05話「良い知らせと悪い知らせ、どちらから聞きたい?」
人類最後の都市、ジュデッカ。
その中央にある塔、クリフォト。生贄を捧げ、全てを操る聖なる間で、一人の巫女が祈っていた。
命を偲び。犠牲を偲び。友のため、家族のためと自ら命を捧げた英雄たちへ。
どうか来世は、幸せでありますようにと。
彼女の名はベアトリーチェ。
現存する人類の中で唯一、クリフォトの制御を可能とする聖なる巫女である。
一心に祈る彼女の背後に、一人の男が現れる。
「性悪お嬢様が似合わないことをするものだ。止めておけ止めておけ。雨でも降ったらどう責任を取ってくれる」
「……ウェルギリウス。どうして、こちらに」
「私はどこにでも現れるさ。気の赴くまま、興味の赴くままにな。それがウェルギリウス、ジュデッカ一賢い学者様だ」
やや背が低く、丸眼鏡。よれた服に、身だしなみを気にしていない薄汚れた容姿。端正であるにも関わらず皮肉に歪んだ顔は、まっすぐに巫女ベアトリーチェを見つめていた。
「その感傷は余計なものだ。その愁嘆は余分なものだ。クリフォトを放った貴様がそうすることは、生贄となった全ての者を侮辱している」
「あなたに、何が────」
「わからんさ、何もな。生まれてこの方学問ばかりの私に人の心なぞわからん。わかってたまるか。わかりたくもない」
煙に巻くような物言いに、ベアトリーチェは目に見えて苛立つ。
つり目がちで気の強そうな目尻が、余計に釣り上がった。
「ウェルギリウス。戯言を言いに来たのでしたら帰ってくださる? わたくしこれでも、忙しい身でしてよ」
「ほほうつまり祭壇にはサボりに来ていたと。奇遇だな。私も同じだ。異形の解析に解剖だと? 阿呆そんなもの既に目を瞑ったままでもできるわ! 私の才能を使いたければ新種が現れてから呼べ! とな。今回の襲撃はただ数が多いだけの力押しだ。天才学者たる私が出張るほどのものじゃあない」
つい先程人類を襲った過去最大規模の異形の侵攻を指して、なんてことのないように彼はそう言ってのける。
「異形共は存外あれで打ち止めかもしれないぞ。そうなれば晴れて貴様はお役御免。世界を救った聖女様として穀潰し生活というわけか。骨と皮みたいな貴様もやがてブクブクと肥え豚のようになるのだろうな。ハッ、その方がよっぽどお似合いだ!」
繰り返される放言にこらえきれなくなったベアトリーチェが手を振り上げる。
そして、怒りのままに男の頬を張った。
「わたくしに対する侮辱は、この際許しましょう。貴方にどれだけ言っても無駄ということは存じ上げておりますから」
至近に寄ったベアトリーチェの眼が、じっとウェルギリウスを見つめる。
「しかし、未来に対する楽観は別です。わたくしたちはどうしようもなく追い詰められていて、明日が来るのかどうかさえわからない。そんな現実を安易に否定するようなことは、決してわたくしたちの立場で言って良いことではありませんわ」
「……なるほど。確かに口が過ぎたな。打ち止めということはあるまい。今のは私が悪かった」
以外にもあっさりとウェルギリウスは引き下がると、そのままくるりと踵を返した。
「調査隊からの報告が上がっているやもしれん。一度戻ることにしよう。────それから。今の楽観だが、あながち根拠のない話でもないぞ。多少は大げさに言ったが、暫くは平和になるだろう。地獄の水先案内人の言葉だ。少しは信用してみろ」
「……! 待ちなさい、ウェルギリウス」
ひらひらと手を振りそのまま去っていく男。ベアトリーチェに彼を追いかけることはできなかった。
性格こそ最悪だがあの男の言うことは信用できると、そう知っていたからだ。
突如差した光明に、複雑な感情を抱くクリフォトの巫女ベアトリーチェ。
もしかすると、これ以上の犠牲を出さずに済むかもしれない。
未来を想う彼女の胸中からはいつの間にか、過去を慚愧する当初の煩悶は消え去っていた。
*
異形の大規模襲撃より一ヶ月。
長く続いた平和によりジュデッカの街はその傷を癒やし、人々の心もまた、払った大きな犠牲を受け入れつつあった。
これ程の期間異形の襲撃が無かった例は過去に数えるほどで、なるほど天才を自称するウェルギリウスの言葉もあながち間違いではなかったのかと、巫女ベアトリーチェは考える。
「ベアトリーチェ様、お疲れ様です!」
「お疲れ様」
警備の兵士に挨拶を返して、研究棟へと入る。
……確か、彼の両親はクリフォトの生贄に志願し死んだはず。
恨んでは居ないだろう。この街の人間で、もはやそのような人間は残っていない。
ベアトリーチェ自身も、過去に戻ってやり直したとして再び同じ判断を下すことに躊躇いはない。
──それでも、胸が締め付けられてしまうのは、クリフォトの巫女として失格だろうか。
そんなことを思いながら、けれどもその胸中をおくびにも出さずツカツカと歩き続ける。
「ベアトリーチェ様」「ベアトリーチェ様」「ベアトリーチェ様」
声をかけられるたびに息が苦しくなる。
当たり前だ。もはやこの街で、ベアトリーチェに知人や身内の命を奪われていない者の方が少ないのだ。
その全員が納得した上で。その全員が笑顔のままに。
だからこそ余計に彼女は苦しんでいた。
その苦しみ自体、ある種の傲慢であると理解していても。
「来たかお嬢様。そろそろだと思っていたぞ。……で、良い知らせと悪い知らせ、どちらから聞きたい?」
ベアトリーチェが目的の部屋の扉を開けるや否や、部屋の主はぶっきらぼうに声をかけた。
「良い知らせというのは、今日で無襲撃期間の最長記録を塗り替えたということでしょう」
所狭しと積み上げられた書物やら紙束やら魔道具やらで足の踏み場もない部屋を、ドレスのまま器用にすり抜け歩くベアトリーチェ。
「正確には今の王が王位についてからの、だな。過去の記録を信用するのなら、侵略初期に遡るほど攻撃頻度が低くなるようだ」
ベアトリーチェも、それより年上のウェルギリウスも、物心ついたころから週に二、三度の襲撃は当たり前だった。
ときに小規模に。ときに大規模に。思いついたかのように異形は街を侵攻する。
父や母が侵略者に抗うため、毎日のように戦い、癒やし、修理し、耕作する。この街の人間は全て、そんな姿を見て育っていた。
「……それで、悪い知らせというのは」
ベアトリーチェは既に覚悟を済ませていた。
この男が悪い知らせと言うのだ。生まれて初めて経験する長い平和を覆すだけの悪夢が待ち受けているのだろう。
自然と、彼女は奥歯を噛み締める。
もしかすると再びクリフォトを使うことになるかもしれない。
ベアトリーチェの中の冷静な部分は素早く街の人口はあとどれくらい燃料として使えるのかを計算し、感情的な部分は己の背負うものの重さに自ら喉と心臓を締め上げた。
「次は新種が出る」
「────!」
新種、という言葉にベアトリーチェは過敏に反応し、目を見開く。
無理もない。かつて翼種や騎馬種が現れた時に、人類が大敗北を経験したという記録は誰もが知ることだ。
「大規模侵攻の後、これが失敗すると変異し新たな個体が現れる。この因果関係は今まで憶測レベルの話ではあったが……裏付けが取れた。確実だ」
「すぐに、王に報告を──っ」
「してないわけがないだろう。貴様の首から上は綺麗なだけの飾りか性悪娘! 特別調査隊が出発してから今日で3週間。さて、襲撃と報告どちらが先か……」
刹那。
グラリ、と地面が揺れ。ズズンと衝撃があった。
すわ地揺れかと二人が窓の外を見ると──50mはあろうかという巨大なミミズめいた姿の異形が、地面から首をもたげていた。
場所は第一壁の内側。クパリと腹が割れ、中から大量の異形を吐き出している。
後に輸送種と名付けられる異形の、完全な奇襲攻撃だった。