◆嵐の前の静けさ◆
いうなればそれは夢のようで、また確かな現実であったような気もする。
私はその夢の中、ただ強く「帰りたい」と願っていた。
そこで私はひとりの青年にメイドとして仕えていた。
紫の髪に青の瞳を持つ色白の青年は、私を見て嫌味に笑う。
「きみはどれだけ経っても僕を好きになってはくれない」
返す言葉はない。
それは事実であったし、私には口を利くこともできないから。
「そんなにあいつのほうがいい?」
その人はそう問うた。
あいつ、という言葉の指すところはディートのことかと今の私は考える。
「もういいよ、正攻法は無駄だとわかったから」
私は動けない。
その人は歩を進め、私の額に手を置いた。
「ミラ、ディートハルトを殺しておいで、そうしたら……」
その人はとても幸せそうに笑った。
「あいつがいなくなれば、君は僕を好きになってくれるだろう?」
◇◇◇
声が出ません。
私は朝からぐったりとして掠れたため息を吐いた。
(とうのディートは朝早く部屋を出て行ってしまったし、忙しいのでしょうけれど。
……そういえば、何か夢を見たような気がします。
重要な夢であったような気もするのですが、あまり覚えていませんね)
……こうなったら、どうしようか。
私は考える。
また抜け出そうとしても、屋敷の外から先へは行けないだろう。
こんな目にあうのは二度とごめんであるし。
けれども、できるだけ早くここから離れたほうがいいと私は昨日より強く思っている。
(なぜでしょうね)
なんとか上体を起こして、くずれた夜着を戻しつつ与えられた自室へ向かう。
その後、身なりを整えて庭に出ると、どこからともなく声がした。
『それなら、殺して逃げればいい』
男性の声に、私は首を傾げた。
(空耳でしょうか)
『彼を殺さないのはどうして?』
(なぜ殺したりなんてしなければならないのです。
私はただ離れたいだけで、帰りたいだけで。
ディートを殺してしまおうなんて、ちっとも思っていませんのに)
『……そう、君は』
その声は不穏な響きだった。
「ミラ、どうした?」
「はいっ?」
突然かけられた声に、私は驚いて振り返る。
そこには怪訝そうな顔をしたスティーグが居た。
「こんなところでぼーっとしているからな、体調が悪いんじゃないのか」
「いえ、そんなことは……ありますね」
「ここから逃げ出そうとしたんだってな、ひどい目にあうから怒らせるなとあれほど言ったのにおまえは」
呆れたようなスティーグの声に、自然と苦笑が浮かんだ。
「そうですね、次は違う方法を探しますよ」
「……なあミラ、ひとつ聞きたいんだが」
「?」
スティーグは軽く頬を掻いて、言いにくそうに私に問う。
「おまえはディートを嫌いにならないのか、ひっどい奴だろう、今のお前にとっては」
「……あ」
言われて初めて私はそれに思い当たった。
(そういえば、どうして嫌いにならないのでしょうか。
思えば、好きでもない人にこういうことをされれば、嫌なのが普通でしょうに)
スティーグはそんな私に続けて言葉をかける。
「殺したいと思っても普通だと思うぞ」
「そんなふうには思っていません、私にも、わからないのですが……」
私にも理由がわからない。
その返事を聞いて、スティーグは困ったように眉を寄せた。
「そうか。いや、おまえがそうならいい。ディートはおまえに憎まれてもいいと思っているようだが、俺はおまえらがそんなふうになるのは見たくない」
「あなたが心配しているようなことはしませんし、だいじょうぶですよ」
スティーグは安心したように笑った。
「悪いな、昔からおまえには負担ばかりかけちまっている」
「私はそんなに弱くありません」
茶化してそう言った。
それにそれは本当のことだから。
もしも私の心が折れることがあるとしたら、きっとこんなことではない。
(? でも、それはどんな時でしょう)
私の胸に小さな疑問が浮かぶ。
「それじゃ、俺は――」
踵を返そうとしたスティーグが、突然私を隠すように背後に押しやった。
いったいどうしたのか、どうやら私を門前の誰かから隠しているよう。
私も気配を殺して様子をうかがうと、ディートときらびやかな金髪のご令嬢。
彼女はディートの腕に寄り添い、背伸びをして彼の頬にキスをした。
それに対してディートは普段見ないほどの笑顔で接していた。
「……」
なんだかもやもやしたものを感じつつ、私はスティーグの意図を察して背中に隠れる。
「拗ねるなよ」
スティーグの声に、私はむっと眉を寄せた。
「誰が拗ねているというんです」
「あんな貼り付けたような作り笑いが笑顔に見えているなら、おまえはやっぱり記憶喪失だ、間違いない」
「なんです、それ」
ほどなくして令嬢が去り、疲れた様子のディートがこちらへやって来たが。
彼は私とスティーグを見るなり眉を寄せてあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「……仲がよさそうだね」
「あなたがおっしゃらないでください」
つい、反射的に出てしまった言葉。
ディートは少し驚き、そして、穏やかな笑みを浮かべた。
その笑顔が妙に印象的で、心の中の何かが綻ぶのを感じた。
「妬いてくれるならうれしいよ」
「そんなことありません!」
私達の会話に、間に挟まれたスティーグはやれやれとため息を吐く。
「……心配して損したみたいだな」




