◆空白:弐◆
明朝。
「……」
目を覚ましたディートハルトは隣に眠るミラを見る。
最初は気づかなかった。
けれど今ならはっきりと分かる、彼女に残る魔術の痕跡。
(記憶、封じられているのか)
こんなことをしそうな魔術師をディートハルトは知っている。
まだ彼がガルデニア王都の学校に通っていたころだ。
偶然出会ったオルテンシアの留学生。
才能のある人物だったと思う。
そして、教えたわけではないがディートハルトにとってどれほどミラが大切か、知っている人間の一人でもある。
「……ミラ」
眠る少女の額に口づけて、憂鬱な感情に小さなため息を吐いた。
◇◇◇
朝。
ディートの姿はすでになく、私は自分の部屋に戻って着替えをすませた。
偶然玄関ホールを通りかかったときにやってきたスティーグは、ぐったりしている私を見てあきれたようにつぶやいた。
「だから、怒らせるなって言っただろうに」
「怒らせるつもりはなかったのですが」
「はあ、まあおまえがそう言うならそういうことにしておくか。それより、飯にしようぜ」
「はい?」
首をかしげる私に、スティーグは紙袋からパンを一つとって渡した。
「ディートの屋敷じゃ料理人もいないからな。
不気味だろ、ひとりでにでてくる料理」
「おいしかったです」
「おまえらしい回答だ、俺は食欲が失せるんだがな」
せっかくなので、食堂に移動して一緒にいただくことにした。
とてもおいしいそのパンは、なぜか少しだけ懐かしいような気もする。
「ディートはどうしたのでしょう?」
私の問いに、スティーグは視線を泳がせた。
「あー、今日はあいつがなぁ」
「あいつ?」
「もともとディートは伯爵家の六男坊だ、身分のイイ女をあてがわれるのが常ってもんなんだよ」
「……そういうことですか」
今日はそのご令嬢との用事なのでしょう。
「おまけにどこから聞いてきたんだか、おまえが戻って来たとか来ないとか噂を聞いてすっとんできたわけだ」
「私がいなくなったあとに新しく婚約なさったかたということですか」
「実家に強制されてるだけだ、婚約はしちゃいない」
「……そうですか」
過去がどうであれ、今は今。
彼にも私にも今の時間が流れている。
「スティーグ、このアンクレットを外す方法はありませんか?」
「俺に聞いちまうのか?」
「あなたは私をここへ連れてくるのに反対なさっていたでしょう?」
「……」
私はもうここに居てはいけない。
居るべきでもない。
けれどスティーグの返答は否だった。
「おまえを連れてくるのには反対だったさ、だが俺はあいつを裏切るわけにはいかない。
それに、おまえも記憶がないんだろう?
なら、向こうでいい生活をしていたかどうかは定かじゃないわけだ」
「それは……」
「俺は昔からおまえらの兄貴分でな、おまえにもディートにも、不幸にはなってほしくないんだよ」
まあ、と彼はつづけた。
「今のおまえが幸せかと問われればそれは否だが、オルテンシアに戻って殺されちまうのは許せないんでな」
「……優しいのですね」
「怒らないのか?」
「なぜ怒るんです、最初から無茶を言っているのは私のほうですよ」
思わず笑みがこぼれた。
この人は本当に、ディートや私のことを大切に思ってくれているのでしょう。
◇◇◇
スティーグは仕事だと飛竜とともに去った。
夕日が空に溶ける時刻、私は館をまわり、書庫で時間をつぶしていた。
「……っ」
そのとき、ひどい頭痛を感じて額を手でおさえる。
『……ミラ』
(あれ。なんでしたっけ……。
そういえば、あの敗北の日、その少し前。
誰かと会話をした、ような。
知り合いなんてあまり居ない私に、唯一、関係のある人だった、はず)
『……を、殺せ』
「――っ」
痛い、痛い、痛い。
頭が割れてしまいそうに痛い。
「ミラ」
そのとき、あたたかな手と優しい風が痛む頭に触れた。
「……っは、う、ディート?」
「大丈夫?」
初めてみる心配そうな顔。
「だいじょうぶ、です」
けれどなぜかそれがよけいに後ろめたくて、視線をそらしてしまった。
ディートはしゃがみこんでいる私のそばに膝をつき、私を抱きしめた。
ザーザーとノイズまじりの音がする。
過去の情景なのか、感情なのか。
今の私とまざりあってどうしようもない苦しさがこみあげる。
「何かおもいだした?」
「――なにも、なに、も……」
「そう」
それ以上は何も聞かず、ただ私の髪を撫でる。
そんな彼からは、高級な香水の香りがかすかにしていた。
(……はやく、離れませんと)
今と過去と。
そして何より、不吉な予感を感じて。




