八
ねえ、聞いているの、と唐突に佐恵子さんが腕を小突きます。
「何を?」
私は一瞬だけ枯葉を集める箒の手を止めましたが、気を取り直して続けます。
秋はいよいよ深まって、すでにお屋敷の庭のあちこちの木々が色鮮やかな衣を脱ぎ捨てつつありました。
日々には何も変わりはなく、使用人の私たちが世間話に興じる程度には平穏と言えましょう。
だからこそ佐恵子さんも「ねえ、聞いている」と退屈に飽いたあまりに言葉を発したのです。
「優さま、今年はお屋敷で年を越されるのですって」
「へえ。そんな年もあるでしょうね」
月子さまのお誘いを断るなんて、何か帝都から抜け出せない大きな御用でも控えていらっしゃるのでしょう。私ごときが推察することでもないのでしょうが。
「もっと驚くと思っていたのに」
佐恵子さんが拗ねてしまいます。
「そうは見えないだけで驚いているわ、十分に」
ふうん、と意味ありげに佐恵子さんは私の顔をじっと見据えます。
「だって、みやは今年も薮入りに帰らないんでしょう。ここに残るってことは、優さまのお世話をしなければならないのよ」
「あ、そうね」
すっかり失念していました。それでは今年の年越しは忙しく働いていそうです。佐恵子さんは呆れたように嘆息します。
「のんびりしているんだから」
「私がすることは何も変わらないわよ。使用人っていう一言で片付くのだから」
「そうだけど」
佐恵子さんはどこか煮え切らない様子です。
「やっぱり今年は私も残ろうか」
「急にどうしたの」
問い返しますと、佐恵子さんはちょっとね、とあとを濁します。そのあと、意を決した様子でこんなことを言いました。
「縁談が来ているの」
佐恵子さんはその言葉でどれだけ私が傷つくのか知らないのでしょう。私にとっては羨望そのものです。
「きっと断れない。だから、今はほんのちょっとだけでも働いていたいの。家のためでもあるけれど、みやをこのまま残していくのも申し訳ないし」
「断らないのよね」
「断らないわ、きっと」
それを聞いて安心します。
「うん、いいわ。ぜひともそうして。無理にとは言えないけれど」
本当は無理に引き止めたかったのです。使用人で来ている娘は皆そうであるように、佐恵子さんもまたこの屋敷を去っていくのを。新しい子がいくら入ってきても、やがては出て行ってしまう。きっと私は幾度もこうして同僚が去っていくのを見送ることになり……いつか一人になってしまうのでしょう。
それでも私は、彼女たちが幸せになるのなら、と別れ際に手を振ることになるのです。小説の不幸な女主人公のように立ち振る舞って、哀しさをすべてそれに委ねてしまうことでしょう。この感情は私のものではない、と嘘をついて。
「日取りが決まったら教えて。早いかもしれないけれど、お祝いを言った方がいいかしら」
冗談めかして、おどけてみせます。佐恵子さんは笑って、
「そんな。まだはやいわよ。顔合わせもしていないんだし。小学校の同級生だから、顔は知っているんだけれどね」
と、話を合わせます。でも次にその顔は曇りました。
「まあ、私たちの結婚なんてこんなものになるのよね。こうやって帝都に来て、何か出会いがあるんじゃないかって、夢みたいなことを考えたこともあったけれど、やっぱり行き着く先は同じ故郷なんだわ」
村で生まれた女は同じ村、もしくは近隣の村の男と結婚するものです。私もかつてはそう思っていたのです。いえ、それは今も同じです。村で生まれた女という括りに、私を入れなくなっただけで。
「昨今流行りの恋愛結婚なんて、それもまた夢なのね、私にとっては。でもさ、ねえ、みや」
佐恵子さんはかじかみそうになる手をふうっとあたためてこすり合わせます。その息が白く染まる日ももう近そうです。
肩をぶるりと震わせて、それでも佐恵子さんは瞳を星のように輝かせていました。
「私に、夢を見せてよ」
夢、と私はぼんやりと繰り返します。私は佐恵子さんに気圧されていたのです。
「みやはこの帝都できっとすごい恋に落ちるんだわ。みやはその人と幸せな結婚をする。子供もたくさんできて、死ぬまでずうっと幸せに包まれた人生を送るのよ」
「なあに、それ」
呆れるというより、苦笑するしかありません。
「安い三文芝居みたいよ」
「だから、夢、なんじゃない」
佐恵子さんは箒をさっさと掃き清めながら、世間話のついでのような調子で私に夢を押し付けます。
「みやはここで恋に落ちる。そうなることにする」
「予言みたいね」
私が困惑しきってしまうのも道理ではないでしょうか。
止まりかけた掃除の手を緩めぬよう、ことさら力を割きます。
「私と結婚する人なんていないわよ。今までいなかったのだから、これからだっていないでしょう。余計な期待なんてしないほうがいいわ」
私自身が信じていないのです。幸福な人生よりは、ひとりきりで歩いていくのだろうと、いつしか私はそう思うようになっていました。
三つの縁談が駄目になったとき、私は漠然と、私の隣には誰も並ばないのかもしれないということに目を向けるようになりました。世間で当たり前のことが私の当たり前でないと知ったのです。
「佐恵子さんはどこに行っても幸せになれそうね」
子どもの母親となって、きびきびと夫と子どもの世話を焼く姿が目に浮かぶようです。
佐恵子さんが羨ましいです。そうやって、自分の思ったように生きられなくなっても、佐恵子さんはその場所で新しい幸せを見つけるのです。
何もない田舎道に放り出されても、路傍に咲いた野花に目を留めて楽しめる人なのです。
「あら、ありがとう」
屈託のない笑みでした。
「でも、それはみやだって同じよ」
みやだって、幸せになれそうよ。佐恵子さんはお世辞を言う顔ではありませんでした。
「みやは賢いのだもの。きっと間違えないわ。ここぞっていうときはえいやっ、と新しい場所に飛び込んでいける。前、髪切ったことがあるでしょう。あんな思い切ったことができるのだもの」
あれは、と私は言いかけて、黙り込みます。時間がたてばたつほど、面はゆい気持ちが優っていきます。
「私、賢くなんてないわよ」
唸り混じりのような声で私はさっと顔を背けます。
「賢い女は自分が賢いなんて、これっぽっちも思わないわ。それでも周りはみんな賢いなって思うの。ね」
気づく人はきっと気づいてしまうわ、と佐恵子さんは何かの確信に満ちていました。
「私が思うに、月子さまやスミさんは気づいているわよ。だから、月子さまはみやを傍に置きたがったし、スミさんはみやに特別厳しい。厳しくしたぶん、その分返ってくると知っているのよ」
もしそれが本当だったとしたら。気づいた佐恵子さんも十分に賢いと言えるのではないでしょうか。
そんなことを思いますが、口にはしませんでした。互いに褒めちぎることになれば、負けるのは私です。
「佐恵子さん、そこ、まだ掃けてないみたい。ここは終わったから、次はあそこをやることにするわ」
掃除にかこつけて、私たちはごく自然に二手にわかれました。話題はなし崩しにお流れです。次、顔を合わせても、互いに覚えていないことが大半であるというのが、世間話というものなのですから。
賢い、ということはどういうことなのでしょう。
今日という日を振り返りながら、私は小さな日記に鉛筆を滑らせます。世間話は時間が経てば、互いに覚えていないことが大半ですが、だからこそ、私は心に残ったものは特別に、とどめておきたいと思うのです。
書き終わった後で、耳に入るのは同じ部屋で眠りについている佐恵子さんの寝息ばかりです。
以前は私の方がとうに早く寝ていたというのに、今では夜更かしは私の方となりました。寝る前にはやることが多いのです。
丁寧に装丁された薄い本が机から取り出されます。それと、縦に並べてあった大きな本が二冊。
頭に忍び寄ってくる睡魔を追い払い、ぱちぱちと頬を叩きます。
まだまだ読み進めるには至らない段階です。そもそも、二十六もある文字をようやく読み方がわかったぐらいで、あとは文法書と辞書をめくらなければ話にならないのです。
私はいまだ最初の一章でさえ、満足に読み解けていませんでした。
主人公は「Alice」という名の女の子です。発音には自信がないのですが、おそらく「アリス」というのでしょう。
この小さな女の子にはお姉さんがいます。その人に本を読み聞かせられながら、こう思うのです。「絵のない本、文字ばかりの本のどこが面白いのかしら!」
女の子は退屈しているようです。そこに「white rabbit」、白ウサギが駆け抜けていきます。
ここまで読みすすめたとき、私は白ウサギとは因幡の白兎と関係があるのかしら、と思ったものです。でもどう考えたって、これは西洋のお話ですから、それは私の勘違いというものでしょう。白いうさぎは「pink」、桃色の目を持っているのだそうです。機会があれば、その目を覗いてみたいものでした。
私は自分で書いておいた本の内容の覚書を読み返し、欠伸混じりのため息ばかりついてしまいます。ここまでくるのに、何日もかかったのです。ここから終わりまでたどり着くことを考えたら、気がさらに遠くに行ってしまいそうです。もしかしたら、この冬も終わってしまうかもしれません。なるべく早くお返ししなくてはと気は急くのですが、こればかりはどうしようもないように思えました。
本を読むのは好きなのです。それなのに、すべてを読み取れないことに歯がゆさを感じます。もっと要領よくなれないものでしょうか。
誰か身近に英語を介することができる方がいればいいのに、とないものねだりをしてしまいます。ですが、優さまも金井さんも元々お忙しい方たちである上に、私が気軽にお話できる立場ではないのです。私のこんな個人的な頼みごとは断られるはずです。
やはり、こうやって夜中に一人、分厚い本を広げていくしかありませんでした。考えはこうしていつものように一巡して、同じ結論に至るのでした。