プロローグ
―ヘリウス歴125年冬―
雪の舞う“白の間”で彼に言われた一言によって、私の世界は大きく変化した。
あの部屋は確かに闇の中にあったのに、白い壁の中は、まるで星々が輝いているような明るさを持っていた。
そこでは全てが異質だった。
彼も、私も。
しかし、確実に彼の言葉は世界を呑み込んだ。
―「君は、この世界が本物だなんて・・・本当に思っているのかい?」―
穢される事のなかった白銀が真紅に染まる中、それは―
あまりにも残酷で
あまりにも狂気に満ちた
あまりにも優しい世界を
私という人間に突き付けた。
世界を紐解く鍵として―
ただ、これだけは言える。
確かにあの時、彼は“笑った”のだ。
心の底から、
薄れゆく意識の中で
初めて幸福を見つけたように
闇の“中”で
そして、彼の全てが終焉を迎えた。
部屋に響くのは、
私に握られた剣から滴る彼の生きた証と、
咽び泣く、運命の糸<ノルニルの糸>の叫びだった。
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―ミョズヴィトニル歴 1812年 秋―
ドンドンと、腹の底から響いてくるような怒号を立てながら砲弾が海上の船から空へ放たれ、石やレンガ、そして人々を打ち砕きながら地面に打ち込まれる。
しかし、耳に届く音は激しい破壊音でも、恐怖に逃げ惑う人の叫びでも、無惨にも潰され息を引き取った誰かを揺すりながら泣き喚く声でも、救いを、助けを乞う祈りでもなかった。
波だ。
この巨大な島を四方取り囲み、あの船を浮かべている海から規則的に響いてくる、泡立つ位に激しいのに、どこまでも優しい波の音。私の力の源。
涙がこみあげてくる程に美しく青く壮大な海。
嬉しい時も、悲しい時も私の見方であるソレは、常に傍にある。まさに、敵が襲撃をしてきているこの真下にも。
よくわかっている。私ではダメだと。
どんなに闇の王国を強大な獣から守った英雄と言われようと、現第2王権者だろうと、私は私の国を敵の襲撃から守れたことなど一度もない。
右肩からボタボタと音を立てながら血が地面に吸い込まれて行く。
脇腹には元々何色だったかも分からないほどに真っ赤に染まった服が張り付いている。
終わりだ…。もう降伏するしかない。
絶望に打ちひしがれながら新たに撃ち込まれる砲弾の軌道を瞳に捉えた。
あぁ、何故私なのだろう…。何故今なのだろう…。何故救援は来ないのだろう。何故、何故…。
正に瞳から一滴の涙が零れようとしたその時、ドォォンっとひと際大きな破壊音が背後から鳴り響いた。
希望を失った目に映るのは、崩壊する真っ白な貝で出来た美しい城。
終わりだ…。
気力的にも体力にも限界が来た。
男は力なく地面に膝を着き、ただポロポロと涙を溢した。
遠くで怒声と金属同士が強くぶつかり合う音、泣き叫ぶ民衆の声がする。
いや、きっとこれはすぐ近くでしているのだ…。
そしてそれはきっと、奴らが白兵戦に移ったという事。
ふ…と、目の前に出来ている自分の影に大きく重なるよう剣を振り上げたものが重なった。
あぁ…これで―
完全に音が途切れた。
私は静かに目を瞑り、来るべき痛みと安らぎに身を委ねた。
「何をなさっているのですか、湊様。」
はっと顔を上げれば右手に血に染まった剣を持ち、背後に居たはずの男が首から血を噴き上げながら横に倒れていく姿が、酷くゆっくりと目に入って来た。
「何故…君が…。」
「何故?愚問ですね。自分の国を守るのに理由が必要ですか?」
「それは―」
「ルカ、楓!各々部隊を連れ、上陸した帝国軍を全て排除しろ。生かしておく必要はない。海上のは私がやる。」
「「Yes, Your Majesty.」」
いつの間にか傍に立っていた2人は帯刀していた剣を抜くと直ぐ数人の部隊を引き連れ、数百もの鍛え上げられた帝国軍を意図も簡単に切り捨ててはどんどん街の方へ駆けて行った。
「湊様、貴方が何時までそこに居られるのかは知りませんが、私は行きます。」
「どこへ…」
「決まっているでしょう?以前よりお話していた計画が少し早くなっただけです。」
「もういいかい?ただ待っているのは暇なだけなんだけど。」
「あぁ。行こう。ここは任せても?」
「はい、勿論。お二人共お気をつけて。」
一体いつから…。先程去って行った2人とはまた別の人物達は、私が教えた子達では最早無かった。
少し前とは逆に、一方的に切り捨てられ逃げ惑う帝国軍の叫びが耳を貫く中、蒼く美しい髪を持つ者と神々しい程に白く輝く者は、1人陽の光を纏う男を残し惑う事なく紫電と氷で相手を圧倒しながら行ってしまった。
「湊様、直ぐに傷を治します。」
残った男は私の前に膝を着くと傷口に手を翳し、暖かな光を纏わせれば傷口はまるで糸を紡ぐよう輝きながら跡形もなく消えて行った。
「もう痛みはありませんか?」
「あっ…あぁ。」
「よかった…。では、早速で申し訳ないのですが、私に国の丁度中心になる所を教えて下さい。」
「いや、それよりもまず民の傷を―」
直して欲しい!
だが、言葉を発するより先に彼は私の口に指を当てると首を横に振り―
「私を中心へ。そうしなければ更に多くの命が失われます。」
これは報いか…。
第2王権者という栄誉ある称号に胡坐を掻き、大した努力もせず、この12年間帝国の攻撃を甘んじて受けてきた…!
ガクッと首を落とすと、男とは視線を合わせることなく城前にある広場の噴水がそうだと伝えた。
「わかりました。湊様、これよりこの国を海へ沈めます。それにより混乱が生じるでしょうが、我々が必ずお支え致します。」
「…わかった。頼んだよ…周。」
「はい。」
彼は着物をたくし上げると彼女が就けたのであろう赤い髪をした女性騎士を連れ、急いで広場へ向かった。
「もう…私は必要ないようだ…。」
寂しいような嬉しいような、複雑な思いを抱え騒乱が収まるのをひたすら待つ。きっと今はこれが最善なのだ。
「周様、こちらにも残党が居るかもしれませんので私の後ろへ。」
丁度横道から出てきた敵を切り捨て、飛散した血で頬を濡らしながらもこちらへ話す姿にこれが彼女の選んだ騎士かと感心しながらありがとうと伝え。
「急ぎましょう。凪が風を止めている間に。」
「はっ。」
気付けば吹き飛ばされるのではという程に旗を揺らしていた風はピタリと止み、葉の擦れる音すらしない。
こんなことはこの国では数年に一度あるかないかだが、進む2人には関係ない。遠方で風を制御してくれている彼の為にも足を運ぶ速度は上がって行く。
「止まるな!あの方達の邪魔になる者は全て排除しろ!」
はい!と黒髪の騎士に答えると、遺体や家だった瓦礫が散らばる足場の悪い道を突き進みながら青い軍服を着た騎士達は敵を蹴散らして行く。
「番え!…放て!」
こちらは黒髪の男達の援助をする為、空になった家々の窓や屋根から弓を放つ。
決して見方を貫かず、的確に敵の急所を射抜く。タイミングを図るのは同じ色の隊服を着た紫色の髪を持つ男。
その姿を、蒼と白は高い穴だらけになった海に程近い城内の塔の上から魔レンズで見つめている。
「もうそろそろいいんじゃないかい?あんな怪我を負っては海を泳いでは行けないだろう。」
「あぁ。例え生き延びようと問題ない。海に落ちればシーサーペントが処理する。」
「また新しい契約を?」
「私ではない。」
「彼か…。本当に怖い子だ。」
「そうだな。あぁ、どうやらもう一発来るらしい。」
「彼らも懲りないね。」
白は長い溜息を吐くと、スッと手を翳した。
直後、手に紫電がバチバチと走ると稲光が空を裂き、ドォン!と地面を割る様な轟音を上げて巨大な1本の雷が放たれたばかりの大砲を穿ち、爆散させた。
衝撃は凄まじく、帝国の巨大戦艦でさえ爆風で大きく煽られ舵が効かないようである。
「あちらの科学とやらですら、流石に自然の力には適わないようだね。」
「そうでなければ困る。さ、そろそろだ。」
「こちらです!」
近くで轟音が響く中、城内に踏み込んで来た敵を散々倒してきた上、随分な距離を走ってきたにも関わらず息も切らしていない騎士に対し、荒くなった呼吸を整えている周の前に、遂に街の中心に相応しい白いサンゴで出来た噴水が現れた。
「素晴らしいですね…。今度是非じっくり拝見させて頂きたいです。」
一つ溜息を吐くと先導してきた騎士に離れるよう伝えれば、懐から何かを出して手に収めると掌をパチンと合わせ―
「我光の王、周の名においてここに契約す。盟約が切られ、再び光が訪れるその時まで女神の祝福を。輝け。」
謳うように紡がれる言葉が途切れると手が黄金に輝き、彼は祈るようそれを口元に寄せ、次の瞬間光の粉を空高く解き放った。すると、それは宙に散らばることなく高く昇ると巨大な黄金の鳥の姿になり、声一つ高らかに翼をはためかせた。
「来た。」
いつ?と問おうとすると同時に美しいフェニックスが現れ、空を旋回するよう駆けると島の中心でパァンッと花火のように散って行く。
美しい黄金の光は国全体をドーム状に覆い、蒼と白はその光景を見届けると天に手を翳し―
「我誓う。光の王と共にあらんことを。盟約の元、アグライアーを空へ。そして海の王国を沈めよ。」
「我ら共通の敵を打ち砕け。―ケルヌンノス―」
同時に放たれた強大な魔法は轟音を立てながら国を包んだ。
一方は輝いた粉を飲み込みながら空高く泡立つ水のドームを作りつつ徐々に海の中へ島ごと沈み、一方は突然真っ暗になった空にゴロゴロと紫電を這わせたかと思えば雷光が一本の柱のように走り枝角を持つ獣の王が姿を現し、ドォォンっと大砲とは比べ物にならない轟音を立てながら何十隻もあった戦艦を一気に打ち砕いた。
「瞬け。―アグライアー―」 「沈め。敵を排除せよ。」
人々が目にしたのはここまでだった。
気付けば空には魚が悠々と尾を動かし流れ、海中とは思えない昼間のような明るさを保ち、漣、風、建物全てが侵略される前の、敵の姿さえ一切ない姿のままそこにあった。
違うのは死んでしまった者は元に戻らないこと。陽の光を取り戻すことは出来ないこと。
誰もが嘆き悲しんだこの日、人々は最早疑うことなき強い王が誕生したことを知った。
「これからが大変だろう、何かあればすぐ僕に―」
「ありがとう。でも自分でやってみせるわ。だけど、どうしてもって時には助けてね?櫁。」
「あぁ。約束しよう、月。」
これより数か月後の1813年の春、盟約と握手を交わした3人は正式に王として拝命された。
今はまだ知らない、多くのモノを失い、愛した人を奪う時が来ることなど。