年の台詞じゃない。
「長さと広さを比べんなよ。単に数字が同じってだけだろ」
「えー、そうだけど」
「そうだけどもなにも」
俺はちょっと考え込んだ。
「幅一キロの道があったとして、その道を月まで伸ばしたら、日本と大体同じ面積になる、ってだけだろ」
なんの意味もない想定だ。
「幅一キロの道かー」
そう言って、野尻は目を細めてあらぬ方向を見つめた。俺も想像してみる。月に向かって虚空に伸びる、細い一筋の道……。
「……どっかで見たイメージだな」
「え?」
「あれだ、道路光線」
「あー」
国民的、未来から来たロボットのエピソードに、確かそんな道具が出てくる話があった。あの話のオチは面白かった気がする。どう面白かったのかは覚えていないが。
「あれが実現すれば、この計画も必要なくなるだろうけどね」
野尻がテレビを指して言う。
「何年後だっけ?」
「90年、うん、80年か? そんなもんだろ」
「無理かなー」
「無理だろ。少なくとも『道路光線』は絶対無理だ」
あと、『四次元ポケット』とか。実現するしないは置いておいて、確実にシンアル計画の完成の方が先に来る。この計画の完成は25年後ということだ。
来るべき未来に思いを馳せていた俺は、ふと現在に――具体的には野尻が卓袱台に広げている数々の課題に意識を戻した。
「いや、お前、テレビ見てないで課題やれよ」
「え、今更?」
「今更じゃねえよ。つーか家でやれ」
「集中できないんだもん」
「もん言うな」
そう言うと、彼女はぶうと頰を膨らませた。かわいくない。
「ついでにうちを図書館がわりにするな」
「してないよ! 図書館までは自転車で15分かかるけど、小川ん家なら道一本」
「黙れ」
HRが終わり、机を教室の後ろに送った生徒たちがばらばらと部屋を出ていく。俺も鞄を手に取ったとき、隣にいた(つまり、後ろの席だ)友人に話しかけられた。
「なー、お前、どうすんの」
「ああ、志望校?」
「志望校。急に言われてもな」
今度の模試は、受験用紙に志望大学を何校か書き込まなければいけないらしい。今週の土曜にある模試のために、あらかじめ考えてこいと、担任に言われたところだった。
もちろん急に言われたわけではない。ないが、俺や彼みたいなまだ将来をまともにイメージできていない人間にとっては、一年先の受験でさえ現実味のないこと甚しかった。
「全然考えてない」
「だよな? まー、適当に書くか」
本当のことをいえば、全く考えていないわけでもない。けどこれは……他人に話すのは、ちょっと憚られた。
「おれ、掃除」と言う友人を置いて、一人で教室を出る。一階に降りる階段で野尻の背中を見つけた。声をかけるつもりは全くなかったのだが、踊り場まで来たところで見つかってしまった。
「あ」
「おう」
まあ、見つかったところで話すことがあるわけでもない。なんとなく並んで階段を降りていた俺たちだったが、半歩前を行く野尻の頭を見ていると、不意に口から言葉が出てきた。
「お前はもう決めてるんだよな、大学」
野尻がこちらを見上げる。
「あ、小川のクラスでも言われた?」
「ああ」
「ん、決めてるよ」
そう言って彼女が口にしたのは、宇宙工学である程度名の知れた大学だった。技術者になるのだという。
少し――少しだけ、『同じ大学へ行くのもいいんじゃないか』という思いがあるのだった。偏差値からいっても無理はないし、宇宙開発に興味がないわけではないし。おそらく家族にも教師にも反対されることはないだろう。けれど、「知り合いが行くから」という理由で進路を決定するというのは、なんとも情けない気がして誰にも言い出せないでいた。
「でも、お前で入れるのか?」
「あっ、失礼だな。あたしの成績知らないでしょ?」
高校生になって、野尻が俺の家で勉強することもなくなった。俺は彼女の成績を知らない。
「入るよ。入って、勉強して」
「シンアル計画に参加する?」
彼女は強く頷いた。
「……」
まったく、その揺るぎない熱意のようなものはどこから来るのか。
そんなことを考えていると、野尻が唐突に口を開いた。
「道路光線」
「は?」
「中学のとき、そんな話したの覚えてない?」
「……ああ、なんかあったな」
月に向かって伸びる一筋の道。脳裏にビジョンが蘇る。中学の頃、確かに野尻とそんな話をした。
「あれ、やっぱりつまんないと思うんだ」
「何が?」
「未来から来た誰かが、方法だけポンって置いていってくれるの。つまんないよ、絶対」
「……そんなもんかね」
俺が言うと、野尻は再び強く頷いた。
「自分たちの手で作らないと、意味ない。あたしたちが作るんだよ」
思わず足を止める。振り返った野尻と、見つめ合う形になる。
「……」
「……」
何か言おうと口を開きかけたとき、廊下の方から女子の声がした。
「おーい、まゆちゃーん」
気づけばいつの間にか玄関口まで来ている。野尻が反応した。
「あ、行く行く」
俺に「じゃ、ね」と手を挙げて、女子の方へぱたぱたと走っていく。俺は下駄箱から靴を取り出し、地面に放った。家が近所だからといって、俺と野尻はもちろん一緒に帰るわけじゃない。なにより野尻には部活がある。
駅までの道を独りで歩く。ポケットからスマートフォンを出しかけて、家に着いてから調べればいいと思い直す。
俺はある決意を固めかけていた。
「なあ、野尻」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
明日からもう三月だというのに、その日は小雪が散らついていた。冬にも積もる日は少ないというのに、珍しいことだ。
俺たちは高校を卒業した。
「他の奴らと帰らないのか?」
隣を歩く野尻にそう言うと、彼女は首を横に振った。
「クラスのみんなとは、夜にカラオケ行くから」
集まり悪いんじゃないかそれ、と思った。俺のクラスでも打ち上げのようなことはやるが、公立の前期の試験が終わった後だ。
「だから、今は小川と帰ろうかなって」
「……おう」
しばらく、二人で黙ったまま歩いた。教室を出たときにはある種の感慨があったが、校門を出るときには別にそんなものは感じなかった。なんだかんだ、学校にはまだ来ることがあるからだ。
「ね、小川」
「うん?」
「……ううん、なんでもない」
それきり、野尻は続きを言わなかった。俺もはじめに言いかけたことを言わなかった。
それから俺たちは、他愛のないことを話しながら帰途についた。
店員に案内されて歩いていくと、奥の机で見覚えのある顔が手を振った。軽く頷いて返し、店員に礼を言って席に着く。
「なかなかきついぞ、男一人で喫茶店に入るのは」
野尻が首を捻る。
「そういうもん?」
「ああ」
「いいじゃん、待ち合わせしてたんだし」
そういう問題でもない。
「ひさしぶりだね、なんか」
野尻は小学校の同窓会に来なかったから(用事があって出席できなかったらしい)、俺たちが顔を合わせるのは六、七年ぶりだ。
ことさら自分たちとは遠い世間話などをしながら、二人でメニューを覗き込む。店員に注文を伝えた後で、それよりさ、と野尻は切り出した。
「びっくりしたよ、メンバーの名簿の中に小川の名前があったから」
「同姓同名だとは思わなかったのか?」
「ちょっと考えたけど、小川ならあるかなって」
彼女はあっけらかんと言った。俺は苦笑する。
「俺は別に驚かなかったけどな、お前の名前を見つけても」
「それは……だって、小川はあたしがなにをしてるのか知ってたから。でも、あたしは小川のことは知らなかったもん」
もん言うな。
「教えてくれたことって、ないじゃん」
野尻の文句を水を啜ってやり過ごす。お前に影響を受けて、同じ仕事に携わる道を選んだ、なんて、言えるはずがない。
野尻がどちらかといえば現場に近い技術者になる道に進んだのに対し、俺は設計に関わる立場の人間を目指していた。俺が得意なのはその分野だ、という自覚があった。最終目標を定めれば、そこへ向かう進路もおのずと決まってくる。
運ばれてきたコーヒーに口をつける。向かいで紅茶を飲んでいた野尻がおかしそうな顔をした。
「なんだよ」
「いやー、変わったな、って。小川、昔はめちゃくちゃ砂糖入れてたのに」
「そんなに入れてないだろ」
「いやいや、苦いのが嫌なら飲まなきゃいいのに、匂いが好きなんだよって」
眉を下げて、野尻は言った。
「大人になったね、小川」
「……馬鹿にしてんのか?」
「してないしてない」
ぶんぶんと手を振る。ちらりと目を合わせてから、彼女は「ケーキ食べたい」と再びメニューに手を伸ばした。どうでもいいが、そういうのは最初に一緒に頼んでおくものじゃないのか。
「奢らないからな、言っとくけど」
「ケチー」
そう言うと、野尻はメニューを置いて、俺を正面から見た。……自分が払うなら頼まないのか。
「そういえば、この辺に住んでるんだよね?」
「ああ。やっぱこっちの方が、なにかと都合がいいからな。お前もだろ?」
「うん。……そうだ、そっちの家って広い?」
唐突な質問に、俺は眉をひそめつつ考える。俺が借りているアパートには、複数人で住んでいる人もいる(大抵は同棲中の恋人同士だ)。独り暮らしの俺にとって部屋が狭いということはない。が。
「広いは広い、けど、それで?」
「いやー、たまにお邪魔してもいいかなって」
……そんなこったろうと思った。
「ちなみに、『たまに』ってのは具体的にいつのことだ?」
「研究が煮詰まったときとか……あとは、期日が迫ってるときとか? うちじゃ集中できないんだよね」
期待を裏切らない答えである。彼女がうちに頻繁に押しかけていた頃に、その台詞を何度聞いたことか。
「お前は変わらねえな。つーか成長がない」
「そこまで言う?」
「言うよ」
俺は溜め息をついた。
「図書館がわりに使うなら、入れないぞ」
言った直後に後悔した。何を言っているんだ俺は。
しかし彼女は、割と真剣そうな顔で叫んだ。
「しないよ!」
そして、俺を見つめる。……本当に変わらない。
「……」
「……」
「……」
不意に俺は馬鹿らしくなった。スティックシュガーの袋を破り、中身をコーヒーの中に放り込む。
「……好きにしろよ。どうせ、断ったって来るだろ」
「まーね」
「否定しろよ」
「……でね、その子の言うことがいちいち面白くて」
話す野尻の目の前の皿に、俺は箸を突きつける。指し箸をしてはいけない。
「いいから食え。トマトが全然減ってないぞ」
「トマト嫌い」
「だったらなんで料理したんだよ……」
俺が言うと、野尻は肩をすくめた。
「いいじゃん、彩りだよ、彩り。そんなことよりさ」
そう言って、野尻は話を続ける。同じ部署の後輩の話だ。
「この間、これはおおって思ったんだけど、その子が言うには『世界は神が創ったが、バベルの塔はぼくらが作る』って。カッコよくない?」
「さっきは面白いって言ってなかったか」
「面白くてカッコいい。最高じゃん」
それにしても、どこぞで聞き覚えのあるフレーズだ。
「オランダ人だろ、その人」
「え、インドネシア人」
全然関係がなかった。
野尻は現在、シンアル計画が進んでいる現地で仕事をするようになっている。そこではもちろん日本人以外の技術者も多く働いているのだが、大学で履修したドイツ語さえ満足に扱えない俺と違って、野尻は本人曰く「感覚で」覚えたといういくつかの言語を用いて立派にコミュニケーションを築いているらしい。
もちろん、それは野尻が向こうで暮らすというわけではない。あくまで長期滞在に過ぎず、生活の基盤はこちらにあるはずだ。それなのに住んでいたアパートを引き払ったと聞いたときにはどうしてくれようかと思ったが、彼女は当たり前のような顔をしてうちに居座るようになった。まあ、以前から、仕事だなんだで切羽詰まったときにはこの家に泊まり込んだりしていたから、本人としてはその延長のつもりなのかもしれないが。
「これ、美味いな」
「でしょ? 新しく挑戦してみました」
同居(どう否定しようにも、流石に説得力がない)を始めて気づいたことだが、野尻は料理が得意なようだった。なんというか、手際がいい。俺としても美味いものが食べられるというのは嬉しいことで、野尻が料理、俺が皿洗いと、彼女がいる間は自然と役割分担ができていた。
「ほら、早く食っちゃえよ。洗い物したいから」
「えー、あたし? トマト残ってるじゃん」
「本当になんで料理したんだよ」
「だって小川は好きじゃん、トマト」
一瞬、反応が遅れた。
「だから、小川に食べさせればいいかなって」
「……いいからとっとと食え」
俺が言うと、野尻は本当に嫌そうに食べ始めた。……罰当たりめ。
この何年かで俺たちの付き合い方はかなり変わったが、これまでのところ、互いの呼び名が変わることはなかった。俺は彼女を野尻と呼んでいたし、野尻は俺を小川と呼んでいた。彼女の方ではどうか知らないが、俺はそれでもいいと思っていたのだ。意図して変えようとしなくとも、俺たちの関係は落ち着くべきところに落ち着くだろうと、少なくとも俺は思っていた。
その考えを、俺はすぐに後悔することになる。
ノートパソコンがそのメールを受け取ったとき、俺は試験的なリニアモーターの設計書を作成しているところだった。
一度ウィンドウを最小化し、届いたメールを開く。アドレスは例の計画の中心となっている集団のものだった。横文字の本文を苦労しながら読んでいく。
「――っ!?」
思わずスマートフォンを掴み、しかし一旦は思いとどまった。滑る目をなんとか文面の最後まで通したところで登録してある番号にダイヤルする。向こうには知り合いがいる。
「……もしもし、小川です。今……」
勢いでかけてしまったが、迷惑にはならないだろうか。電話が繋がったことで少しだけ冷静になった頭の隅で、向こうとの時差を計算する。……15時間。こちらが朝の9時だから。
「はい。……はい、メールが来まして。はい」
相手は現在の状況を丁寧に説明してくれた。緊急事態に立て込んでいるであろう中で、だ。しかしその説明も、メールの内容を覆すものではない。
「いえ、……ありがとうございます」
電話を切る。呆然と俺は立ち尽くす。
「集中してやれよ、そんな大事な作業ぐらい……」
呟きは、独りの部屋に消えていった。
***
女性の声がアナウンスを告げる。ほどなくして、座席に下降の感覚が伝わってきた。洋上の人工島の小さな影がだんだんと近づいてくるのが見える。
衝撃。飛行機はグアヤキルからの短いフライトを終え、メガフロート『バビロンシティ』に着陸した。
頭上の棚から荷物を取り出し、研究所のメンバーと共に搭乗口を抜ける。熱気が思ったほどではないのは、周囲を海に囲まれているからだろうか。メンバーはそのままライナーに乗り込み、少し離れた計画本部に向かった。
その日本人技術者の死に関して、調査は迅速に行われた。野尻真弓本人に責任がなかったことはすぐにわかったそうだ。事故の原因は、彼女らが設置中だった駆動部分の設計ミスによるものだということで、これは俺が知らせを受け取った時点ではまだ判明していない事実だった。俺たちがこうして現地に赴いているのは、この事故の原因への対応を定める会議に参加するためだ。
本部の廊下を歩いていると、ひとつの部屋から出てきた技術者の一団とすれ違った。その中の一人がふと視線をこちらに向けると、俺を見つけて眉を上げる。
「知り合いか?」
横を歩いていた先輩が、目ざとく気づいて訊いてくる。
「……いえ」
知らない相手だ。首を巡らせて姿を追うが、当然なにかわかるわけではない。前に向き直って首を捻ると、隣で先輩も肩を竦めた。
その彼と再会したのは、翌日、会議の手伝いを終えた俺が独りでロビーをうろついているときだった。たまに職員が通り抜けていくくらいで、ロビーにはあまり人はいない。静かだ。
「こんにちは」
と思っていたら、急に英語で声を掛けられた。ここには上司についてきただけで、これまで基本的には俺に話しかける人間はいなかったから、最初はその声が俺に向けられたものだとは思わなかった。しかし、この場には俺しかいないのだ。
振り返ると、昨日の男が立って、こちらに微笑みかけていた。
「オガワアラタさんですね」
相手の顔を見る。浅黒い膚。俺より少し若いだろう。……やっぱり、知らない相手だ。
「失礼ですが……?」
「ああ、これはすみません」
そう言って、彼は名乗った。うっすらと聞き覚えのある名前だ。記憶を探ると、なぜかトマトの入った料理の皿が脳裏に浮かんできた。バベル。
「あっ、野尻の」
思わず日本語で口走る。いつか野尻が話していた、洒落たことを言うインドネシア人だ。思い出すと同時に、彼女との思い出が一気に蘇ってきて、俺は少しよろめいた。
壁際のベンチに並んで座る。彼が口を開いた。
「ノジリさんがいつもあなたのことを話していました。写真も見せてもらいましたよ」
あいつ、そんなことを。
「リニアモーターを作っているそうですね。今度は、その件で?」
「はい。会議で、動力部に関するプランは一度、白紙に戻すと」
俺は、言葉を継ぐ。
「当然です」
事故の原因となった駆動部は、俺たちの研究所が開発したものだった。……俺は初め、この計画が彼女の命を奪ったのだと思っていた。そんなことではなかったのだ。
「俺たちが、野尻を殺したんだ」
彼はなにも言わなかった。
「会議では、今回の事故で、計画の完成が五年は遅れるだろうと言われました」
「……そうはならないでしょう」
「なぜ?」
「それは、一からプランを組み直すとしたときの年数でしょう。利用可能な技術を持つ企業は多くあります。あなたのところでも、代替のプランを提出する用意はあるでしょう?」
俺は、答えることができなかった。人を殺した機関が、という思いがある。それよりなにより、俺がこの道を選んだのは、彼女と同じ仕事に関わりたいというくだらない動機からだった。その彼女がいなくなってしまった今、身勝手な話だが、俺にこの仕事を続ける気持ちがあるかといえば――
「オガワさん」
彼が呟くように言った。その声が責めるように聞こえたのは、こんな心理を抱えた俺の気のせいだろうか。
「シンアル計画に関わる事故で、これまで何人の人間が亡くなったか、ご存知ですか」
首を振る。
「17人です」
17人。野尻の死は、17のうちの、ひとつ。
「それだけの死者を出しながらも、計画は止まることなく進んできた。立ち止まる人などいないんですよ。いや、それだからこそ、ぼくらはバベルの塔を完成させなければならない。生きている人も、死んだ人も、多くの人々が人生を捧げたこの計画を、失敗という形で終わらせてはならない」
そこで不意に、彼は肩を竦めて言った。
「お金のこともありますが」
俺は苦笑する。確かに、これだけの予算がかけられた計画が、失敗として終わるわけがない。
「我々には、計画を完成させる責任がある。あなたにも、もちろん」
彼は息をついた。
「ぼくにも」
……そういえば、彼は野尻の下で働いていたのだ。二人の関係は、想像したよりも親しいものだったのかもしれない。
「あなたから見て……」
俺はふと尋ねてみる気になった。そんな彼ならば、俺の知らない野尻の一面を知っているかもしれない。いや、きっと知っていることだろう。俺は結局、いつだって自分の前にいる野尻の姿しか知らないのだ。
「彼女は、どんな人でしたか」
「素晴らしい技術者でした」
彼は即答した。
「なにより、使命感を帯びていた。自分の手にあるものを自分の手で完成させるという使命」
「……そしてそれは、あなたの信念でもある?」
虚を突かれたような顔をした彼は、しかしすぐに、笑いながら両手を広げた。
「ぼくのこれは、彼女に影響されたものですよ。ここへ来るまでのぼくは、ただ漠然とタスクをこなすだけの男に過ぎなかった」
高校生の俺が、将来というものを漠然とすら描けていなかったように。
そうだ、彼女の熱意は周囲の人間を惹きつける。なにかを成し遂げたいという意志を与える。その衝動は、俺の中にも確かに息づいたもののはずだった。
腕時計を見て立ち上がる。
「……ああ、そろそろ行かないと」
「帰国されるのですか」
「はい。……さっきの、代替プランの話ですが」
彼の目を見つめて、言う。
「現在、開発中のリニアモーターがあります。まだ実用段階には至っていませんが、いずれ、必ず」
しばらく俺を見ていた彼は、それから笑みを浮かべて頷いた。立ち上がった彼から手が差し出される。
「待っています。オガワさん、あなたとお話できてよかった」
「……こちらこそ」
その手を握る。
そして、四年後。
俺は再びバビロンシティを訪れていた。今回も助手という立場には違いはないが、胸の中には微かに誇らしさのようなものが感じられる。
空港からでも見えた、天まで続く塔。静止衛星に繋がれた軌道エレベータ。その入り口に設置された、何人かの人名が彫られたプレートに、俺は目を細めた。その中段やや下に刻まれた、NOJIRI, Mayumi――彼女の名前。
頭上の塔を再び仰ぐ。未来から来た誰かの手など借りず、俺たちの手で作り上げた月への道が、そこにはあった。
虚空に伸びる一筋の道。この道は、きっと月へと続いている。